底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

為末大氏のオリンピックのメダルに対してのツイートが話題になっていたので

話題になっていたのが以下の内容。

<---ここから--->

税金を投入したのにメダルが取れなかったという議論の恐ろしいところは、税金が使われていない人間などいないわけだから、すべての人が税金を使われただけに見合うリターンを国家にもたらしているのかという発想になる。

</----ここまで--->

大体メディアやネットの反応は以下に集約されていると思う。

・オリンピック選手に対する話。予算を受け取る側の責任とか頑張っている人、みたいな

・税金を投入されるリターンが無いと断定される人達との比較。生活保護受給者や肥大化した議員定数など

 

私が違和感を覚えるのは、どれも為末氏が言っている事とズレている事だ。すべての人間が税金を使われただけに見合うリターンがあるべき、という事が真である場合に、税金を投じたのに・・・、という論理が成り立つのであり、それは恐ろしい事だ、と言っているのだ。字面そのまま。しかし、そんな事は絶対にありえない。であれば、金額でリターンを決めるのだろうか?その金額の基準はどのように定めるのだろうか?低投資高リターンがベストなのは言うまでもない。しかし、そんなうまい話ばかりでもない。そうなると現実的に税金を受け取る当事者にそれなりのリターンを求めるという事は土台無理な話、という事になる。これが無理な話にならない、と思っている人はオリンピック選手と生活保護受給者をピンポイントで比較して話すからだ。そんな偏った話ではなく、日本国民の大多数である、一般国民、特に自分を当事者として考える必要がある。

自分に今まで使われてきた税金(間接的な額も含めて)と同額の一般人とくらべて、それに見合うリターンと国家にしてきた、と胸を張って言える人がどれだけいるだろうか。そもそも国家にリターンをしよう、と考えて生きているだろうか。社会に貢献する為に人口を増やし、ダイバーシティ化を目指して日々努力。ただ生きて納税しているだけでも貢献だ、という人もいるかもしれない。しかし、今まで自分に使われて税金と同額の人で高額納税者になった人と比べて国家に対する貢献度は低い。逆に納税額が低くても子沢山の家庭を作っている人の場合、独身の人は多少納税額が高い程度では使われた税金に見合った国家へのリターンという点では弱い。

結局、税金を受け取る当事者の問題にする事は理論的に意味がなく、配分する為政者の問題にすべき事なのだ。そう考えれば、

高齢者に対する多額の税金投入も、長生きした高齢者を批判する意味はなく、金をバラまく政治家を責めるべきであり

生活保護受給者を責める意味はなく、最低労働賃金年収よりも高い保護費のバランスを考えるべきであり(必要なら仕方ない)

メダルを取れなかった選手を責める意味はなく、予算配分に対する効果測定を考えるべきであり

 

つまり、税金に対しては自分自身こそが当事者なのであり、その額の大きさ云々で自分よりも恵まれている、優遇されている、と妬み嫉みで批判したいとしても、それは受け取る当事者に向かうのではなく為政者に向けるべきであり、その結果が選挙でありそれが民主主義なのだから。

 

社会をつくっている根本的な当事者である意識が希薄な人間が多い日本だからこそ起きる話題だなぁ、とつくづく思う。

 

 

 

フランスのトラック突っ込み事件での各国のテロ対策発言について

80人以上が亡くなったフランスの最悪の事件。その後、各国がテロへの対策を強化する、的な発言をしていたのでそれにかなり違和感をもった。

犯人は直前まで宗教色もなく、金も無くなり、妻にも離婚されて酒におぼれて自暴自棄になっていた、との話がある中、それを「テロ」と言ってしまったら日本でおきた秋葉原殺傷事件も同じ「テロ」という事になる。そして、各国がテロ対策をする、という事は。それは物凄く簡単な事。

なるべく貧富の差を無くして、人種、宗教、地域での差別を無くす。これが本当のテロ対策。というか、これしかない。では各国の「テロ対策強化」とはこの事を言っているのだろうか。そうではない。単純に警備強化の事を言っているだけだ。それはテロ対策とは言わない。「テロに対して、警備を強化する」が正しい。つまり、どの国もテロ対策をする気はない、既得権益層はその権利を手放す気もないし、格差を利用して貧困層を作る事になろうとも稼ぐ事は止めない、という事だ。

だからテロを起こそうとする人が生まれる。そんな社会を憎む個人。組織。はじき出されてしまった人々からすれば当然の怒りとも言える。

 

