底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

学校問題に心を痛める春名風化さん

https://twitter.com/harukazechan/status/1172711776531537920

ツイッターで積極的に発言をしている春名風花さんが上記のようにつぶやいていた。なんで学校は変わろうとしないのだろうか、と。子供がこれだけ亡くなっているのに、と。

 

なんて純粋な疑問なのだろう。これは以前児童相談所の時に話したのと同じ答えなんですよね。

答え。人間の組織だから。

 

学校で言えば、真剣に子供の事を考えている人は心を病むか辞めるかもしくはバカで教職免許取れないか、という感じで、子供の事よりも自分の職の確保優先の人間が出世して組織の上に立つのは日本の組織として学校でも会社でも児相でも同じ。学校はなおかつ教育委員会という更に上の美味しいポジションがあるのだから、そこの少ない枠に入る為に上の人達は必死だから。つまり、教員というのは職の種類であって、それは会社の社員と同じ。上層部は既得権益になる。

 

前にも書いたが、私が職歴的にイケイケの時、誰もが知っている大企業の部長面接までは必ず通ったが、役員面接で落とされるという事が続いた。大企業になってから入ってきた年配(中年)の役員達は自分の立場の確保が優先。しかし、部長面接までの人はそれが問題で上に楯突いて社内改革をしてもらえる、と期待して私を通す。組織の上に立つというのは創業経営者じゃなければそういうモノ。

 

じゃ、どうすればいいのか。様々なやり方があると思うが比較的簡単なのは教育委員会がある事を利用すればいいと思う。ここを完全教員経験を排除した部外者でなおかつ、道徳的、倫理的、社会的、経済的等に優れた人物を選出する。選出方法は選挙や投票等、民間参加での選出にする。公的機関の選出だとスポーツ系組織団体のように天下り補助金くすねの組織になってしまうからだ。その完全第三者機関の教育委員会がまずはしっかり学校を監視する。利害関係の無い物言う理想論者でない限り、日本の組織の上層部を変える事は出来ない。現場は給料と権力にしか興味が無い人しか出世は出来ないのだから。

 

まあ、それを考える人達も既得権益者達だから改革は難しいね。第二次世界大戦の時に平民の命を恐ろしく軽視した大本営上層部人達の末裔と取り巻き、貴族達が今の社会を作っているのだから。選挙でなんとかはなるはずなんだけど被害を被る庶民ほどそれに興味無いし。

ふぅ。更新してしまった・・・。

 

身バレしまして。

リアルに私を知っている人で常に私を全否定する人がいて。つい、匿名で宣伝もしていないブログでも見知らぬ人が支持してくれる事もあるのに、と言ってしまったんですよね。もちろん相手は

「そんな人(てめぇに共感する人)いるわけねぇじゃん」

的な反応でしたが。断片情報で検索されてこのブログがバレてしまいました。

ここは社会的にも精神的にも底辺に落ちた(と勝手に自分が認定した)と思った私の再生の記録で、当初のエントリーは見直すのも嫌で、書きなぐりの心の恥部が書いてあるわけです。いわば弱み。私だって実社会では薄いですが心に鎧を着ていて。それでも全否定する人に鎧の中を見られるわけです。もう、確証バイアスのネタですよね。見下す為の実証が増えただけ。

 

そりゃ落ち込みました。そんな時、人生の大先輩方とお話する機会がありまして。私の事をクソミソに全否定する人がいるという事はそれなりにそういう事実があるのでは?なんて言ってしまったら・・・。全員が声を揃えて

「それは逃げ!自分の存在価値を他人にゆだねては駄目!」

とお叱りを受けました。私は、は!と気づいた、というか、薄々気づいていたんですよね。例えば、私を全否定するその人の私に言う事実、

中年で社会のヒエラルキーで底辺で、考え方が・・・等々、それらを全て逆の人であっても社会的倫理観等が私の求める人間像で無いし、決して幸せな家庭じゃ無い人もいる。逆に、私よりもむしろメディア的社会一般的基準では下と思われる人でもしっかり家庭を作っている人もいる。特殊例を出したらきりがないとはいえ、矛盾が生じるわけです。

