底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

平子理沙さんのブログ炎上犯人のお話で

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簡単に言えばたった6人ほどの仕業だった、というお話。

 

私からするとまったく不思議な事はなくてそうだろうなぁ、としか思わないし、なおかつ、この現状は法律が出来ようが変わらないと断言出来る。

というのも、反社会的行動を取る人間は必ず一定の割合で存在し、法律、ルール等はこういった少数のサイコパス的人間の為に作られて、普通の生活をする人間が不都合を強いられるのが日本社会だからだ。

例えば路上喫煙。私が住んでいる区は歩きタバコ禁止なのだが、特に法律施行前後でその数が減っていない。特に早朝深夜は酷い。近所の大きな公園には犬のリード離し禁止の景観を損なう程のでかい看板が出来たが、未だにリードを話して散歩する人間の割合はそんなに変わらない。その公園は園内禁煙のお達しが出たが、もちろん喫煙者は守らない。自転車の安全義務違反も同じだ。こういったそもそもマナーレベルの問題が法律になった所で、そういった法律が出来る元となった人間達は守らないのだ。これは日本人特有(日本社会)の問題だと思っている。

 

それは「民主主義=多数決」と勘違いしている人間の多さとも似ている。個人主義というのは自分の権利を主張するがその分、他人の事も尊重する。個人の権利であり義務でもある。しかし日本では個人の権利に対して義務に対する教育が無かった。そう、個人の尊重ではなく集団の意思(集団行動)をメインとしてしまったのだ。これはその方が教育者、為政者等が下の者達を従わせるのに楽であり、それに対して思考停止で従ってきた人達の問題。その結果、社会を敵には回さないが少数の人を嫌な思いにさせる事をなんとも思わない社会が出来上がったのだ。

これは法律、マナー、ルールを破る人達に限った事ではない。これらを曲解、もしくは自分の好きに解釈を変えて行動する人達の多さたるや。

 

例えば観光地で「立ち入り禁止」の看板がある場所があったとする。海外先進国でこのような場所に入る人がいた場合、周囲から非難の目が飛び、怒声を浴びせられる事もある。しかし日本では1人、2人追随すると多くの人が看板を無視する。

何度も言っているが、戸建ての人が路上手前の自宅駐車場でタバコを吸う。大人のイジメ、パワハラも無くなる事はない。学生の運動部校外練習では指導者自らルールを破る。

すべては少数を無視する、つまり人数によって自らが考える正義の振り幅が変わるのだ。わかりやすい例で言えば、路上喫煙地区の早朝深夜が喫煙率が高いというよりも、駅前では吸わず、住宅街に入った途端に吸い始める人のように。こんな民度の国が先進国の文化のわけがない。

たった1人の他人であっても人間として尊重する。そうした事が本来の法律やマナー、ルールの趣旨であって、自分が罰せられなかったら何をしてもいい、というわけではないのだ。この根本的な考え方が特に大衆には欠けていて、もちろん、その文化は子供にも伝播していく。

 

日本が社会面でも先進国になる日は来るのか。底辺層から社会を見ると、どうもそうは思えない。ブログ炎上事件の実態は日本社会の闇でも何でもない。これが日本社会の実態であり、日本人の特性なのだ。では好転させるにはどうしたらいいか。今からでも遅くない。自分勝手な老人達はもう仕方がない。彼らはそういう世代に生まれ育ってしまったのだから。しかしネットを駆使出来る世代の人達から、そうした社会を変える為には「自分を尊重しているのと同じように他人も尊重する」という民主主義の当たり前の事を日常で実践していけばいい。たったそれだけ。

幸せではない底辺層中年こそ、閃光少女のPVを見るべき

東京事変に「閃光少女」という曲があって、これはCDではなくDVD映像のみでリリースされた。それが最近映画「ちはやふる」関係のアルバムに収録されていた事で久しぶりに映像を見なおしてみた。オンタイムで見た時の感動はそのままだった。問題は何に感動したのか、という事だ。

 

映像は2人の美少女が踊っている。それは椎名林檎の歌詞とあいまって、いかにも閃光少女が文字通り、若い人向けの内容のように思えるかもしれない。しかし、当時も今も、私からすれば若い時のようなハラハラ感、疾走感、今を生きている感というのをしっかり自分への叱咤激励として受け止めて感動しているのだ。

