底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ホームレスとデートの記事のプチ炎上について

なんかね、一部の支援者の人達にとっては「ふざんけんな!」な感じらしいのよね。問題は色々あって。

①筆者のホームレス、西成区新今宮への見識の薄さと記事ありきの行動

②この記事で感動した、という人達

③批判する支援者達

 

個人の記事なのでそこで思想が支配される事がそもそもない。こういう人もいるねぇと思うだけ。なので「感動した」という人達がいるのであればその人達がバカなだけであってその人達はこの記事があろうが無かろうが貧困層の事など理解しようともしないし興味も無いのでどうでもいい。こういう恵まれた人達こそが周囲に関心を持って欲しいものだが、今の社会はそういうわけにいかない事は誰もがわかっているはずだ。

なので記事、称賛者共々今の社会だなぁ、というだけ。

支援者が怒っている気持ちもわかる。具体的に文章を細かく抜き出して批判している人もいる。しかし、これは他人の言動でありそれをコントロールする事は出来ない。支援者達はこのような貧困アプローチをビジネスとして売名行為をする記事を無視する事によって、こういった人達が増加する事を危惧している。貧困層が当たり前のように見下され、人間として対等としれ見られず、かわいそうな存在として扱われる事が一般化する事を憂いている。その事もすごくわかる。

 

しかし、これが日本社会なのだ。ある程度大人になると他人に急に今までの自分と違う事を言われた所で考えを変える人などほぼいない。あるとしたら思考の余地(方向性)を常に複数持っている人だ。大概は経験(教養)というバイアスに支配されている。なので支援者達が考えなければならない事は記事や筆者を非難する事ではなく、この記事を書いて&称賛する人達がいるのが日本社会であると認識し、どうしたらそういった人達が減る社会になるのか、と考えるべきなのだ。その為には貧困層直接支援だけでは絶対に無理であり、政治、大手メディアも利用しないとならなくなるのだ。そうなると次にあたるのは差別というのは日本社会全体に及ぶ事であり、貧困層単体焦点では解決する問題ではないという事に気がつくだろう。

 

余談だが、施しを受けたホームレスはどう感じたのだろうか。普通の生活を遅れる女性がお遊びで訪れて屈辱に感じただろうか。底辺が長い私からすれば屈辱は感じるだろうが、それを上回る喜びもあったと思うのだ。だって、普段金を出さないと話す事が出来ない若い女性と半日以上会話が出来たのだから。貧困と孤立はセットである事が多い。例え貧困かつ周囲に話しができる友人がいようともそれは同じ層であって脳の刺激というか、自らの居場所として価値がある一方、人間のプライドとして自らはこの地位であるという事を毎日噛みしめ無ければならない。諦めの日々を送るという苦痛がわかるだろうか。結局自分が悪いと思ってしまう自己肯定感が皆無の中、「俺らも同じ人間だ」という言葉がどれだけ空虚に響くか。

そんな中、若い女性が施しであろうとも声をかけてくれた。どれだけ嬉しいか。そんな事を考えてしまう。