貴方はこれこれの理由で、はい、全否定。

貴方はこれこれの理由で、はい、全肯定。

どちらも悪魔の証明なのです。なのに、リアルに他人に全否定される事=自分の価値、と考えてしまって自信を無くしてしまっていたんですね。いつの間に。

 

自分の価値は自分で決めて、自分で道を切り開く。それがサラリーマンじゃなくなった人間の心得なのかもですね。まあ、サラリーマンでもそういった事ができる人いますけど。

自分に対する自信のなさをつい、他(社会や他人)のせいにしてましたね。その身バレした人には先日会った時も

「いや~断酒中だから女性と会ってもその先に進む事がなかなか難しいね~」

なんて軽口叩いたら、

「アナタが相手にされないのはそれだけの問題じゃないから」

とまた全否定されて落ち込んでいて、なかなか立ち直れなかったのですが、そもそも他人に承認欲求を求める事自体が問題だったのですね。そんな事をしていたら絶対に完全に承認される事は無いわけですから。100%完璧な人間はいないわけですから。

 

面白いのは、既婚者(浮気していない)人は男女とも、こんな話は手前で一笑にふされるんですよね。他人との生活は我慢と忍耐、という。でも、未婚者(離婚含む)や、既婚者でも浮気症の人は他人に要素として完璧を求める傾向があって、減点方式で人を見るんですよね。前者は減点も加点も無く、そもそもそういう風に人を見ていない。私はこれを他人とセットになった時、総じてプラスの人達=既婚やパートナーがいる人、と思っていたのです。実はそれだけが真実ではなかったわけですよね。まさにパラダイムシフトでした。

 

そんなかんだで、この身バレも私にとっての試練なんでしょう、はい。人間性を全否定する人なんて世の中に腐る程いるわけだから。捨てる神あれば拾う神あり、ってよく出来た言葉ですよね。捨てる人間あれば拾う人間、じゃないんですよね。他人に心の生殺与奪を握らせない。

 

なんか少しだけ強くなった気がします。ちなみ、この私を全否定する人とは今も仲よくさせていただいてます。だって、私からすれば色々感謝しかないですから。

表現の不自由展

大前提として。アートという定義は人が受ける言葉の定義であって、それはひとそれぞれ。だから私は「アート」自体の定義や内容について論じるのは意味無いと思っている。よく意味がわからない人はバンクシーの映画「バンクシーを盗んだ男」を見るといい。

私はマスメディアの情報番組等を録画して倍速チェックする事がある。それはマスコミの情報操作や今のマーケットへの迎合具合をチェックする為だ。で、曲者揃いの「サンデー・ジャポン」のゲスト出演者達全員がこの「表現の不自由展」を批判していてびっくりしてこのエントリーを書くに至った。あれだけ年齢立場教養活動場が違う人達が全員同じ意見になる事など確率的にかなり難しい事だからだ。

同日の前の時間に橋下徹氏と桜井よしこ氏もこの問題について語っていた。もちろん、反対であり、橋下氏は「天皇とか関係無く、人間の肖像を焼くようなアートは反対」と番組内でもツイートでもおっしゃっていた。桜井よしこの反対はまあ、想定範囲内。

 

この展示の反対には大きくわけて2つの理論がある。一つは私的なアートならばまだしも、公費を入れた展示物としてはいかがなものか、というもの。もう一つは全否定。全否定の人は人の意見を聞く余地がなく、それこそ表現の自由とは程遠い場所にいる人達なので、ここでは無視して。公費問題についてはどうだろう。

 

まず、韓国の従軍慰安婦問題団体が作る少女像。これが展示されているのは「日本軍の従軍慰安婦の問題」について是非を提起しているのではない。韓国ではこのような像を作って政治利用したりするよね。じゃ、国内では同じような表現は出来ているのかしら?という事。従軍慰安婦問題の是非じゃないのだ。少し前、集団的自衛権の拡張関連法案の時のデモを見に行った事がある。デモ隊の多くは「アベ政権を許さない」と吠えたり旗を持っていた。私は思った。

