底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

東京で飼い始めて間もないとみられる生後1年未満の子犬や子猫の保護依頼が急増、の裏側考察

コロナで暇になったからいっちょ動物でも飼ってみるかな?と手を出した人が「やっぱ無理」ってなったらしい、との話が出ている。この事は今の日本社会を観察すると当然な気がするのよね。

暇だから(リモートで家にいるから)、で動物を購入出来る人は少なくとも

・まとまった金の消費支出力がある

・自分時間が出来てもさほど給与が変わらない(固定給がある正社員)

・動物が飼える環境

を少なくとも満たしていないとならない。それはコロナ禍で給付金が欲しい、家な無くなったという人達の対極にいる人達だ。

 

私がぽつねんと社会観察をしている中でこのブログでも何度も言っている家族がいていい所に住んでいる人達や仲間に囲まれている人達の特徴に

・仲間と家族以外は他人と認識しない

というのがある。つまり、見知らぬ人間を生物を認識しないのだ。今までのエントリーでのこのタイプの新しい人達の行動を簡単にまとめると

・道端で人が倒れていようが、電車で困っている人がいても無視

・公共の場で子供がマナー、ルール違反をしても無視

・車のウィンカーは曲がる時に点ける

・仲間で楽しめればいい、とどこでも自分達勝手にふるまう

等がある。私は今回の動物ニュースにはこの新しい人種だからこその行動だと思っている。というのも、そもそも他人という目の前の人間さえも平気で無視し、自分達(家族、仲間)で勝手にできるのだ。このクラスターの人達はウーバーイーツ等の自分達の行動で出来ることを金で解決するサービスにも抵抗がない。そんな人達が「今暇だから」で動物を購入する。彼らにとって動物など守る命の部類に入るわけがない。お迎えした限り命に責任があるとも思わない。だって、まだ家族でも友達でも仲間でも無いんだから。その精査をして嫌だったら返せばいい。命に対してそんな感覚。デジタルネイティブらしい、嫌な事は我慢せずに快適な所で快適に、が主義。

 

ペットにすればいい迷惑だが、近年周囲の透明人間扱いされている人間だって迷惑をしてきたのだ。他人を同等の人間扱い出来ない人間性の人達がなぜペットと辛抱強く生活ができるか。できるわけがない。

 

24時間は誰にとっても同じ。人間の処理能力はそこまで差がない。家族、仲間、友達。そして仕事と自分の時間。あふれる情報の中で消費支出力が高い為に自分の趣味に使える金と時間が普通の人(今でいう貧乏人)よりも多い。つまり、他の命について考える時間など無いのだ。

 

アメリカはまだ宗教がこういった情報、所得格差による倫理、哲学を埋めてくれるが日本にはそれがない。そうなると人間本来の姿って、こうなるよね。