人間とは文化宗教、地域が違えど、歴史的に見ても他の人間を下にする、ヒエラルキーを作る事によって社会を形成してきた。現代は人間が作りし最も完璧な人工物、MONKEYによって貧富の格差はピラミッド型とは言えない程の圧倒的な差を創りだしてしまった。これは人間の進化なのだろうか。それとも退化なのだろうか。どちらにしても、最下層の人々だって人間だ。考え、行動が出来る。テロという形でしかそういった社会には反抗する事が出来ないし、それしか有効な手段はないだろう。国と国が戦争をしたのは様々なリソースを奪いあう為。現代は交易によって奪う必要が無い。なので戦争をするのは効率が悪いから通常の国であればする必要がない。現代の戦争は最下層の人々が自分達を見て見ぬ振りをしている社会に対しての報復としての戦争なのではないだろうか。何かを奪う、という事ではない。奪われ続けた人々の逆襲とも言える。

 

テロ対策。それは人類が次のグローバル社会にむけて、新しい社会を形成しなければならない、いわば進化しなければならない究極の課題なのだ。そしてその事については世界のリーダーと呼ばれるような非政治の世界の人々は気付いており、警鐘を鳴らしているが、政治=経済界である今の世ではなかなか難しい。

自分たちには関係ないと思っている庶民こそ、社会の構成員として真剣に考えないとならない重要な問題だ。テロ対策という問題は。

ドラマ「ラストキス」の永尾まりやとマスカットナイト

最後に必ずキスをするドキュメンタリータッチのドラマ(雰囲気的にはテラスハウス的な感じ)があり、それにAKBを卒業したての永尾まりやが出演していた。AKBGのDDである私からするととても違和感があって見ていられなかった。完全なドラマならなんともない。下手にドキュメンタリーっぽくしているのが問題だ。いったいこの感情はなんだろうか、と思っていたらその番組にゲスト出演していた指原莉乃が別番組で感想を言っていて、一字一句覚えていないが、「多分、私はファンの人を同じ感想だと思う。なんか友達のそういった所を見ている感じで・・・」的な事を言っていた。つまり、とても楽しむ、という感じではない、という事を言葉を選びながら伝えていたのだ。つまり、ある程度相手の人間性(もちろん、ファンは本当の人間性を知っているわけではないが)を知っていると、その人の性的な部分を拒否するわけではないが、それはプライベートで勝手にやってくれ、という感じになり、エンターテイメントとして成り立たないのではないか、という仮説が立つ。

で、題材は変わるが、「マスカットナイト」というTX系の深夜番組がある。ほとんどがAV女優で構成されたグループ、恵比寿マスカッツの番組だ。最近のAV女優は外見がモデルとほぼ変わらない。その中で副キャプテンとして活躍している川上奈々美とかなり美人でぶりっ子キャラの小島みなみのAVを見てみた。

これがまったく性欲として興奮するどころか、むしろ悪いモノを見ている感じになって見ていられないのだ。テレビで頑張っている彼女達の方を先に見てしまった為、その性的な部分が受け入れられないのだ。ん?これは永尾まりやの時と同じ感情なのではないか?

AVの素人モノで冒頭でインタビューがあるものがある。初体験の年齢、相手、場所等の典型的な質問であり、それは見る人間の想像を勝手を掻き立てるプロフィールとしての役割を果たす。ではこのインタビューの所でそういう性的な質問とは関係ない人間性、人となりを表すようなエピソード、体験談など話されたらどうだろうか。もちろん、そんなAVは無い。

つまり、性的な部分とは相手の人間性を認めてしまったら恋愛感情でない限り、容易に踏み込める所ではないという事。極端な例をいうと自分の両親のSEXを想像出来ないし、したくないのと同じ。

ここでもう一つ疑問がわく。冒頭のドラマは永尾まりやの事をまったく知らない人にとっては楽しめるドラマだったのだろうか。いや、まったく演者にファンがいないのであれば起用も無いだろう。つまり、制作する側にこういった感情とは無縁の人がいるという事になる。これが面白い、と思っているのだから。

 

相手の人間性を知った上で性的な興奮を覚えるかどうか、性的な部分を直視出来るか。例えば友達や知り合いのSEXシーンを見たいと思うかどうか。この「ラストキス」というドラマが作られている以上、もしかしたら私や指原莉乃の方がマジョリティーではなく、そんな事は関係なく興味を持って見る事が出来る人々の方が大多数という事なのだろうか。確かに、最近アイドル化しているAV女優の世界ではアイドルと同じく、握手会や撮影会などでファンとの交流イベントがあったりする。そこで素とは言わずとも、AVの中とは違う人間性の部分を見たとしても、ファンはAVを見るわけだ。

 

いったい何が正常で異常なのか。そもそもそんな判定さえも必要ないのかもしれない。ただ、私は人間としてやはり性的な部分に人間性も入れて考えていきたい。それが興奮する材料が減ったとしても。