「アベ政権を許さない、って?」

だって、日本の総理大臣はアメリカの大統領のような直接民選ではないから、そのような巨大な権力があるわけではない。単なる代表であって、問題は戦後から続く戦中でも庶民の人命軽視の戦術を行っていた権力保守層であって、元貴族、地主系、その他関係者との利益誘導でズブズブの関係を作ってきた保守政治家、支える官僚、メディア、そして支持庶民であって、決して「アベ政権」の問題ではないからだ。そんな彼らの主張はやはり通る事は無い。保守に守られている庶民層(若者、正社員、金持ち老人)の方が強いからだ。だからこのデモ隊、特に参加した若者達の団体はネットの中年達にひどく叩かれた。それでも表現は出来た。多分、従軍慰安婦の問題を日本で主張したい在日韓国人の団体がこの「少女像」を掲げて主張しても、まさに「アベ政権を許さない」状態になるのは目に見えている。それでもその主張を日本国内でやる事は表現の自由として守られていいはずだ。「アベ政権を許さない」という問題の根本はそこじゃない、という政治利用だって許されるんだから。何も、少女像の展示=韓国の従軍慰安婦団体の主張を受け入れる、という事にはならないのだから。表現の自由を与えよう、というだけの話だ。

肖像を焼く、という展示についてだが、これは抗議で展示中止となって焼かれた図録を忠実に表現したとの事。昭和天皇をモチーフにしたコラージュ作品が抗議によって非公開になり、その後焼却された事実について、(モチーフは駄目で、それを焼却するのはOKなの?)という事を表現しているわけだ。誰であっても写真を焼かれるのは気持ち悪い、というのであれば、コラージュ作品のままで良かったはずだ。コラージュが天皇を冒涜している(?)的な事あれば、それを焼却する事の方が冒涜なのじゃないか?抗議をする人達にとって、という問題定義だと思う。だよねー、と言うしかない。

 

再度言うが、アートかどうかというのはどうでもいい。展示が中止になったこれらの数々を見て、表現の自由って何か、何に忖度して断られた作品なのか、抗議の内容はどういった事なのか。日の目を見なかった(もしくはすぐ下げられた)作品を見て「表現の自由」を考える、というのがこの展示の趣旨なのだろう。そこに愛知という自治体が公費を入れる、というのは日本という国ではかなり先進的で挑戦的な事だと思う。少女像を見ただけで「韓国に迎合するのか!」と条件反射で騒ぐ保守派、ネトウヨさん達が多いし、リテラシーが無いのが日本国民であるからだ。これは利益誘導をされているマスメディアや有識者、自称ジャーナリスト達が保守を言論で守って庶民を誘導しているからで、普通の人なら社会正義よりも自己の正義(生活)を優先してしまうもの。だからジャーナリズム精神が育たないのだ、日本は。それは第二次大戦中と全く同じ。発言力のあるジャーナリストやマスコミが利益誘導されているから動かないから、言論の自由度の世界ランキングは毎年日本は下がっているのだ。だからこそ、公費じゃないと出来ない内容として、この「表現の不自由展」はあったのだ。

公費、というのを予算と考えてNHKの番組として考えてみたらどうだろうか。民間で作れる番組を予算を使って沢山NHKは作っているが、NHKしか作れない番組(視聴率も稼げず、スポンサーもつかない内容)もあるだろう。だから国営放送であり続けるのだ。だから未だに第二次大戦時の大本営の失敗や毒ガス部隊などの情報を毎年更新し続けている。NHKが毎年終戦記念日前後に粛々と第二次大戦での日本軍の酷さを暴き続けるのと同じく、地方自治体が「そろそろ、日本にも国際的な感覚での表現の自由があってもいいのでは」と問題提起をする為に、今まで撤去された作品を中心に「表現の不自由展」を行う。戦時中はすべての新聞が同じ内容だった。これは庶民を騙したとして進駐軍が作った戦犯リストにマスコミは入っていた。裁判は日本人に委ねられたが、我々は罰する事はしなかった。今回の件はそれに近い。マスコミが一斉にコメンテーターや番組ゲストを使って批判をしたのだ。先に述べてサンデー・ジャポンがいい例だ。再度言うが、全員一致など本来ありえないのだ。

 

