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底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

渋谷ハロウィン2015 に行って来た感想

単なる日記

何でも1人で出来て楽しんでしまうのだが、それは誰もが出来るわけでもなく、むしろ1人だとおかしくない?という固定概念がある人もいる。日本はこれから更に未婚率が上がる為、綺麗に既婚者と未婚者の生活スタイルがわかれる時代が来ると思う。その時、いつも誰かといないと動けない、という依存度は現状、男性の方が強いと思われる。女性の方がむしろそこら辺の精神性は強い。

という前置きの元、ハロウィン時に仮装してクラブには行った事があったが、mixiニュースの、現場に参加した事ないだろう人間達のハロウィンへのクソコメントの多さに対する嫌悪感で、まさにその渦中を体感して実際どうなのかを知るべく、20時半に渋谷へ。

向かう電車内でも続々と仮装の人が乗り込んでくる。血だらけの若者たちが乗り込んでくる不思議な空間。
渋谷到着。スクランブル交差点に向かう事さえ困難な程の人混み。経験上、過去最高の人混みだと思う。単純に人が多い事だけでなく、そこら中で撮影会が始まる事が事態を悪化させているのだ。とはいえ、これはとても興味深い事で、見ず知らずの人達が声をかけあって、イケてる仮装の人達の写真を撮ったり、時に一緒に記念撮影をしたりする。原則、それで終わり。若い男性とかはそれで「写真送るよ」ナンパをしている人も若干いるが、渋谷スクランブル交差点を中心とした、ちょっとした仮想(仮装)リアルSNSといった感じ。それもテンポラリーのアカウント(仮装しているから)でちょっとした交流を他人とするわけだ。これはまさに、昔の日本のお祭りではないか。今でこそ、お祭りはテキ屋がいて神社等の催し物的になっているが、日本では伝統的にお祭りとは男女の出会いの場の提供だったのだ。現代は当時のようなフリーセックス時代ではない。そんな現代のちょっとした他人との交流。渋谷の街はそうした、なんかピースフルな雰囲気に包まれていた。

というのも、仮装している人達は無意識に仮装の人達しか見ないような感じで街を歩き、非仮装の人達は両方を見るという、世界が次元が違うかのように分断されているのだ。これはとてもおもしろく、私はマスクをすると一気に全身が仮装状態になる、特殊な服装でいっていたのだが、マスクをしないで歩くともちろん、大混雑の中、誰も見向きもしないただのおっさん。しかし、マスクをして歩くとどうだろう。写真は撮られるわ、「お、◯◯(キャラクターの名前)だ!」「スゲー!」と見ず知らずの方々が次々と声を上げてくれるのだ。これは思いの他気持ち良い。他人からの注目が気持ちいい、という事ではない。自分の仮装とはコスプレイヤーでない限り、本人はたいして実感が無いものだ。それが目に見える形で他人に評価される快感。これは先ほどのリアルSNSで言う、「イイね!」ボタンのようなものだ。別にフォロワーを増やすつもりもない、ひっそりやっているTwitterでの見ず知らずの人からフォバよりももっと軽い感じ。ネットのSNSは少なからずアカウント情報が見える。このリアルSNSはもっと軽い。相手はどんな存在かわからないのに、そこにリアルに実在するわけだから。

 