 

 

 

日本の少子化について(全体概要)

私は団塊ジュニアの世代であり、ベビーブーム世代だ。バブルを知らない、ずっと競争。会社ではバブルを経験して仕事をしない(出来ない)人達の尻ぬぐい。そんな私でも中学生の時の授業で鮮明に覚えているのは少子高齢化社会が将来に訪れるという事。そして大学生の時に20歳以上から年金徴収がスタート(それまでは社会人のみだった)したことで少子高齢化と世代間格差を肌身に感じてきた。

しかし、政治家達は少子高齢化が来る事がわかっていたのに何も手を打つ事はしなかった。私達第二次ベビーブーム世代が安心して子供を生み育てる政策を考える時間などたっぷりあったにもかかわらず。そして今。その世代は中年となり、引きこもり、ニート数も最大。失職も多く結婚どころか付き合う事さえも出来ない。しかし、その現実は表には出ない。ニート等のデータは30歳まで(ベビーブーム後の世代)。それはなぜか。急激に世代の絶対数が減るので、何かしら対策を考えなければならない人達にとって、達成見込みが簡単だからだ。これは自殺者統計と同じ手法。KPI達成の為にはなるべく数字が見えた方がいい。ここに光を当てるジャーナリストもいない(そもそも日本にまともなジャーナリストはほぼいないが)。金=権力であり、それを得る為には日本を動かしている人達に逆らう必要はないからだ。つまり、自分のブランド価値を上げつつ(ジャーナリストという、ね)、コンスタントに仕事を得るのに最適なのは若者、女性に目を向けた方がいい、という事になる。

 

さて、ここまで書いてきていくつかのワードを元に登場人物をカテゴライズしてみよう。政治家。ジャーナリスト。権力者。大衆。官僚等。誰もが少子高齢化社会の到来をわかっていながら誰も手を付けなかった。見ないふりをしてきた。それはなぜだろうか。答えは簡単。自分の得にならないからだ。社会的に地位の貧しい人間ほど、ナショナリズムにかられるのは万国共通。普通の人達は自分の家族、仲間、そして自分。それが(それのみ)が優先順位であり、国家の事など考えていないのだ。それが当たり前の人間であり、特に人の上に立つような人になるほど、そういった非情、無感情性(サイコパス的特性)を仕事に活かす事ができ、企業役員、政治家等で成功が出来るのだ。そういった人材については誰もが集団生活の学生時代に見ていたはずなのに、なぜか大人になると政治家=清廉潔白、日本の事をしっかり考えてくれる人、と願望=現実になってしまう認知バイアスが笑える所だ。

そんな事は無い、日本の事も考えている人達が官僚政治家にもいる、と反論したくなる人もいるだろう。一つ例をあげる。アルバイトでも社員の8割の勤務時間で社会保険の支払いが義務化された。これによって財源が厳しい国保が社保によって企業に払わせる事が出来る、という懐事情は誰もがわかる事。人によってはアルバイトにも社員と同様の保険が、と喜ぶ人もいるかもしれない。しかし多くの企業は社保を払いたくないから今まで週五フルタイムで働いていたバイトの勤務時間を減らして、バイト数を増やそうとするのが当たり前の経済活動だ。社保加入に転んでも国にとってプラス。バイト数を増やす方向に行くとそれで求人倍率が上がるのでアベノミクス的にもOK。しかし、それだけだと非正規雇用者の増加、というデータも残ってしまう。正社員の有効求人倍率も増やしたい。で、地域限定社員という、企業からすればバイトに社保を払うのであれば責任も押し付けたい。しかし通常の社員の権限(出世コース等)は与えたくない、というアルバイト待遇だけど責任は社員という、見事に週五のアルバイトが必須だった企業にとって楽なシステムが出来上がった。さて、これらによって一番弊害を受けるのは誰だろうか。そう、一番立場の低い労働者だ。こんな政策を平気で出来るのが今の日本だ。少子高齢化対策など本気でやるわけがないし、やる必要もない。作っている人達は高みの見物なのだから。アベノミクスで儲けた一部の大企業と関連中小企業、そしてその他との差と同じようなものだ。社会もそうした特権階級の為に存在するのだから。

 

そうした見えざる手の上で踊らされている現実に大衆が気付く事がまず第一なのだ。なぜなら大衆には唯一最大の武器があるからだ。それは選挙。特権階級も特権企業も結局は人国の9%以内の人達。つまり日本の有権者達が結束すれば勝てる層でもあるのだ。もちろん、既得権益層はそんな事はわかっているので全力で阻止をしようとしている。マスメディアを使った扇動実験を繰り返している。なにせ戦中に大衆を誘導したノウハウがある。B級戦犯C級戦犯は罰を受けずにそのまま残っているのだから。