今回の件は日本が表現の自由が無い国である事が露呈したという事では価値があった、これで議論のキッカケになった、などという意見もあるが、そんな事はない。日本に表現の自由もジャーナリズム精神も無い事に日常的に気づいている人でないとこの問題はわからないし、その他の人はそもそも社会のありように興味無いからネットニュースのタイトルだけ見て「何?公費で韓国の応援したの?」とか「何?天皇の肖像燃やしたの?パヨクって頭ウジ湧いてる!」ってつぶやいて終わり。すぐ忘れる。一部の憂さ晴らし隊は抗議やパトロールしてコメントを荒らす事に必死になるだけ。つまり、無意味な対立構造を生んでしまっただけだ。こうなると、憂さ晴らし隊は更に極右翼化していくし、逆に反体制側もただ反抗する事に執着(アベ政権を許さない、みたいにね)して現実問題を解決しない、両派とも極端な憂さ晴らし隊ができる事につながる可能性がある。

 

まあ、どちらにしても日本社会が変わる転機の予感なんだろうね。

 

前向きになった底辺が自分で現実を知るの巻

ちょっと前の話になるが。

ここ最近、結構前向きになってきたの。今まで自分を追い込む事ばかりやってきたけど、足りない金を更に新しい経験に投資したりした事も功を奏したみたい。やはり人間によって傷つけられる傷は人間とのふれあい(直接ではなくても)によってのみ、癒やされると思う。

で、まあ、その気は殆ど無いが、社会復帰ができるか?と思って履歴書、職務経歴書だけでは足りないと思って、自己PR書をPPTで作成してみた。半日かけて。

久しぶりのプレゼン資料。写真もフリー素材から拝借して、なかなか綺麗なモノが出来た。そして見直してみると。

 

「俺ならこいつ、採用しないねぇ・・・」

 

そう。プレゼン資料を作成した事で自分の脳が会社員時代に戻ってしまい、資料を客観視出来てしまったのだ。つまり、会社というのはとことん、効率を追求する。その中で、いくら人間的に面白くても、効率を考えたら私のような人材なんて採用しないなぁ。と。

 

そんな客観視が出来て良かった。さて、自分で色々する覚悟と自分の道を決める覚悟だな、あとは。

 

 

再エネ発電賦課金の不思議

再生可能エネルギーの固定価格買取制度の買取に要した費用は、電気料金の一部として、電気をお使いの全てのお客さまに、電気のご使用量に応じて「再生可能エネルギー発電促進賦課金」としてご負担いただいております

という制度ですね。これが年々値上がっております。いくら節電しても電気料金がちっとも下がらない原因にもなっている。

ちょっと昔のブログだが、

www.taro.orgこの時よりも倍以上に値上がっている。再生可能エネルギーの復旧の為に、という名目になっているこの制度。再生可能エネルギーで発電した電気を電力会社が一定価格で買い取る事を政府が決め、その電力会社の買い取り費用を負担させる制度。

 

おかしくないだろうか・・・。

 

例えば、電気自動車を普及割合に目標値を設定したとする。その時の自動車価格の高騰を防ぐ為に、全国民(車を乗らない人)からもその電気自動車製造コスト(普通車よりも高い部分)の費用を徴収。この理屈がおかしい、というのはわかるだろう。であれば、なぜ電気はOKなのか。

電気はライフライン(電気、ガス、水道)である。ほぼ無くてはならないもの。再生可能エネルギーの目標値があり、それを実現するのであれば・・・。それは企業が負担するのもではないだろうか。東京電力がそんな事いやだ、投資はしたくない、という事になれば他の事業者が台頭する。それが市場競争であり、であればその状況を考えて政府がする事は電線の開放。つまり、事業参入しやすいように、かつて国営時に整備した電線網を再度国所有とし、再生可能エネルギー生産業者が参入しやすくすればいいのではないだろうか。いやいや、それでは再生可能エネルギーの方が高くて誰も買わない?それは現状の電気自動車と同じ。それでも買う人はいる。市場原理とはそういうものだろう。政府は再生可能エネルギーへの移行の為の規制を徐々に強め、既存電力会社は新時代に向けての設備投資を黙々とする(原発などではなく)。電線が開放されていればこそ、新規が参入しやすくなる。

 

再生可能エネルギーを既存電力会社が買い取る(それも高値で)。高値だから新規に参入する企業が増えるだろう、という算段なのだが、実態は補助金目当てのやるやる詐欺だったり、金持ちが戸建てにソーラーパネルを付ける、というだけになっている。それらを電力利用者全てが負担するのはどう考えてもおかしい。