つい最近、結婚して子供がいる私と年代の違う人が「30代になると自分にプレッシャーを与えるような事が無くなるじゃないですか、だから云々」と言っていて「ハイハイ」と聞いていたが、私は30代の時であっても自分増々強いプレッシャーを与えてチャレンジしていた。そして今でも不安定で未来も無いがそれでも未来を作る為に足掻こうと色々画策している。行動している。それはなぜか。幸せな事が何一つないからだ。家族もいなければ恋人もいない。いわゆる他人からすべれば無の存在。そんな社会から孤立した中年だからこそ、自らの幸せは自分で決め、その為には刺激、プレッシャーを与え続ける必要があると思うのだ。

成長過程のアイドルや萌アニメを応援して自分自身が疎かにになる中年は今がそれなりに幸せで、自分が出来ない事を他人に投影している。「もう自分はこんな歳だからチャレンジ出来ないけど、彼女達は・・・」的な。そんな発想でアイドルを応援している全ての孤独な中年は「閃光少女」のPVを見て、あの画面の少女と歌詞は自分の事を描いている、と思った方がより成長できるのではないか、と思う。

年齢なんて関係ない。自分の可能性を自分で閉じる必要はない。どうせ日本は年齢で人を判断し人格否定する社会だ。そこに自己否定が加わると中々ぬけ出すのは難しい。

 

だから未来なんて関係ない。今を生きる。五感を研ぎ澄まして。立ち上がるのだ、孤独な中年よ。

 

なんてね。

 

これが本当の中年の底辺生活なのね。

結婚も出来ない(もしくは子持ち)、貯金も無い中年関係の話がネットに出ると

・自分は◯◯円/月で生活出来ているから貯金が出来ないなんて信じられない

・余暇なんかに金使うからだ

エンゲル係数高すぎる

など批判的なコメントが多い。果たして実際はどんなのだろうか。

 

で、1ヶ月、週五のアルバイトをやってみた。アルバイト代は東京都の最低賃金。ていうか、現在の最低賃金を把握していなかった。自分が大学生の頃と比べるとかなりあがて907円。しかし、アルバイトの時給平均は変わっていないという。所謂格差社会。まずそんな事から勉強だった。

で、実際1ヶ月ヘトヘトになるほど最低賃金で働いて。手取りはたったの10万ちょっと。家賃光熱費を払って通信費、保険、住民税を払ったらほぼ食費ぐらいしか残らないのだ。

おお、これが底辺の生活。なんという事でしょう。こんな中で子供でもいた日には、そりゃ月たった数万円でも子供手当が無いとやってられないという気持ちがよ~くわかった。なおかつ、服装で大体その人の年収がわかるという事の裏取りがしっかり出来た。この収入だと服に金を使う余裕などまったく無い。そりゃ、単身者なら出会いの場に行く交際費だって捻出出来ないわけで、そりゃ結婚出来ないわ。よく収入が低いと結婚出来ないという話の時に、テレビ出演者のアッパーな批評家、著述家、コメンテーター等はその理由を

・結婚後の(幸せな)生活の維持が想像出来ない為

に集約しがちだが、それはまったくの間違いだとよくわかった。未来の想像をして現実の決断をするような発展的思考の人間が底辺層にはほぼいないのだ。今の生活が一杯一杯で、他人と出会う事が単純に出来ないのだ。結婚も恋愛も誰もがしたくて堪らない状態なのに。

 

何事も経験だなぁ、と思うがこの経験が活かす場所が無い事にも気付いた。というのも底辺層相手の商売は社会の為にはなっても金にはならないからだ。企業も見向きもしないからスポンサードも難しい。そして今後の日本の社会情勢、政治政策を見る限り、こういった層は増えていくだろう。

 

さて、どうしようかな。

過去にAAとACAに行った時のお話。

アメリカ映画好きであれば見たことがあるだろう、問題を抱えているメンバーが集まって自らの経験を語る事で立ち治ろうとするグループセラピーがある。当時自分がアル中になっている、と自覚した私は何度も躊躇したあげく、勇気を振り絞ってAAの集会に行ってみた。AAとはAlcoholics Anonymousの略である。参加者は過去にアル中、もしくは今現在アル中の人である。