そんなマスクをする、外す、という事を繰り返して実験をしつつ、主だったイベント会場にも行ってみた。それを書くとかなり長くなるので端折るが、渋谷中、この混雑なのに、ほぼゴミなど散乱していなかった。朝になったら仮装のゴミや空き缶などが増えるのだろうが、それはこれだけの人がいるのだ。ゴミを捨てるような人は必ずいる。これは比較的タバコのマナーがいい渋谷でも、路地に入らずともタバコのポイ捨てをする人がいるのと同じ。駐輪場があっても駅前にマナー違反駐輪する人達と同じ。私の体験上、ある一定の集団がある場合、必ず1割程はこういったマナーをなんとも思わない層の人達はいるのだ。その原因は教養なのか、ただのバカなのか、はわからないが、必ずいる。その割合を考えても、ハロウィンのゴミ散らかし率は混雑を考えるとかなり少ない方だ。これは日本人のマナーの問題であって、ハロウィンの問題ではないのに、なぜかハロウィンの問題としてマスコミが取り上げるので、無教養な庶民がそれにひっかかってしまい、アンチハロウィン論調を盛り上げる事になってしまう。マスコミ側の上層はもちろん、このゴミ問題がハロウィンの問題ではない事は知っている。しかし、ハロウィン問題にした方が視聴者にウケがいいから仕方ない。

 

ここでアンチハロウィンの人達の論調があまりにもウケるのでちょっと解説してみる。ゴミは上記の通りだが、起源のそもそも論とか、日本の伝統論とかが主な武装になっている。そもそも論でいってしまうと、日本ではそこら中で行われいる阿波踊りのお祭りや、旧暦を無視した七夕等、お祭りの起源を無視する事は日常茶飯事。そのこだわりの無さがある意味、日本人のいい所でもある。そして、取り入れたらアレンジして自分達流にするのも日本人は得意だ。

また、外国のイベント、という事での批判例としてサンバカーニバルやオクトーバーフェスだってハロウィン否定派の理屈では非難を浴びてもいいはずだ。しかし、これらは非難されない。なぜか。それは例えば、サンバは多くの庶民が「自分達は参加するものではない」と思い込んで、見世物と思っているからだ。これは阿波踊りもそれに近い。オクトーバーフェスに限っては、酒を飲む行為、という部分で庶民的には日常の延長上であり、自らが容易に参加者になれる事で、当事者意識として、社会的な事まで意識が及ばない。これは主体者として本来あってはならない事なのだが、大衆とはそういうものだ。

では、ハロウィンはどうだ。これは庶民がコストをかけずに容易に参加出来る。明日がハロウィンだった場合、当日だって間に合う。しかし、阿波踊りは同じ状況では参加出来ない。ここが大きい。では参加するもの、参加しないもの。この間には何があるだろうか。地域という事もあるが、それよりも一歩を踏み出さない、新しい事をしない、1人で仮装は恥ずかしい、等の既製の固定概念にとらわれている人達が少なからず一定層存在している、という事なのだ。ある調査によると、東京在住の7割がハロウィンに違和感を覚えるとの事。これをわかりやすく学生の時のクラスを考えてみればわかる。文化祭の時、クラスを仕切ってやたら楽しくフェス感覚でやっていた男女は上限3割ぐらいではなかっただろうか。合唱のように力を合わせる事は別。多くのイベント事で下働きする層だとしても、やはり上限3割ぐらい。1割ほどの事もある。つまり、このマイノリティーがハロウィン参加者なのだ。残りの7割ほどの人は、自分達から参加権を放棄しているのだ。その自己弁護として、相対的に考えても理屈が通らない批判が出てくるのだ。この層は学生の時のヒエラルキー的にもそういった層であると思う。自らを変えず、一歩を踏み出さず。しかし、変化をする人の事は忌み嫌う。そしてその批判が通らないと知るや、今度は無視を始める。ある意味、だから大衆なのだ。

 

私が感じたハロウィン。それは渋谷という街をリアルSNSの場にする、日本伝統の祭り文化を引き継ぎ現代風にアレンジした、新しいお祭り。日本が無くした風習が、社会の自然発生的な求めに応じて、海外のお祭りの力を使って復活したもの。

今後も社会の変化と共に、人の欲求に応じて変化していくのだろう。企業が仕掛けたとしても、それは関連ビジネスを考えての事であって、私が感じた社会風習の復活を考えたわけではない。

 

今後もこういった形の旧日本のお祭り文化の亜種が生まれるかもしれない。