底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ここ数ヶ月、どん底だった件

6年以上一滴も飲んでいなかった酒をがぶ飲みの日々。デブになって。精神的にもすっかり参ってしまい。コロナで今年行動しようと計画していた事がことごとく駄目になったからだ、と思っていた。でも最近新しい事に気がついた。

自己肯定感がほぼ無くなっている事に。このブログを初めた頃に戻ったような。

なぜだ?こんなに急激に下がるものか?死んでしまうのではないだろうか?

で、考えた。酷い環境なのは変わら無いし、嫌な人はいるが悪人は少ない。むむ、

なんだ?

 

昔のエントリーで、明確に相手を傷つけようとする人はわかりやすいから離れればいい。近づかなければいい。しかし、傷つける意思が本人が無い場合、例えばナチュラルに相手を見下していたり、レイシストであったり、トーンポリシングを多様する人だったり。そういう性格の人は「無意識の悪意」の持ち主である、と書いた。それはある状況下の「接点」でしかその部分は現れない。そして本人も大人でうまくやろう、特に相手を利用してやろう(結果的には道具として相手を扱っているのだが)という悪気がない。そんな人は山程いて、そういう人から得るプラスもあってそのプラスがあるからこその人付き合いだ、と人は言うだろう。それは自己肯定感が一定である人の場合だと思う。

例えばプラスが5点。マイナスが4点。計プラスは1点。そんな付き合いの人は多分恋人、パートナー、友達なのではないだろうか。自分が求める事もあるのでプラスもある。ただ、私のような一人の人間の場合はどうだろうか。他人に求める事が何も無く自己完結している。となると人間の評価として当初&「接点」があっても計プラス1点だったはずが、その「接点」が再びあるとプラス加算が無い中でマイナスが増えてしまう事にならないだろうか。もちろん、過去のマイナスは消化して消えていくものでもある。プラス1点しかない関係でも長い年月でそれがプラス8点になっているかもしれない。そのギリギリのラインで怒ったり落ち込んだりする程のレベルじゃないマイナス加算があった場合。自分が気が付かないレベルで自己肯定感が下げられていると思うのだ。

そして私のような他人に介入せず、期待もしない人間は逆に他人に道具として利用されやすい。友達でも仲間でも無いから、時に誰にも出来ない相談(友達にはわからない、反応がない話)だったり、イジりと称した憂さ晴らしに使ったり。やっている人間は明確に私の事を道具とは思っていない。しかし、受けている私は友達扱いはされていない事は明確にわかる。そしてその事を特に荒立てる程傷ついているわけでもない。表面上うまくやればお互い嫌な気持ちをしない。

問題はここ。多分私は薄っすら傷ついているのだ。自己肯定感を下げられているのだ。この自己肯定感は私を道具として扱っている事だけじゃなく、いつでも捨てていい道具として人間性が否定も肯定もされていない事に気がついているからだ。そんな扱い、言動を受け続けていると気がつくと自己肯定感がどん底になっていたのだ。そしてアルコールに依存する。

 

こんな人間関係なんて世の中では当たり前。なのに敏感かつ繊細な私はいつの間にかボロボロになっていた。自己肯定感が下がった人間はセルフネグレクトになりやすい。更に自分で自分を否定するような事や考え方をしてしまう。

これは私が孤独である事、組織に属していない事にも起因している。ほぼ自由人だから明確な悪意から逃げる、という癖が付いてしまっていたのだ。しかし、この薄っすらの場合にも逃げてしまっていたのだ。そりゃ、駄目だ。会社員だった時は組織からは逃れられないし、クライアントは選べない。しかし魑魅魍魎が跋扈する世界。そこでコーチングを学んだ。自身を見た目上コントロールするのだ。現実は無理だったが、今の状況でもそれが使えるのではないだろうか。

自身で自分の感情をコントロールする。ずっと努力して来た事なのに、いつの間にか素直に感情豊かになる事=良し、と思っていた。ある意味正解でプラスの感情を素直に、マイナスの感情を抑えるのではなくコントロールするという事。何が何でも素直である事が自分にとってプラスではないのだ。

 

多分、「この歳になって」とか自分を年齢で限界を決めて自分に枠組みを作っている人にはわからないかもしれない。私は枠組みを作っていない。一生変化と成長に努力をする。ただ、それがマイナスも溢れてしまっていた事への注意が足りなかった。

 

自分を落とすのは環境や人ではなく自分自身。であれば上げるのも自分自身。その強さを手に入れたい。強くありたいと思う。