 

政府が電線を国有化し、再生可能エネルギー業者には一定期間その電線使用量を無料等にすれば、例えば過疎化して人口が減った村等が全面をソーラーパネル村にして、自治体として電力会社を興す事も可能になる。そのメンテのために新たに人も集まるかもしれない。またはソーラーパネル巡回調査会社などもできるかもしれない。そうなるとソーラーパネル特区ができるかもしれない。これは政府が新企業に対して優遇するからこそできる事。

しかし、日本の制度は新企業(事業)を興す為に、既存企業を利用し、その費用を全国民から税金のように徴収する。こんな制度、国民が政府を絶対的に信頼していないとできない。そして、その既存企業がこの費用をほぼ利益にしていない、という、これまた私企業なのに誠実に対応している、というユーザーとの信頼関係があってこそ。

 

ここまで政府を信頼しているのだろうか。

ここまで既存電力会社を信頼しているのだろうか。

 

そんな国民ばかりなのだろうか。日本人は。既得権益者から搾取され続ける事に慣れすぎではないだろうか。

 

今でも拡大している貧富の差。貧層にとって、この再エネ発電賦課金の額はかなり大きなモノ。ここを選挙の争点にして野党が結託する事を望むのだが・・・。既存野党は自分たちと支持者の既得権益者を守る事で必死なのでこんな庶民の為になる事などしない。

はあぁ・・・。なんだろう。諸外国なら暴動レベルの出来事なのになぁ・・・。

拡大自殺

まだ決まった定義がなされていない言葉。拡大自殺。川崎殺傷事件で目にする事が多くなった。

「1人で死ね」には「関係無い人を巻き込むな」という前提があるのだと思うのだが、多分、加害者からすればその行為を行っている対象は「関係無い人々ではない」のであり、自殺をした以上、1人で死んでいるので、世間のこういった人々に興味も関心も無い人々の言っている事をしっかり守っているだと思う。

このブログでかなり前に、こういった行為(言うなれば拡大自殺)をする人々は増える、と書いた。それが私が社会の底辺にいるから、まさにこういう行為をする人の気持ちがわかるからだ。この部分では爆笑問題太田光が「すぐとなりにいる」という現象であり、このどす黒い感情を持った事が無い人にはわからないと思う。他人を憎む、恨めしいとは違うのだ。根底にあるのは

「自分を消したい」

という感情、気持ちだ。このブログを書き始めた当初、かなり登場していて自己肯定感の無さ。ここから、「自分が生きていてもいい」と思うようになるのはかなり難しい。太田光は「ピカソの絵を見て」生きていてもいいんだ、と思ったと言うが、このように他からの接触、エネルギーの流入が必要なのだと思う。

しかし、「ひきこもり」「たてこもり」状態だとそのエネルギーの流入が無い。中年のひきこもりの場合、自らの理想と世間のズレを認める事が出来ず、その理不尽さに打ちひしがれ、家の中に「たてこもる」状態となって自分をかろうじて守る事もある。例えばたった1年歳をとっただけで応募さえもできない求人や、ネットの心無い言葉。今まで自分が生きてきた人生全てを否定する社会。それが日本社会という現実の中、家族にまで否定され続けたら。なんとか生にしがみつくのに必死でひきこもり、たてこもるのだ。

しかし、時が経つにつれ、自己否定感はどうしようも無くなる。生きている自分の価値をそもそも感じない中、社会からも追い込まれる。私も感じた。なんとか這い上がろうと社員募集→まあ、落ちるよなぁ、ぐらいは思っていたが、アルバイトさえもひっかからない。最低時給で働く経験者が未経験の大学生に負ける。この時の絶望感。そんな情報だけを知っていたら、とても社会に出ていこうなんて思わないだろう。そこを這いつくばって自己を否定され続けて働く理由が無いからだ。もう、ライフはゼロなのだから。

底辺というのは自分が底辺の経験をしただけではない。自らも底辺と思い、実際にそれを社会で実感する、自他共に底辺である、という八方塞がりな状態になって初めて成立する。それは自分という人間が「相対的に底辺の価値」という事ではない。社会から孤立し、繋がりが無い状態では社会から「底辺」である状態になってしまう、という事だ。