 

そしてのその洗脳は有効に動いている。一番怖いのは本来家族を持って社会性に目覚める団塊ジュニア世代が団結する事だから。増える老人はまったく怖くない。なぜなら老人は多くは自分の命にしか興味が無い生き物だからだ。今回舛添氏の雰囲気辞職に社会的ヒエラルキーの高く無い中年達の多くは「当たり前だ!」と叫んでいた。たかが数百万の違法でもない私的流用で50億もの選挙費用がかかる、という非論理性を解決せずに、だ。もちろん、上層の中年の人達はこの騒動は「なにこれ」と見ていたが、絶対数が少ない。なにせ上層だから。つまり、もう数で団結したら怖い中年層は怖くないのだ。それがここ10年以上の実験でしっかりわかったので、次は若者層の取り込みなのだ。ただ、彼らは絶対数が少ないので選挙云々的な思想的コントロールではない。現在の既得権益層が儲かる為のコマとして、より自由を与えてきたのだ。

 

これが日本社会の実態。保育園が云々とか女性が働き安い環境とか。そんな個別の事由の問題ではないのだ。ではどうしたらいいのか。大衆が賢くなるにはジャーナリズムが不可欠。まずは第二次世界大戦をしっかり反省して、新聞、テレビ、雑誌等の資本関係を禁止し、独立した機関として牽制しあうようにしなければならない。本来これは戦後すぐにやるべきだった。なぜそれが出来ないのか。先進国では当たり前の事だが、それをする事は国の為になってしまう。そんな事を既得権益層、権力者(政治家)達は望んでいないから変えないのだ。自分たちの支配力を変える必要がなぜあろうか。自分達が楽に利益を出せる事を下々の者の為になぜ放棄しなければならないのか。まず無理だろう。

一流企業の人達は適齢期にしっかり結婚出来ている。子供も作り、裕福な生活を送っている。それは既得権益層も同じだ。英語を話す小学校や、自由な校風の私立の小学校ででのびのび育てている。少子高齢化など自分たちに関係ないのだ。だから対策もしない。保育園設立反対派がいい例だ。周辺の多くは戸建てやマンション(分譲)の人達。彼らレベルでさえ、社会の問題と自分の利益を天秤にかけた時、自分達の利益を優先するのだから。そこに論理性などはない。

 

日本が少子化を本気で止めたいのであれば。本来は政策などは簡単なのだ。フランス等の成功事例があるのだから。しかしそれらを導入させないように大衆にはしっかりバイアスが仕込まれていて議論になってもすぐ立ち消える。はっきりいって、クーデターをおこして、マスメディア資本改革をして、現在コメンテーター、ジャーナリストの肩書でテレビに出ている人達を全員戦後第二次戦犯として投獄するぐらいの変革をしないと少子化は止まらない。しかしそんな事は現実的に無理。

 

結局、少子化は止まらないのであった。

舛添氏へのマスメディアの異常な叩き方と庶民の反応のヤバさ

ちょうど体調を崩して休んでいたので、普段あまり見ないテレビを付けたら舛添氏の連日の報道が流れていて、それでかなり昔、麻生太郎氏が総理になった時、マスメディアが連日のように叩き、ついには言葉の間違いまで取り上げて吊し上げ、それを「総理の資格」的なわけのわからない批判を繰り返していた事を思い出した。あまりにも内容がくだらなく、全キー局が同時に同じ内容。それもたかが数百万の経費流用だ。もちろん、額の問題ではない、という主張もわかる。しかし違法ではない以上、叩く所はこのザル法である政治資金規正法の方であり、その他にも文書通信交通滞在費や企業献金の禁止を受けてスタートした政党助成金が、企業献金がOKになっても交付され続けている問題等、政治と金にまつわる長年の問題がある。そんな積年の問題がある中で、都知事という莫大な予算のトップである人がファーストクラス?スイートルーム?千葉のホテル?正直都民の私からすればどうでもいいのだ。これぐらいの額、前述の問題からすれば微々たる問題だ。正直税金なだけに法律に抵触していなくても額と使用方法の問題には背中を刺されないように気をつける必要はある。舛添氏はしっかり領収書を添付していたし、額も小さいので問題にならないと思っていたのだろう。ここが政治の世界としては脇が甘かったと言わざる負えない部分はある。知名度があり権力のある政治家になった以上、深夜の誰もいない市街地の道路の歩行横断でさえも赤信号無視が出来ない。政治家とはいつ誰が敵になって背中から刺してくるかわからない。だから任期中はそれなりに気を付ける必要がある。そういう意味では舛添氏は石原都知事等に比べたら十分注意していた部類に入るだろう。それでも過去の麻生叩きのような例があるのを考えるとやはりオリンピックという巨大利権が発生する前には完璧にするべきだったと思う。