年齢はバラバラ。20代~60代くらいまでか。一人ひとりが自らの体験を語る。もちろん、中には(?)という内容の人もいる。しかし、聞いているうちに涙が出そうになった。辛いのが自分だけではないという事がわかった瞬間だ。ぐっと涙をこらえて自分の事を語る。会が終わった後に何人もの方が「ようこそ!」と握手をしてくれた。感激だった。それ以来参加はしていないのだが未だに酒は一滴も飲んでいない。

 

そんな素晴らしい体験をさせていただいたので、勢いにのって今度はACAというアダルトチルドレンの同じくグループセラピーの会に行ってみた。これが最悪だった。私意外は皆常連さんで、今度開く予定のオフ会の話を何度もし、その場にいないメンバーの話等で盛り上がっているのだ。もちろん私はわからないし、その遊びにも誰も誘わない。もちろん、私はなんとも思わないし、例えばこれば人のBBQの会に参加したと考えれば当たり前の事だ。しかし、この場はACAという場。初参加である事を告げているので、全員が本当にAC(アダルトチルドレン)経験者、もしくは現在ACなのであればこういった会に参加するのにどれだけの勇気が必要なのか、そしてそういう人がわからない話をし、なおかつイベントに誘わないという事がどういった意味をなすか。AC用語で言う、インナーチャイルドを更に傷つける事になる事ぐらい容易に想像出来るはずなのだ。もちろん、AC経験者でもそういう人はいるだろう。しかし、あの場全員がその配慮が出来ないのであれば、なんのためのACAなのだ。新参者を排除するその態度があまりにもAAでの体験とは真逆すぎてびっくりするだけでなく、本当にAC経験者であったのなら、その人達が自分が気に食わないACの人を更に悪化させるような事を平気で出来るその会の存在、人間という存在の罪深さに辟易としてしまった。もちろん、2度と行っていない。

 

アル中になる辛さは単純に辛さでしかなく、そして実生活に影響があるという事は事実でしかなく、万人に共通。しかし、アダルトチルドレンの場合は実生活への影響に程度の差があり、それが改善されたとしても人柄、教養的にアダルトがとれたただのチルドレンという事もありえるわけで、グループには向かない、と思った。

 

TVタックル「ひきこもり特集」がちょっとした炎上問題になっていたので

手法が問題になっている、という事で。ついでに厚生労働省ガイドラインも見てみた。残念ながら、どちらも何もかも的外れというしかない。

心のケアとか、発達障害とか。引きこもっている人自身の問題と家族の話ばかりなのね、大体。そんな事じゃないのよ、引きこもり問題というのは。原因から取り除かないとならないわけ。それは、引きこもりになるキッカケの排除。引きこもりは

 

・ある時点での周囲の環境(社会)で役に立たない、有益ではないというジャッジをされる(人間個体の存在よりも体制側のルール、規制の方が優先される)

・一度社会の決まったレールから外れた者を受け入れない社会

 

問題はこの2点でしかない。こういった社会をドラスティックに変え、様々な人間を多様性として受け入れる事が出来るようにしないとならない。具体的には

 

・新卒採用を止め、通年採用にする・・・この制度が学業のレールを作ってしまっている。これが自由になる事で、大学卒業後に海外に数年放浪(留学)後に就職ということも当たり前に出来るようになる

・自宅スクールでも単位を与える・・・義務教育を必ずしも学校に行くのではなく、自宅学習でも認めるようにする

・年齢基準を徹底的に本当に排除する・・・自衛隊でも警察でも当たり前に年齢制限がある。海外では体力テストがあってクリアすれば何歳だってチャレンジ出来る。まずは公的職業から年齢ではなく、実力があれば職業につけるようにする

・資格ビジネスの撤廃・・・重要なビジネスに関してはその資格を取るためには専門の大学(4年制)もしくは大学院を出る必要があって、なおかつ実務経験が必要など、時間と金が物凄く必要にして、年齢と年収でふるいにかけている部分がある。多くを思い立ったらチャレンジできるぐらいの金額、年数の資格にし、それ以上を上級◯◯、のように差を付けて更に稼ぐようなヤクザな商売は止める

