底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

自殺行為の意味を知った

久しぶりの底辺くんです。

 

先日久しぶりにバイク(大型)に乗り、富士山方面へ日帰り。本来、こんな維持費のかかるモノは手放さなければならない身分だし、過去の思い出(見捨てられ感)から開放される為にも断捨離すべきなのだが、やはり固執してしまっているのは心の執着感がまだあるからだろうか。

そんな事を考えながら高速を走っていると、なんだか普段よりも全体的に軽い気がする。そう、スピード。私は本来燃費を考えて80キロ前後でトコトコ安全運転する方なのだが、それどころじゃないスピードを出しているのだ。で、本来1時間半かかる所を1時間で到着。

 

問題は帰り。すっかり暗くなった高速。所々長い渋滞。しかし私は高速ですり抜けを続けた。ノロノロ渋滞の時のすり抜けはバイクの常套手段ではあるが、通常は40キロ~60キロぐらいのスピードだろう。というのも、車がいつ車線変更をしてくるかわからないからだ。なのに、私は80キロオーバー。しかも段々そのスピードが上がるのだ。夜だから車からすると眩しいヘッドライトは後続車と混じってしまい、バイクが中央から来ることはかなり見えにくい。つまり、ウインカーを出して車線変更をする車を目視できた時点で私は死ぬかバイク共々大怪我する事が確定するのだ。

そんな事を考えると益々スピードがあがる。頭の中はまるでゲームのようだ。赤いヘッドランプ達、私を殺しに来い。そんな考えさえ浮かぶ。結局、渋滞の中、普段以上のスピードで帰宅してしまった。

 

今日はたまたま運がよかっただけ。このような運転をしていたら私は遅かれ早かれ確実に事故死するだろう。なぜ私はあのような行動をしてしまったのだろう。

 

まず、ハラハラ感、という高揚、刺激がある。これはギャンブルと同じモノである。金も権力もある人が1日に数百万賭け事に使う話を聞いた事があると思うが、これと競馬上の底辺のおっさんとは実は同じ高揚感を感じているのだ。実生活でのダメージこそ違え、精神的ダメージはかなり近いレベルにあったりする。なのでその刺激を知ってしまうと、他で補う事が出来ず、中毒になってしまうのだ。そういったギャンブルで一番の賭け事はなんだろうか。それは命のやりとりだと思う。私が感じた命をかけている感じ。いつ死んでもおかしくない。その中でアクセルを上げ続ける感じ。

ここで問題なのが、ギャンブルに必要不可欠な「恐怖」が私には無かった事だ。金でもそう。失う恐怖があるからこそ、勝った時の高揚が最大限化する。私は命をかけているにも関わらず、それが無かった。だからあれだけスピードを上げれたのだ。

 

一般道に入って、ふっと考えたのは中学時代にいじめられ続けたいた知人(いじめらていた事は卒業後知った)が高校生時代にバイクで峠で事故死した事。彼は高校も第一志望校に入れなかった。今ならそんな彼の気持ちがわかる気がした。自分が社会からも誰からも必要とされていない感。自分が死んでも生きていても何も変わらない日常。私は以前はバイクに乗って出かけると、変な言葉だが、帰る為に帰っていた。帰ったら待ってくれている人がいて、その人のために帰っていた。だが、高速で危険なすり抜けをしていた私は、何のために帰っているのか、理由がわからなかった。なぜこの心の休まる事のないボロアパートに戻らなければならないのだろうか。何のために孤独で孤立した現実に戻らなければならいないのだろうか。戻る必要なんて何処にも無いのだ。なので思う存分、命をかけて走る事が出来たのだ。

私の知人も多分、同じだったのだと思う。帰る必要が無い。なので、峠を人の限界を超えて攻める事が出来、そして亡くなったのだ。

 

今思い返しても、あれほど危険な運転をしておきながら恐怖感などは一切無く、バイクと自分が一体化して溶け入る感じというか、そのまま夜の闇の中に消えていく感じの方が強い。このイメージは多分、「死」そのものであり、その言葉が発する強烈な印象というか、心象によって行動してしまう事がいわゆる、自殺行為、なのではなかろうか。

なので、同じ自殺未遂でも、その行動動機の背景が「死」なのか、もしくは「かまって欲しい」という愛情欲求によるものなのかによって違うように、ある行為でも、それが単純な刺激依存による行為なのか、自殺欲求によるものなのか。この見極めは慎重にしないと、単純な出口行動だけで判断すると手遅れになるんだろうなぁ、と人事のように考えたのだった。

 

今私には、「ああ、バイクに乗りたい」「しばらく乗ってはいけない」という2つの考えがある。後者はもちろん、このままではすぐ事故死するからであるが、面白いのが前者。本来、対比的には「死にたい」という動因になるはずなのだが、そういった考えが浮かぶのではなく、「上がったバッテリー補充の為にも走らないと」「しばらくキャンプいっていないからそろそろ再会しようかしら」等、まっとうな理由ばかりが浮かび、だから「バイクに乗りなさい」に理屈的にはなっているのだ。普段とは違う自分の行動、今の自分の人間性分析をもししていなかったら、バイクに乗る理由の方がまっとうであり、乗らないという選択肢自体無かったと思う。その状態がまさに中学時代の知人なのかもしれない。意識としては死ぬ気などさらさら無いのだが、実は自殺意識にコントロールされたまっとうな理屈によっての行動。そう考えると今の私の日常の状態も緩やかな自殺なのかもしれない。