底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

「昔のツイッターは・・・・」というツイを見て

「起きたなう」

などのサービスの語源となったのが多かったよね。それで利用していた人は(自分だけじゃない)ってつながりを感じていた。私はそんな事でつながりを感じるタイプではないので登録はしていたが利用していなかった。

そして今。

ツイッターはアカウント自体に明確なブランドが必要になっているっぽい。例えばブームで言えばキャンプ垢。基本キャンプの事しかつぶやかないし、それ関係の人しかフォローしない。そして他人はそれを見て同じようなカテゴリー垢でフォローし合う。だから「バズる」という事が生まれる。この流れはSNSを利用して広告費を稼ぐインフルエンサーが生まれてからの流れ。ファッションならそれに特化した事をつぶやく。なのでツイッターというSNS

①特定分野に特化したインフルエンサー

②芸能人(公人)

③一般人

となっていた。しかし今は①の真似を③がしているのが一般的。なになにで繋がる、的な。そしてその方が一般人でもフォロワーは増えるし、1点で繋がれて都合がいい。難なく趣味嗜好、状況等だけで同じような人と繋がれるわけだから。これが群れるのが好きな日本人に浸透した。なので一般人でも複垢は昔であれば裏、表ぐらいだったのが自分が他人に見せるフェーズ毎の複垢となった。

 

なんでしょうか。他人が人じゃないような。同じカテゴリーだからといって人間性がほぼ見えない。自分も相手もみせない。あるのはそのカテゴリーに対する思想行動だけ。そんなのその人を表す人間のほんの一部。しかしそれだけで十分な感じ。

この希薄さ。自分にも他人にも。そのくせにそのカテゴリーで盛り上がると実際に会ってしまって起きる事件の多さ。やっている事と現実が折り合っていない。

 

日本人の人間性を見る力の弱さをよく表している。自分が好きなカテゴリーに対する自分と同じ思い=自分と同じような見識の人で気が合うはずだ、と想定善に基づいてしまっている。そして自身の人間性はひた隠しにする=他人の人間性も見ない(見れない)。

その発展系が最近ユーチューバーに会える等の事件やオンラインサロン等になってしまっている。一種の宗教。自分が出来ない、もしくは自分の考えの延長上(妄想上)の成功者にあこがれてしまって従ってしまう。そう、これはカルト宗教と同じだ。

 

日本国民が細分化されたカルト宗教団体のようになっているのはなぜだろうか。私はこれを日本人全体にはびこる、おっさん達(政治家、メディア)が作り上げた人間性を無視した、年齢、性別等で判断されるバイアスがついてしまい、そのように他人にもしてしまっているのだと考えている。逆に、そのカテゴリーに当てはまらない人間については完全無視が出来てしまうのだ。情報量的に先に人間がこない。先にくるのは特定カテゴリーに所属する(自分が望む)人間。これはとても危険で、社会が崩壊する可能性もある。他人をまず自分と同等と認識すれば起きないであろう事件が近年起きすぎている。

 

なんて事、色々考えたなぁ。日本のツイッター使用の歴史を振りかえってみて。