底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

一線を越えていなければOK?

日本では不倫は禁止ではない。アメリカのように宗教上の理由も無い。しかし、結婚は当人の意思で書面を提出するだけでできるが、離婚の申し立ては双方の合意が無いと簡単には出来ない、というのが面白い。なので、一応判例として浮気として肉体関係があったら離婚事由にあたる、としている。これは心の問題、人間とは?人間性とは?という問題を軽視している日本らしいやり方だ。

 

子供の頃に不思議に思っていた事がある。喧嘩をして怒られても「暴力はダメ」と相手の肉体にダメージを与える行為をした人が一方的に責められるのだ。私は子供心にそれが不満だった。なぜ暴力だけが特別なのだろうか、と。言葉の暴力だってあるのに。

 

大人になってそれがわかった。日本人は目に見える(世間に触れる)事だけを注意する人種であり、そこに人間性、人間への敬意が無かった、という事を。その方が確かに教師や上のモノが仕切るのにやりやすかったのだろう。なので実際子供よりも大人の方がいじめ(パワハラ)は酷い。痴漢行為、大人が未成年を性の餌食にしたり。すべては教養過程で「やってはいけない」という注意に心の問題、人間性への敬意が無かったからではないか、と思っていて、それによって自ら学ぶ事をしてこなかった人は自分と家族以外の他人に対して敬意を払うという回路がなくなってしまっている。それは意図ではなく自然にそうなってしまっているので、タバコの煙を吸わせてもなんとも思わない。

 

そんな日本人相手に不倫を否定するのに簡単なのは表題のセリフ、セックスはしていない、だ。これによって人間性を軽んじる人種の人達は何も言えなくなる。事実が無いのだから。それを疑うしかなくなる。

 

しかし、セックスをしていなければいいのだろうか。

例えば妻子(夫子)がある身だとして。結婚していさえいれば好きな人(浮気相手)が出来て、パートナーとのセックス時でもその相手を思い出して。辛い時にはその浮気相手に甘えてもいい、という事になる。これはまさに肉体関係という事実(暴力がなければ)がなければとりあえずセーフ(パワハラもOK)と同じだ。人間性、その行為の精神が置き去りになっている。

 

長く一緒にいれば肉欲的な刺激は確かに劣ってくる。これは慣れと始めての事が無くなってくるのだから当たり前だ。そこに加齢が加われば男女とも自分の性の衰えを若い人に託したくなるかもしれない。しかし、一線を越えない浮気の場合、それこそ結婚相手と向き合う事を拒否する行為にあたるのではないだろうか。離婚した人の言い訳によくあるのが、一生同じ人を好きでい続ける事は無理、というのがある。果たしてそれはほんとうなのだろうか。

それは「好き=刺激」と同意になってしまっているから、それが冷めるという事になってしまっている気がする。相手を外見や条件で選んでしまった結果の人に多い。しかし、人間性を愛する、と決めた場合。その「好き」には際限がない。というのも一生かけても他人の事を100%わかる事はないからだ。それは自分も知られる事が無い、と同意でもある。

だから結婚すると決めた以上、自分がその時の精神が必要としてしる人にただ点でつながる、ということは結婚相手への裏切り行為であって、これこそ浮気なのだ。自分のフェーズが変わり、悩みも変わる。その時にこそ、パートナーと話しあい、一緒にやっていく。それが他人と一緒になる、という事であり、相手を思いやり愛する、という事だ。なので、一線を越えていようがなかろうが、結婚相手の人間性を必要としなくなった時点で浮気なのだ。

 

と結婚していない私が力説。