例えばハニートラップというのがあるように、こういった経費でもトラップがある。大会社の部長クラスでもそうだが、自分で海外出張の予約を取るような事はない。すべて周りが手配する。自分ではビジネスクラスだと思っていたのに空港にいったらファーストクラスでびっくり。自らキャンセルしようにもすでにビジネスは満席。仕方なくファーストで、という事も。これは近い将来、その対象を蹴落とす為の武器としてとっておく。そういう未来時限爆弾トラップも政治家は仕掛けられる。

いやいや、経費で個人流用していたでしょ、という人もいる。安い美術品や本ぐらいだ。私が住んでいる杉並区の戸建て住宅の車庫にどれだけ品川ナンバーの外車があるか。会計上社用車扱いだが個人使用の車だ。これが所謂経費の個人流用だ。その額たるや。それに比べたら予算内で少額の買い物をするぐらい別にどうって事ない。というのも、政治家とは清廉潔白な人間を選出する事ではなく、何を実行できるか、で判断するべきだからだ。

 

なので政治家が犯罪を犯す等、余程の事ではない限り、政治力のジャッジで辞任させないとならなくて、そうでないと何も実行しない政治家の方が優位になってしまう。所謂衆愚政治であってもいい、という事になってしまう。だからこそ今回の舛添氏のような例で辞任などありえないわけで、都民としてはこんな事での辞任の前例などは作りたくない、と思っていた。そう思っていた都民は今回の辞任にあたって私1人ではなく、大手有名企業、外資系企業の知人達もそう思っていた事をFacebookで知った。

 

ではなぜ辞任にまでなってしまったのだろうか。それは大衆の問題だ。これは2chよりもさらに質の悪いmixi等のニュースコメントを見るとよくわかる。一様にテレビが発するのと同じ批判を連日のように繰り返していた。彼らの問題は自分達が同じ仮面を付けて、見たくないものは見ない、考えない、学ばない、という点。物事を点でしか判断しようとしない彼らはテレビが一番陽動しやすい存在であり、グルメ、健康、音楽、ファッション。なんでもすぐ飛びつく。テレビを見ない若者はそうではない、という意見がある。実はそうでもない。なぜなら彼らが見るネットニュースがテレビを元に作成されているからだ。なのでチョイスする主体が発信する側のテレビか、クリックする本人か、の違いだけでソースが同じなら同じ思想になる。それが時に今回のように政治に利用されると圧倒的な力を発揮する。

 

どのキー局、MXテレビでさえ舛添氏の問題を取り上げていた時、「街の声は」という一般人を取り上げたインタビューで批判的な人だけを流していた。そんな事がありえるだろうか。私の周りでさえも多種多様な考え方ある人がいるのに、マスメディアといわれる取材陣が全員同じ意見の人ばかりになる、という事がありえるのだろうか。ナチスドイツ時代に匿名顔モザイクで取材した場合、すべてのドイツ人が「ユダヤ人は全員悪でしょ」とは言わなかっただろう。なぜなら集団洗脳でない限り、すべての人間が同じ考えである事はありえないからだ。特に東京都はその人の働いている環境、教養が多種多様である国際都市。私のような考えかの人だって少なくない。なのに未だにスマホゲームに課金して時間を潰してオワコンmixiで悪口を書くような属性の人だけの意見を公共の電波で抽出して流す。その時点で「これおかしいな?」と思うべきなのであるが、面白いのはこの属性の人たちはこれだけマスメディアに陽動されて置きながら、頻繁に「マスゴミ」という用語でテレビを批判する事も多い、信念も筋も通っていない人達。すっかりマスゴミに利用されちゃってわけのわからない、自らの生き方、信念とも関係ない、皆と同じ「正義」の仮面を被って中身も問題解決性も無い批判を繰り返すのだ。そして辞任になった途端、役目を果たしたとばかり静かになる。中には自分はその中の人達とは違うんだとばかり、「政治と金の問題を国会議員にまで広げないテレビはやはりマスゴミだ」的は発言をして更に仮面を二重にする。そして自らの存在欲求が満たされたら、本当の問題などは見ようともしない。仮にうっすら見えたとしても「俺たちじゃどうしようもないし」「世の中そんなもんだし」と急に無力無関心になる。

 