・履歴書の撤廃・・・一般企業でも本来履歴書など必要ない。中途採用の場合、私はほとんど見なかった。大事なのは職務経歴書であり、何がをやってきて何が出来るのか、だ。しかし日本の場合は必ず履歴書が必要であり、大学名や離職期間等が問題になったりする。面接する人間が人を判別するのが当たり前と思っているからだ。就職は人の判別など必要ない。何が出来るか、だ。

 

まだまだありそうだが、ざっと思いつくのはこんな所か。「ひきこもり」という言葉がそもそも社会を構成する人間として無責任すぎる。多くの人は「ひきこもらせ」だ。我々も当事者として考えないとならない。

 

しかし、実家に戻れる人はいいなぁ・・・。なんて。

ブラックバイトも非正規雇用の問題も存在しない。あるのは日本社会の問題だけ。

正社員、非正規社員、バイト。これらは業務内容と責任に差があるだけでなく、月給制と時給制という差もある。そしてアルバイトとは一番何も守られていない立場であるから、時間で給与を発生させているという概念はとても大事。本来それらをしっかり守っていれば現在起きている雇用の問題など存在しないはずなのだ。

 

私が社員、派遣社員、アルバイトを含めて100名以上の部をまとめていた時はコスト管理を徹底していた。コストの中で一番大きいのは人件費だ。それをカットするのは当たり前。しかし、部を統括する私、複数のチームをまとめる副部長、チームをまとめるマネージャー、派遣社員とアルバイトとまとめる社員。すべてに責任の差がある。この責任の差というのは情報開示でも明らかだ。明確な業務わけをしていても業務量とクオリティ管理を徹底していくとどうしても個人に責任が乗りがちになる。そうなるとアルバイト、派遣社員を正社員にする必要があり、何人も引き上げた。その方が責任を与える事ができ、全体的に効率が良かったからだ。もちろん、会社全体がそのようなピラミッドになっているわけではなかった。しかし、私の部だけは表向きは清廉潔白でいよう、という事をスローガンにしていた。なぜならビジネスとは往々にして不条理なものだからだ。表向きも不条理だと全てがカオスになり、上司として仕切って見本を見せる事などできやしない。

 

では、今起きている雇用の問題はなぜおきるのか。それは法律の問題ではなく、日本社会がそう求めているからだ。人間を肩書で見下す事を好み、自分が他よりも上である、という相対的な事で幸せを感じる人が多い。なので平気で他人を点で見下す。アルバイトには「自分のキャリアの為」と称して時給外の宿題を押し付ける。保育士問題も同じだ。子供が好きな純粋な気持ち、などと言う人もいる。そして金の話をすると「結局金か」と言う。

 

当たり前だ。仕事でのつながりである以上、すべてを金で換算して向き合うのが人間社会の経済活動として当たり前なのだ。自分と同じ(レベルの)人間として接し、相手の時間、給与(時給)を考えつつ、マネジメントレイヤーとしてコスト管理を徹底すると、自然と同一労働同一賃金になるのだ。例えば、今は組合が出来てマシになったが、アメリカで移民が最初にする仕事とはタクシーと相場が決まっていた。学歴も職歴も必要ないからだ。そこから金を貯めて這い上がるのだ。

 

しかし、日本ではタクシー運転手が家族4人を養って一戸建てを持っている人もいる。同一労働同一賃金の概念のクオリティーでいったらありえない。それはなぜか。それは政治家が組織票の為に業界を保護しているからだ。ブラックバイトはなぜ発生するのか。アルバイト=雇う側より格下、という扱いをする人達がいるからだ。非正規雇用問題も一緒だ。正規雇用社員よりも格下が当たり前と思っている人達が多いからだ。格下も上もない。相手の人生を尊重してその時間を敬う気持ちがあれば、同一労働同一賃金は簡単なのだ。そして、これは正規雇用社員の不安定化につながる。というのも、日本では明らかな無能社員が多く存在しているがクビにする事が出来ないからだ。正規雇用社員が既得権益化しているのはタクシー業界の例と同じ。組織票だ。つまり、日本人自身が同一労働同一賃金を許さない社会を作ってしまっているのだ。

