底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

大学のミスコンのジェンダーレス化は正しいのか?という問いについて

モーニングCROSS」という番組で整形を公言しているアイドルが大学のミスコンは女性差別に当たる可能性があるという事でのジャンダーレス化に異議を唱えていた。外見も立派な個性であり、それを売りしている人間もいるわけで、それを受け入れないのは多様性を認めない事だ、的な事を言っており、司会の堀潤氏も賛同していた。さて、この提言はどうなのだろう。

 

差別というのは根深い。あらゆる差別があり、その中でも世界的に浸透しているのは人種差別。これは未だにアメリカで暴動が起きるぐらいの問題。その昔、アメリカでのミスコンは白人のブロンドがグランプリを取るのが当たり前という時代があった。もちろん、それは人種差別であり、今はそんな事はない。どこにも有色人種はいる。しかし、まだ人種差別は根深いのでアカデミー賞は作品賞の対象に人種問題を入れ込んだ新基準を盛り込んだ。ここまでするのが人種差別。つまりアメリカの最大の差別問題は女性の美醜よりも人種だ、という事。とはいえ、その人種問題を乗り越えたセレブ達は美醜差別にまで関心を寄せている。そこをカッティング・エッジと捉えた企業も賛同して男女(特に女性)の美醜問題に取り組んでいる。それが渡辺直美アメリカで受ける部分でもある。日本のように外見を「デブ、豚」と笑っているのではなく、巨漢の子が抜群のスタイルのビヨンセを真似るという一生懸命さと大胆さに応援を送るという感じ。

 

では日本はどうだろう。この国も差別大好き。様々な差別があるの中でアメリカの人種問題のように日本で一番一般的な差別はなんだろう。これは毎年落ち続けている男女平等指数(ネトウヨが大嫌いな韓国よりも低い)でも明らかな男女のジェンダー差。これはどこから生まれるのだろうか。様々な社会的バイアス、要因がある。その中でも男女の性差に対する決めつけについては幼少の頃から根深い。その延長上が男らしさ、女らしさに繋がっているという説は否定のしようが無い。アイドル等の芸能人が政治的発言をしただけで叩かれる国だ。人間をモノ、象徴としか見ず、人間性の評価はしない。そんな国での大学のミスコンの位置はなんだろう。その時の流行りの美醜によって女性を選び、多くの女性がその外見をもってテレビ局に就職したりする。女性が外見によって仕事を得る、という事を公にしている。それも個性だ、というのはわかるが人間性を無視されている今の日本で女性の美醜による仕事の扱いが変わる事を最高学府の大学が認める事をしていいのだろうか。女性の地位の低さの要因は沢山あるが、美醜(年齢)だけで価値を決めつける事もその原因の一つになっていると考える事はいたって普通であり、それらを助長する取り組みをする事は大学側としてはアーリーアダプターでもある。

 

なんでも女性差別と言うな、と点で語るのは簡単だ。実際アメリカのキャスターや女優も人種や年齢はバラバラになったが美的にはある程度統一された基準がある。彼女達もそれは個性でもあるが武器でもある点で女性差別とも言えるかもしれない。しかしそれと比べて日本の大学が美醜でミスを選ぶというのは全く意味合いが違うのだ。バタフライ・エフェクト。女性の美だって個性である事は誰だって認める所だ。しかし、日本の女性差別、女性の地位の低さを考えるとまずは世間的「いい女」のバイアスを壊す所から始めるという手もあるのだ。こういう話をすると「フェミニストは細かい事うるさい!」っと言うやからもいるのだが、これは女性だけの問題ではない。女性らしさがあるという事は男性らしさもあるわけで、例えば男性ならヒモ、女性なら専業主婦と呼ばれるように男性も決まったレールの上ではない人間は行き難い社会を作ってしまっているのだ。それが200万人以上いると言われている引きこもりを生んでいるとも言えるのだ。

 

以上の事で日本の大学がミスコンをやめるという判断は社会を考える最高学府として今の時点では正しいと思う。