この層の人達が所謂日本の大衆である事はかなり問題でもある。「電通許せねぇ!」「国立競技場の建て替える費用があったら・・・」的な事は言うくせに、「東京オリンピックは楽しみ」という自らの矛盾性などどうでもいいのだ。東京オリンピックに反対していた人達は選手たちの夢等を天秤にかけても既得権益層の税金の無駄使いが許せないという部分で一貫していた。消費税が5%からUPする時にもそれが目的税ですべて社会保障に使われる、という一部のマスメディアの情報を鵜呑みにして、「未来の子供の達の為に」などと言ってせっかくの消費税UPを阻止する選挙をまんまとお自民党に勝たせる。しかし管轄が財務省であることを考えればそれがマジックである事は容易に気付くし、一部マスメディアが「未来の子供達に負の遺産を」的なプロパガンダ一色だった時点で「これはおかしい・・・」と気付くリテラシーがあるのが当然なのだが、まあ、100歩譲ってそれが気付かなかったとしても自らの責任で消費税がUPとなったのだ。今だに税の一体化改革がなされていないのに、8%か10%か、という議論など出来るわけもない。しかしその部分はもう見ない。見ようともしない。責任も感じない。悪いのはマスゴミであり、政治家だ(こういった人達は何事もミンスのせい、と言う人も多い)。

そんな大衆は情報リテラシーが向上するわけがない。なぜなら本人達が望んでいないからだ。リテラシーが高い人はそういう生活を送ってきたから結果的に高いだけであって、低い人が向上するには生活や意識を変えて教養を積んでいくしか道は本来はない。しかし生活をガラッと変える(環境を変える)というのは現実的にはかなり難しい。そんな環境のレベル向上(金の事ではない)無しにリテラシー向上を目指すような人達の行動はリテラシー向上ではなく、「自分はちゃんと日本の事を考えている、大衆とは違うんだ」という差別意識であり、その承認欲求を満たしたいが為にツイッターでせっせと毎日ニュース番組に書き込んで参加してみたりする。

 

時代は変われど、マスメディアに左右され、物凄いくだらない事で政治家を辞任させるまで追い込む大衆の怖さ。それは戦中の日本と変わらない。マスメディアがこの時代だからこそほんわか仮想敵国報道で陽動しているけど、これが本気になった場合どうなるのだろう。憲法改正云々の前に無責任無関心な国民の問題をどうにかする事の方を先にしないと、さすがにそろそろやばいなぁ、と舛添氏の一連で思ったのであった。

 

若者、学生の自殺についてのマスメディアやネット民達の無責任な風潮について

この頃東京では電車の人身事故遅延がやたらと多い。SNSのお陰で今まで以上に情報が入ってくるだけで実は特に自殺者が増大したわけでもなく、昔から常に自殺者は多かったのかしれない。

私はテレビのコメンテーター制度には反対派であって、公共の電波でただの個人が見解を流して思想も信念もない人間を誘導するのは罪にも匹敵する、と思っているだが、そんな中、最近気になるのがいじめ等で自殺した子供に対して、「逃げる勇気」「学校に行かない選択肢」等を発言するテレビの人達とそれに応じて、学校に行くが当然の中で、それを破る事を主張する事で自分は社会の理解者だ、と主張したい(している)ネット民達。あまりにも無責任かつ自分勝手な意見であり、なぜそういった自分たちこそが自殺をする人達が住みにくい社会を作っている張本人である事に気がつかないのか、理解に苦しむ。

学生の自殺はうつ病等で感情が抑制され、思考の回路が即消滅、という風に直結するわけではない。死しか選ぶ事が出来なくなるから自殺するのだ。この事を簡単に表すと「絶望」だ。文字通り、望みが絶たれた状態だ、と自ら判断をして死を選んでしまっているのだ。つまり、学校に行かない、休む、親に相談する、信用出来る人に相談する等の「望み」ある事はすべて本人なり考慮済みなのだ。特に学校に行かない、という単純な「望み」などはとっくに考えている。それを選ぶ事が出来ない、「望み」がないから絶望なのだ。いやいや、そんな事はない。行かなければいいのだ、という主張は確かにわかる。実際に日本では多くの引きこもりのニートが存在するわけだから、行かないという選択肢を選んで自殺をしていない人達も大勢いる。しかし、今そういった人達の例を出して自殺者の同じような行動を、というのは論理的に無茶すぎる。それが論理が通じるという事は誰もが何かあったら実家に引きこもれる環境がある、という事が真である必要がある。そんな事はありえないわけで、だからこそ、自殺者は逃げる事が出来ない環境であって、その事も含め「絶望」なのだ。