 

同一労働同一賃金が実現すればブラックバイト問題も非正規雇用問題もこれほど存在しなくなる。ほぼ独占のライフラインの子会社だからといって、メーターを見るだけのような仕事は移民の最初の仕事になるかもしれない。社員も平気でクビに出来るようになれば、無気力社員分の給与を新たな雇用に当てる事が出来るため、人材も流動化する。日本社会にとって良いことだらけだ。しかしそれらを許さないのが日本社会の問題なのだ。

 

非正規雇用関係の法律がころころ変わるのがまさにそれ。問題などそれなりのマネジメントクラスであれば誰でもわかっている。私が思うに、多分同一労働同一賃金が実現するような社会になるという事は、多くのバブル世代の社員が職を失う事になる。それに釣られ、彼らを支えて疲れきっている45歳以下ぐらいの人達も職を失うだろう。まさに社会がカオス状態になる。そしてこうなる事はずっと前からわかっていた。しかし、それを変える事は出来ないのが政治というもの。

 

バブル世代でも一部は未だに力を持っている人達がいる。そうした人達は自らの加齢による老いを認めたくないばかりに、自分達が中心でいたいという承認欲求が強い。自分達が40代になった時は「ちょい悪オヤジ」とブランド化し、50代になった今は「アラフィフオヤジの余裕がモテる秘訣」とうそぶく。気持ち悪すぎる自己顕示欲。

 

本当にブラックバイト、非正規雇用問題を解決したと思うのであれば同一労働同一賃金を実現する、自らが身を切る社会改革に賛成する必要があり、それは日本人一人ひとりが組織に属する時にはその組織にとって必要な存在である、という業務に対するプライドとスキルの研鑽を重ねる努力をし続ける必要があるのだ。毎日早く帰ってバルで食事し、食べログにせっせとレポートしている暇などなくなる事を意味する。その覚悟がほとんど社員がないのだろう。社員=既得権益=安定。多くの社員達が安寧の夢を見ているうちは立場の弱い雇用者へそのツケは押し付けられる。それらに気付いても社内改革すらしない、自らが安寧でいる役員が多い事も問題でもある。

 

という事で、雇用問題は日本社会を構成する日本人すべてが当事者であり、法律や政治家を責める問題ではない、というお話。

秋元康の歌詞はファンの年齢と共に進化している

AKBが一般的に大ブレークのきっかけとなったのが、「RIVER」という曲だ。当時まだ秋葉原のミニスカ軍団と呼ばれることもあったAKBと48が井上ヨシマサのアイドルらしかぬ曲調にのせて歌った歌詞が「川を渡れ!You Can Do It!」だった。ITバブルも終わり、失われた時代とまで言われた当時の停滞した経済、社会の中で、秋元康の歌詞が元気(?そんな簡単な言葉ではない。適当な言葉が浮かばない)を無くした人達の心に響いた。自分達だって何か出来るんじゃないか。そんな勇気をもらったとも言える。そして、「RIVER新規」と呼ばれるファンが爆発的に増え、一気にメジャー街道を登っていった。

 

そして時代は過ぎ。バブルのような金がトリクルダウンでまわるのでははなく、ガチャ等の課金ゲームといった、中下層の人達から金を巻き上げるビジネスモデルによるIT時代が訪れ、上層の人達はそれによって安定を得る社会になった。「RIVER」で背中を押された人達で経済的に成功している人達も多いだろう。会社でもマネジメントレイヤーにプロモーションしている人も多いかもしれない。「RIVER」の頃と違うのは報道の自由が更になくなり、社会が閉鎖的になっている事だ。そしてその閉鎖的社会のシステムは失敗した人達は再起が出来ないという日本社会を象徴でもある。逆に言えば、一度上層に入る事ができたら安寧維持に勤める事が得策であり、「RIVER」で言っていた挑戦などは必要ない人達が増え、敗者はほぼ二度上がる事が出来ない格差社会がいよいよ本格的になった。そんな時、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」が発売された。歌詞的には「RIVER」に近いのだが、タイトルは真逆だ。「川を渡れ!」というのは目の前の川で躊躇している事。しかり、「ここがロドスだ」と言われる人の場合は、目の前の川で躊躇したのではなく、「川は渡ったんだよね~、でも何も無かったし~」という、ネット社会で検索した情報、メディア発信の情報を信じて、自らは行動して現場にいて感じる事の無い人だ。これはスマホ社会でいつでもネットに繋がっている人の層にかなり近い。残念な事にこの曲はシングルカットではなくアルバムタイトルだった。しかし、私はこのタイトルは「RIVER」に続く強いメッセージだと思った。

