底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

人間の尊厳を傷つけられる事とは。人間性の無視とは。

SNSで直接「死ね、消えろ」。こういう事が大概尊厳の否定にあたるという認識が多いと思う。100のイイねよりも1の誹謗中傷が心に残る。これは有名なスポーツ選手が言っていた。しかし、何も特徴も無く目立たない(目立たないように生きている)一般人が直接誹謗中傷を受ける事って少ない。なのでジャブのように他人の尊厳、人間性を否定して削っている事に気が付かない、もしくは気付いているけど止められない人が多い。これが日本式の人格否定のやり方だ。はっきり差別や区別、誹謗中傷としてのパンチラインがあるわけではない。なので受け手はじわじわ心を削られ、尊厳が失われて自信を無くし、その鬱憤はの発散は内にこもるか外に向く。

 

むかし、いとうあさこがレオタードネタの時の冒頭で「今の年齢になって最近、イライラする!」というセリフがあった。更年期的なホルモンバランスの欠如の年齢ではなかった。私は当時からこれは「女性は年齢で差別されるもんなぁ」ぐらいは思っていたが、今自分が同じような歳になって更にわかる。特に直接言われるわけではない。それでもあらゆる挑戦を阻むものに(年齢)というのが日本では根強くあり、細かく自身の尊厳が傷つけられて意欲が削がれていく。

何度も言っているが、私はやっと獲得した路上喫煙禁止の中でも煙を吸わされる時にいつも自分という人間が無視されている感じを受ける。他人に吸わせる権利が無くなったのにそれを守らない=私を他人、守るべき人間を思っていない事が明白だからだ。

例えばこういうのはどうだろうか。たった3ヶ月で会社を辞めた人がいたとする。自分はまだその会社にいる。しかし同じチームの人は「アイツがいればなぁ」「アイツに認めて欲しいなぁ」といい続ける。今は自分がやっているにも関わらず。それは今目の前にいるアナタの人間としての尊厳が無視されている事でもあるし、業務としての感謝もない。例えあったとしたらそんな酷い事を言うのは更に問題だ。逆にそれぐらいで辞めた人間よりも今のアナタのスペックが低いからだ、という意見もあるだろう。しかし、それはスペック比較を細かく優劣を付けて比較するという問題であって、例えその結果劣になったとしても今目の前で仕事に従事している人間を比較して卑下し、尊重しなくていいという理由にはならない。

 

毎回同じ事なのだが、結局は人間を条件、スペックとして優劣をつける事=人間性の優劣を付けて見下す、尊厳を傷つける事、はイコールではないという事だ。これをわかっていない人が多すぎる。だから

・芸能人だから多少の誹謗中傷は受けるべき

・風俗嬢だから性的欲求のはけ口として扱っていい

・家族友達、気になる人等の指定された人間以外の人間性は無視していい

という発想になるのだ。確かに、人によって人間の評価は違う。絶対に男性は身長が高くないと駄目、と認知の歪みがある女性にその思想を否定するつもりはない。それは価値観だ。比較して小さな男性を下に評価として下に見る事もあるだろう。しかし、だからと言ってそれが相手の尊厳を傷つけて、人間性を無視していい理由にはならないのだ。

 

日本社会はこの、自分にとって都合のいい人間のスペック的評価(年齢、外見、年収、趣味等)で他人の尊厳を無視していい、という暗黙の了解があるように思われる人が多い気がする。

というのも、憲法学者の木村草太氏に噛み付いた匿名一般人がいて、もちろん論点がずれているから議論にはならなくて、

・木村草太氏は現状改善としての新しい提言

・一般人はその事を否定するエビデンスの無い個人意見をぶつける

の図式で、それに対して木村草太氏は「私は何も不快に思っていない。そうではなく、自身の憂さ晴らしにSNSを利用して攻撃してきた事を詫びるべき」と一貫していた。そりゃそうだ。未来の改善提言に対して現状こうだから全部無理、なんていう否定は議論ではなく相手の全否定だ。それは人間が考える生物、思考生物と考えれば人間性の否定だ。そんな事をするのは議論をしたいのではなく、相手を否定したいからであり、論破したいという欲求。その根源は結局自身が何かしらイライラしているからというわけだ。だからといって相手を全否定する権限は無いという事なのだ。

 

私は自分がゼロになった時にものすごく考えたし、今年になってストレート・エッジを止めた事で再度確認出来た。自分がスペックとして客観的に社会的優劣が付けやすい時とは違い、ゼロ、いや、社会的にはマイナスになったと感じていても他人との接点は同じように生じる。ちょっとした事、こちらを人間として認識した気遣い。それはしっかり今まで以上に伝わるようになった。逆に言えばこちらを尊厳を無視し、人間性を無視する人達の事も今まで以上にわかるようになった。

 

確かに誹謗中傷という大きなパンチはやらないが細かく他人を傷つける事、無視する事はOKという人が多くないだろうか。そこまで気を使ってられないという人もいるかもしれないが、私の知人で未だに一切SNSをやらずネットにも詳しく無い友人は対応がとても優しい。これは他人に気を遣うというキャパに余裕があるのではないか、と思う。リアルの接点などそんなに時間を取れるものではない。そこに当たり前に人間として接する。それだけ。

様々なSNSマッチングアプリ、会社、友人。人との接点が多ければ多い程、人によっては他人を尊重尊敬するというキャパがオーバーしてしまうのではないだろうか。もちろん、常に他人を尊重して感謝をする、人間性を磨くという信念の人は自身のキャパを増やす事になるのでそういった穴に落ちる事は無いのだが、そこまで自身の人間性を伸ばそう、客観的に注意しようという人の方が少ないのではないだろうか。

 

自身が当たり前のように他人から大事に扱われてない人は同じように他人に接する。恋愛、家族愛、友人関係。すべては承認欲求や認知欲求で説明が付くのだから、欲しい相手からだけ大事に扱われればOKで(つまり多少必要な演技をする)、その他の人間の尊厳を傷つける事、人間性を無視する事が平気に出来るようになる。だからネットの誹謗中傷を法律等で制限しても意味はない。問題は言葉狩りではなく、いかに他人を尊重できるか。尊厳を守る事が出来るか、だからだ。その根底を明確に認めないから法律で暴力が禁止となるとパワハラが起きる。DVが禁止となるとモラハラが起きる。法律に引っかからないように他人の尊厳を傷つける行為をする輩が減らない。ここがたまに芸能人が言っている、「自分がやられたらどう思うか考えてみて」が通じない所だ。なぜなら誹謗中傷する側も常に細かく尊厳を傷つけられ、人間性を無視され続けているからだ。その蓄積は人間性を破壊するには十分の威力がある。楽しい事は蓄積するが悔しい事、侮蔑的な事は蓄積ではなく熟成する事が多い。そのぶつけようも無い焦燥感、怒りは自身の精神をついばみ続け、結果、自身の尊厳を守る為にはその矛先を他人に向けざる負えなくなってしまう。

 

またとりとめもない備忘録。