そして感受性の強い当事者は学生であってもわかっている。何も現場の事をわかっていない大人達が「逃げてもいい」「勇気を持って」などと言いながら、挫折した人間を救うような社会システムに尽力する気もない事を。自らの勝手な善悪基準だけで他人をメッチャクチャに叩く事を。世間とは信念も思想もなくマスメディアに流される人達の集合体である事を。もちろん、それは正解でもあるが不正解でもある。社会という現実はもっと奥深く、人間は更に罪深いモノなのだが、そうはいっても自殺者からすればそんな世間=社会は即ハシゴを外し、手の平を返す、矛盾の象徴でもある。杉並区が待機児童が多くてつき最近区役所前で「保育園落ちたの私だ」的なデモがあって、マスメディアやネット民達もその内容の是非は置いておいて、為政者を叩いておいて、いざ杉並区がスピード重視で一部公園を潰して保育園にしようとしたら今度は反対運動。こういった日本社会を冷静に子供達は見ている。そんな中、一度挫折をしてしまったらまともな生き方は出来ない、させてもらえない、と思ってしまうのも無理も無い。

もちろん、そんな事もないし、何がまともか、という話もある。現に、普通のサラリーマンでも議論も出来ない、信条もない大人などゴマンといる。しかしそれらは子供にはさすがに難しいし、教える大人がそういった(自分を含め)大人達の存在を教える事もしない。教える大人とは成功した人達、目指す大人だけだ。

そういった社会が小さな望みさえも絶ち、自殺を考えている人達に絶望状態に陥れる。例えば現実の状況を考えない地位も名誉も金もある理解ある人間風のコメンテーターの一方的、直線的な「逃げる勇気」という言葉によって、様々な思考上、環境上そういった選択が出来ない学生は「自分は逃げる事が出来ない存在=生きる希望が絶たれた存在」という事になってしまう。自殺は例えばいじめられたから死を選ぶ、という単純な事ではないのだ。ありとあらゆる考え、逃げ道、選択肢。自分の頭の中でぐるぐる多くの事を考えた上での絶望が多いのだ。

 

無責任な発言をするテレビやネット民達は自殺を本気で考えた事がない恵まれた人達なのかもしれない。ただ、だからといって自殺者の気持ちを考える事が出来ないという理由にはならない。なぜなら人間には共感という力があり、その為には教養を積んでいくからだ。相手の立場、境遇、思想を完全ではなくても思い巡らす。時には議論をして自らの思想をブラッシュアップする。これからの国際社会ではよりそういった力が必要になる。

 

確かに今は都内で曲がる時に同時にウィンカーを出す車はある意味普通になった感がある。バイクや自転車、その他の車両のスムーズな進行の為に出す必要のあるウィンカー。その意義は自らが捕まらない(法律的にはダメなのだが)為に出すモノになってしまった。歩きタバコ、公園タバコも同じ。目の前の他人に気を使う事が出来ない社会が当たり前になりつつある中、自殺という手段を選んだ絶望者の事など考えられるわけがない。そういった社会の構成員達から発言されるのが「逃げる勇気」という無責任な発言なんだ。逃げてどうするのか?その後どうするのか?東大生というだけで手放しで「すごい」という社会だ。40代で無職だと「クズ」と言われる社会だ。ほんの一部の成功者の例をとって学校など行かないでも成功できる人は・・・、というは更に無責任だ。「逃げる勇気」というのであれば、義務教育を家でも取得できるようなフリースクールを法律的に実現する社会作りをする等、しっかい社会保障基盤を作ってから言う言葉だ。それが構成員として義務でもある。もちろん、日本社会はそんな義務を果たす人達はほぼいない。それが保育園の例。

 

この文章が自殺を考えている学生が見る可能性はゼロだと思うが、そんな無責任な人達=社会でもあるが、それだけではない、という事はやはり言っておきたい。テレビは戦中も戦後、今現在も民衆に対して強大な力を有していて、それに左右されるのが民衆=社会でもあるが、それだけではない。この清濁の融合が社会である事は感じるのはやはり経験が必要でそれは年齢に関係無い。人柄、人物の良さ等が年齢に比例しない事はもはや周知の事実だ。そういった社会を見てから判断しても悪くないかもしれない。

指原莉乃の「お客さんのやさしさに涙が出た」、というお話

先日、トーク番組で指原莉乃がブスかどうか、という議論をするコーナーで、指原莉乃がいつものようにブスいじりをされている最中に突然泣き出してしまった。今まで散々ブスいじりをされてきた彼女がなぜこのタイミングで?と思ったが、その後の説明で納得した。それはホリケンにブス呼ばわりを何度もされている中、観覧客の女性たちが「ええ~!」とホリケンを批判する(指原莉乃を擁護する)声を何度も上げた事によるやさしさに涙が出た、というのだ。

 