 

そして、高橋みなみを送り出すかのようにメジャー卒業生を集めた「君はメロディー」が発売された。彼女のAKBでの時代の流れはそのままファンやそれ意外の人達も同じ時間軸だ。その中で自らを成功者、と呼べる人達はどれくらいいるだろうか。もちろん、幸福論は相対的なものではなく、絶対的な方がストレスは溜まる事はない。しかし、その価値観自体が夢を持たない、高望みはしないという、中庸までいかない、自らを押し殺すながらの自らの分を知るような、というか、諦めを現実として受け入れるような、いい子になっているというか。そんな感じだから「自分の事が好き。健康で普通に生きいるからね」と公言出来る人の多さたるや。もちろん、何も悪い事ではないが、そういう人に限っていうと東京に住み、アラフォーでも独身でパートナーいなかったりする。東京に住む中年の50%を超える人達だ。それは本当に望んだ幸せなのだろうか。幸せである、と思い込みたいだけではないだろうか。その方が現実が辛くないから。そんな時、「君はメロディー」の歌詞は過去を見せる。あなたが望もうが望まないが、過去があるから今のアナタがあるのよ、と。嫌な事だってある。でも嬉しかった事もある。そんな記憶の断片からだって、今のアナタは形成されているのよ、と。PVは蜷川実花で過去のPVのオマージュのようになってしまっているが、実際に歌う時のAKBのパフォーマンスは卒業メンバーが今のメンバーを何度も抱きしめる振り付けがある。逆もそうだ。そして、最後には過去(前田敦子)と今(横山由依)がお互いに肩を抱き合う。過去の自分と今の自分と。人生はつながっていて一つのメロディーのようになる瞬間だ。そう、これは二度と浮き上がる事が出来ないと思い込んでいる日本社会の91%ほどを構成する庶民達に、自己肯定を促しているのではないだろうか。

 

このままでいいわけがない。でも現実は変えられないし、社会も変えられない。そんな諦めがムードではなく、当たり前になったある意味スマートな考え方の現代では何が正しいのかわからない。その反動として、デモをする若者が増えたりする。しかしそれらは社会の反動レベルであって、やはり現実は変わらない。つまり、情報過多の社会の渦のなかで、自らの極小化が進んでいるからこそ、今の現実で満足、という事になってしまうのだ。人間がそんなちっぽけなわけがないのだ。確かに教養の差というのは如実にある。高橋みなみのAKBでの人生と同じくらい色々経験した人などほぼいないだろう。年齢も関係ない。何も考えず流されるだけの人生で成長もしていない人もいるだろう。それでも、だ。そんな人だって例えば子供の頃に初めてブランコにのった時の感動はあっただろう。初恋もそうだ。つまりその感覚がその人そのものであり、「歳だから」「今の立場じゃ」「こんなご時世だから」と今の現実で無くして(手放して)しまった感覚は過去にはしっかりあり、それらが記憶として紡ぐ事で自分が形成されているのだ。

 

私は出来るだけ過去を見ない事が未来へ新しい挑戦をする力になる、と信じていた部分がある。その後過去があって今の自分がある、というすべての経験への感謝の気持ちを理解する事が出来たのだが、それでも今の現実が辛い以上、やはり過去を振り返る事を躊躇し、心の中ではむしろ否定していた部分がある。「君はメロディー」を聞いて再度感謝の気持ちを持つことが出来るようになった自分の過去経験をしっかりメロディーとして、未来へ紡いでいきたいなぁ、と思った。