底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

創価学会への勧誘が更に激しくなった件

 前からもちょくちょくあったんだけどね。今無職の状況が続いているよ~、と伝えたら、勧誘、激しくなるよね。聞かれたら嘘つく必要もないからさ。

そう、私は人間を無視するとか、そういうのは一番卑怯なやリ方、って思っている人なの。マザー・テレサがいう、「愛の反対は無関心」っていうのを、結構信じちゃっている妖精的な部分があるわけ。だからラインをブロックなんかしない。ちゃんとがぶり4つで付き合う。でもそれも限界くるよね。なぜなら話の平行線になるから。

私、議論は大好きなの。違う意見の人とやり取りして。新しい考えを取り入れる。肉体が筋トレ等、トレーニングよって鍛える事ができるのと同じ。精神もトレーニングして鍛え続けないといけない。そのやり方は常に刷新して行く力、自分で考える力だと思うし、それが人間の力の根源だと思っている、ちょっとライトノベルの精神世界的発想なわけ。もちろん、これはこの長い辛い人生でたどり着いた事。だから、全員が同じ教義でつながっている宗教という団体はそれによる安心感、そしてその安心感から生じる幸福感。そうした事を否定する気はサラサラないのだけど、私からすれば精神トレーニングの停止であって、私の生き方と相反するわけ。

後、同じく、生物の反映には多様性が必要とも思っている。それは肉体や種だけでなく精神にも多様性が無いと、成長も反映も無い、と思っている、ちょっと神目線な主義でもある。だから色々な考えの人がいるのが当たり前で、それを皆尊重し合う事が大事、と思っているの。

だから、絶対に宗教はやらないのさ。この事は面と向かって説明している。でも宗教家からすれば、「本物の宗教家にまだ合っていないからだ。」と言うわけで、更に上の幹部に会わせようとするのよ。本人は支部長なんだけどね。

もし会ったとして、私は他人を無碍に出来ない質なので、そうなると先方も「いや、別に入会しないでいいから」と連れ回す戦法になるのは必死。そしてずるずる色々な会や催しに参加させられて。最初は無料だけど、超極上の肉会とかはさすがに有料とかなって。そうなると、今度は有料の会が増えて。それつながりで仕事を何本かして。そうなると外堀が埋められる。

「途中の仕事A、B、Cを完結させるにはDが必要。でもDは学会員じゃないと出来ない。だからまだ半信半疑だと思うけど、とりあえず、学会に入会したら?だって、今までの入金考えたら正直入会しているのと変わらないよ?」

なんて言われてしまったら。もちろん、そうした事を利用して芸能界で活躍している人もいるでしょうけど。私、人間の成功とは精神の統一も含んでいるのでね。自分の信念を曲げてまで生き続ける事に疑問を覚えるので、やっぱり無理よね。だから私のような断れない人ははじめから参加しちゃいけない。

だからついにはっきり言ったよね。

「勧誘は迷惑で、私の気分を害する権利はアナタには無い」

ってね。そうしたら止まった。

 

ただね、彼は本当に良かれと思って勧誘しているんだよね。中年で無職で孤独なんて。なんて酷いんだ。アナタはそんな所で埋もれる人材ではない!って本気で救おうとしてくれている。ただね、これは結局今の私が世間的に不幸な存在である、というのが前提なのよ。これがまた腹が立つのさ。確かに、このブログの作り始めの時は自分が世の中で一番不幸だ、ぐらい思っていたさ。何か吐き出さないと自殺しそうだったからブログ始めたのも事実よ。でも、その孤独と社会のヒエラルキーの底辺でじっと耐えた結果。それはそれで新たな境地に達しているわけさ。立場は何も変わっていないどころか年齢を重ねている分、年齢差別がある日本社会では更に底辺の存在だと思う。でもそれは他人が決めつけている事であって、自分が決めつける必要はないよね。もちろん、何も考えずに毎日ゲームとかしてい精神鍛錬も何もしないのであれば確かに年齢の重ねなんてなんの意味もないのかもしれないけど。私なりに修行僧のように鍛錬しているわけよ。だから、世間一般の常識で見て私を不幸と決めつけているその態度って何さ、となるわけよ。本人はもちろん私を馬鹿にしているつもりは無い、っていうけどね。自分が知っている常識の範囲を越えているんだよね、私って。そりゃそうだよ。神様じゃないんだから、他人の人生を推し量って決める事なんて出来ないんだから。

それとね、幸福ってある程度誰でも決まっているのよ。定職があって、定収入があって。家族がいて。友人がいて。幸福学だと年収700万以上は金額による幸福度は変わらないっていうしね。実際私もそれ以上もらっていた時もあるけど何も変わらなかったね。でも、不幸は違う。不幸は人それぞれ。全く違う。年収2000万円を超えていていても人生に不幸を感じる人もいる。それはつまり、他人に理解されにくい、という事。つまり、不幸とは、孤独なんだよね。

あ、これ名言。不幸とは孤独。他人に真に理解されない、という点でね。だから宗教家はそこに寄り添ってくるのよね。基本、不幸は他人には理解されない。だからこそ、そこに親身になってくれる人ってなかなかすごいわけよ。でもこれを計算として切り捨ててしまうのはかわいそう。彼らは本当によかれ、と思っているのだから。足りないとしたら、不幸で弱っている人間の思考を本人の意思とはいえ、洗脳に近い形で勧誘してしまう事に対する罪悪感を全く感じない所かしら。まあ、それが善行なのだから罪悪も何もないんだけど。

 

という事で、無事怒涛の勧誘攻撃から逃れる事が出来た、というお話でした。