彼女の真意はわからないが、私的には単純に深いコンプレックスを抱えている人がそれを押し殺して頑張っていて、それを擁護された事によって今まで我慢してきたモノが噴出してしまった、という見方以外の話をしたい。多分、ここまでは彼女がツイッターで言っている「女的な部分」と一般的な見方かと思う。ただ、そんな一つだけの思いで人間の精神は構成されているわけではなく、複雑な思想、経験等の集大成が人の行動には現れるからだ。

 

メディアタレントは自分自身を商品としている。プライベートも切り売りする必要がある人もいる。そういった人達は自分も他人も人間としてだけでなく、商品として客観的に見る力がそれなりに必要になり、それは人間を器としていの「モノ」と考える事が出来る能力でもある。もちろん、人間には制御しきれない感情という厄介なモノや、今まで生きてきた価値観がバイアスとして精神を支配している。なかなかすべてを客観視出来るものではない。しかし、努力や経験を重ねる事でその境地に近づく事は出来るようになる。

 

例えば、人間をデッサン人形のような基礎のような存在として平坦に見る。そうすると、その誰でも変わらない基礎土台に肉付きとして様々なモノが付いて行く。Aさんという人形はネットで匿名で誹謗中傷をしている事を知ったとする。それはAさん人形が右手に包丁を持っているだけであり、人形としての土台はBさんと大して変わらない。すべては要素であり、人間性などは対して差が無いように見えてくる。

 

もちろん、実際はそこまで単純なものではない。ただ、こうした見方で人間を捉えるようになると、その人の言動等は結果論で見るようになってくる。なぜなら、言うだけなら誰でも出来る、つまりすべて同じ人形土台レベルだから。その人の瑣末な情報に惑わされる事が無くなっていく。極端に例えればトランプ氏のような発言をするCさん、Dさんに会ったとして、同じ発言内容でもくっきりと違いを見極めるような人間の見方になってくる。それも結局、人間という存在の根底の基礎はくだらないほぼ同じような、ずるく弱い存在である、というのがあるからだ。

 

そういう見方が出来るようになると人の悪意に敏感になる一方、その悪意への耐性が出来るようになる。なぜなら自分と相手は同じ人間であり、悪意というのはどの人間でも持っている構成要素の一部であるからだ。それが自分に向かって害になった時に、感情として「ムカつく」「許せない」というのはどうしても消しきれないだろうが、それも人間として当然の事。そして当然、善意にも敏感になる。

 

聖人君子など存在せず、悪意の無い人など存在しない事がわかった以上、人はどこかで誰かを意図的に、無意識に傷つけている。そんな存在の人間から、意図せず流れだす善意。それを感じた時に感動が出来るようになる。これを感じるように成ることは自分が経験した事、感じた事の隣接体験以外の事でも泣けたり、怒ったり出来るようになる。「歳をとったからか、わけもなく泣けるようになった」には漠然とした残りの人生への恐怖等のバイアスによるものもあるが、実は人間への見方が変わった事による感性の変化による事もあるのだ。

 

指原莉乃をブスいじりをする。スタジオスタッフ、観覧客共々笑う。それはバラエティーとして正しい。それが社会的に是か非か、と問われれば非であるべきではあるが今の日本社会は一般人でも外見で人を差別する社会だ。それを特別視する職業がタレントである以上、現状仕方がない部分でもある。そんな正論はわかっている中、特に他人の外見に厳しい(自分の事は置いておいて)、若い女性だけで構成された観客がブスいじりに対して「非」の態度を表した。もちろん、彼女達のほとんどが普段他人の外見をバカにして、時にはネットで悪口を書いているかもしれない。そんな事はどうでもよくて、あの場の雰囲気では集団同調で指原莉乃の外見いじりに対して非難を意思を出した。その時点で外見いじりは単純な悪口なってしまい、バラエティーとしては成立しない。誰発生なのかわからない。同調性があるから。その信念の無い単純な善意(善意かどうかもわからない)に敏感に感じて涙が出る、という事は人を同列として見ていれば多分にある事なのだ。ふっと街で見かけた子供がお母さんを気遣ったシーンで涙が出るのと同じ。事実関係も実は家庭内ではDVがあるかもしれない。そんな事ではなく、ほんの少し溢れた善意。そこに感動をしてしまうのだ。

 

もちろん、テレビというのはエンターテイメントショウ。すべてが台本通り、という事もありえる。しかしそれであったとしても人の善意の噴出部分のみを指し値なく感じて感動する、という事は素直に重要な事でもあると思う。

 

人間の悪意、善意。ふっと出るやさしさと同様に意識しない悪意によって他人も傷つける。なるべくやさしさの方が出る事ができよう、自分の人間性も客観視していきたいものだ。