底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

暴力での支配の意味を知っていない人達の多さ

第二次大戦中の上官で部下を事ある毎に鉄拳制裁を加えていた人が多い。これによって若者たちは「自分たちが悪い」と洗脳された。こういうエピソードは有名で、一般的にも「だから体罰はだめだよねぇ」という話になるが、中には「時には体罰も必要」という人もいて。そういう人は体罰=暴力を考えていなくて、自分が悪い事(盗み等)をしているのでまあ、罰として当たり前だなぁ、と思っている人もいて。そしてこの暴力と同じ効果を生む日本の教育に連帯責任というのがある。チームや同じ立場の人間が全員罰を受けるというものだ。

 

この時の「痛み」がポイントで、痛い事は誰だって嫌だ。そこに連帯責任が入ってくると「理不尽」という事もプラスされる。体罰の時点で理不尽と思う人もいる。この痛みを感じるのは確かに痛覚ではあるが、それは脳に記憶されて嫌な事となる。つまり、素早く相手の脳に防御反応を与える事ができるのが暴力(体罰)であり、認識していなくてもその痛みと不快は脳に刻まれる事で、例えば何度もビンタをくらった人はビンタをするような人じゃない人がフリをするだけでビクッと勝手に体が防御反応してしまう。

ここでのポイントは結局暴力(体罰)の痛覚と精神的苦痛を「脳」が覚えている、という事。この事さえわかっていれば、同じ事を暴力(体罰)を用いないでも出来る。それがパワハラモラハラだ。脳に直接言葉や態度、仕組みでダメージを与える事が出来るサイコパス性のある人が使う手段。そして、戦中でも使っていた「連帯責任」というやり方も残っている。連帯責任とは受ける側は少なくとも理不尽に感じる。まったく理論的ではないからだ。つまり、結局精神が不快に感じる。

 

さて、問題はこの後。脳への暴力(体罰)は言葉や仕組み(連帯責任等)、環境で作れる事がわかった。では、どのように言うことを聞かせる(洗脳)ように日本ではしていくのだろうか。それはとても簡単なプロセス。

ステップ①

受ける側が恐怖を感じる→次のステップへ

恐怖よりも理不尽を感じる→次のステップへ

ステップ②

上記2つはどちらも脳が嫌な事だ。この嫌な事を受けたのは自分が悪いからだ、ということを徹底する。納得しない人には人格否定や世間論、過去の過ち等総動員して攻め込む。完璧な人間など存在しないので、必ず何か一つは組織にとって不都合な部分は人間はある。そこを突くのだ。それでも負けじと同じ熱量で反論(反撃)できればこの洗脳から脱する事が出来るのだが、大概は上下関係があり反抗出来ない状態だったりするのでやっかいだ。

ステップ③

多くはこの時点で自分が悪い(もしくは自分がうまくやれなかった)と思ってしまう。なので自分を修正してこんな嫌な思いをしないように、と考えてしまう。相手だって悪い、と理不尽さを抱えて思い続けている少数はこの時点で組織からドロップアウトするか自殺してしまう。そして

ステップ④

ムチだけでは人は付いてこない。ここに自尊心をくすぐるような相対的評価を与える事で洗脳を強固にする。例えば、(連帯責任後)同じ同期の中でキミは頑張ったからちょっと出世、とか。それを見た同列の人達は同じ行動だったはずの人間が取り出される事によって自己の尊厳を傷付けられ、更にがんばるようになる。ここで頑張らない人間はステップ②を徹底され、鬱になったり自殺したりする。

 

簡単ではあるがこういう洗脳を大日本帝国軍隊は行っていて、同じ事が日本社会の様々な所で起きている。しかし、人の精神を追い込むわざ、という事に無頓着な人達とそれを熟知している為政者との溝が埋まらない限りこれらの手法が減る事は無い。つまり、パワハラモラハラも無くならない。教育現場で連帯責任という手法が未だに取られている時点で洗脳社会を変えようとする意思が教育者でも無いわけで、上司等権力を持つマジョリティーからすればこんな便利な手法はない。

 

近代国家の中で日本が異常にパワハラモラハラ等が多い国なのはこういった手段は幅広い階層の人達が自分たちよりも弱い立場の人に用いるからだろう。移民等多国籍が当たり前の国だとステップ①、ステップ④が効果的に働きにくい。なので別の手段で支配せざる負えなくて、それが賃金等の金という共通言語だったりもする。

 

なんでこんな事を今更書くかというと、最近言葉の暴力、組織的な排除等が過ぎるなぁ、と思ったからだ。この1年は特にひどくなった気がする。日本が組織の論理から個の人間の尊厳、尊重へとシフトして戦後が終わるのはいつの事になるのだろうか。

まるで神風特攻隊の時の社会風土となんら変わらないような気がする。