太田光ピカソを見て自分も生きていていい、と思ったのは自分に生きる価値がないと思っていた反面、自分への理解が無い周りを見下すという反面の自尊心があったからだろう。キュビズムが理解出来ないと、あの絵を褒める社会の滑稽さ(キュビズムは素晴らしい絵だ。一応)を考えれば、自分というピカソ=天才を理解出来ない社会に絶望する必要はない、と思えたのだと思う。では、岩崎隆一容疑者(51)はどうだろうか。彼も同じように自分は生きる価値がない、と感じていた反面、自尊心があるから今まで生きてきた。前も書いたが、憎しみは熟成する。大きくなる。最大限に価値が無い状態(自死)選択する時、最大限に自尊心が大きくなる時でもある。彼からすれば関係しているカリタス小の児童を巻き込むのは自分をここまで追い込んだ象徴なような気がする。彼からすれば、彼を追い込んだのは彼をとりまく周辺の具体的な狭い社会だったのではないだろうか。なので憎悪の対象がはっきりあった。これがネトウヨ系だと対象は社会になり、「誰でもよかった」と無差別に繁華街(人が多い所)にでも行くだろう。

 

防ぐ手段はあったのだろうか。孤立させずに生きていてもいい、という価値を与える。たったこれだけだ。しかし、これが難しい。個人の人生でもかなり難しいから、結婚して相手に必要とされる価値を得て。それが薄れるから子供を作って「この子の為に」と自分の価値を感じて。それだけ個で自らの価値を感じるのは難しいものだ。そんな中、年齢や学歴、離職期間等で実力関係無く人間性を否定する事を肯定する日本社会では孤立した途端、底辺に陥る可能性が高くなる。特に中年は何の支援も無い。61万人と言われる中年のひきこもりは、親が認めない人達を含めると100万人以上と言われる。私もかつてそうだったが、一人暮らしだから統計に載るわけがない。これが豊かな社会なのだろうか。

今後、更に貧富の差が広がり、今51万人と言われる若年層のひきこもりがそのまま中年になる。そして100万人の中年のひきこもりはそのまま。それだけいれば同じように追い込まれる人が出て、同じような事件が起きるだろう。

「自分も含め、皆それなりに苦労しているんだから」という自己責任論の人々にとって想像が出来ないほど更に深い自己否定と憎悪。傷つけられる自尊心。その先にこういった事件はあるのだ。

 

まずは年齢差別を撤廃する事から日本社会ははじめてはどうだろうか、と思うのだが、そういった議論にもならない。年配=低賃金で雇える人手、として雇用する会社とかがフューチャーされる事に違和感を持たない社会だからなぁ・・・。

そんな事に悩む底辺君です。どうしたらいいんだろう・・・。

ちょっと前にぷち炎上したツイートについて

なんか、反論が下手でいいように逆に言われているのを見て、もやもやしたのでちょっと書いてみようかな、と。ツイートの文字数だと反論は限界がありますよね。

順を追って。

 

まがみ @ma_gami

「10連休の人は、それを支える我々サービス業が大勢いる事をお忘れなく!」 みたいなツイート死ぬ程回ってくるけどさぁ、そんなの10連休フルで休める仕事に就けるよう努力して来なかったテメェのツケだろうがよ。知ったことか
 
・これはよくある自己責任論ですよね。現在の結果が自己責任だけで終わるものではなく、家族、社会環境が色濃く影響している事は社会学、哲学、幸福学、政治学的に証明されている事なので、何かの結果を自己責任論だけで結論付けるのはいささか乱暴。ただ、こういう書き方をすると自己責任で成功した人の実例で反論をするを人がいるのだが、上野千鶴子氏も東大でのスピーチも、言っている事が100%全ての人に当てはまる、なんて言っていない。東国原氏のように、社会学的見地を少数の実例で反論するのはあまり上等な手段ではない。
 
まがみ @ma_gami
@yoskoo_zauzau @GJ_boy1 俺は10連休がない事自体をバカにした事は一度もないのに、勝手にコンプ拗らせて怒るのおもろ過ぎん?
 
・「10連休が無いんだ、ざまぁ!」と言っていないので、その事をバカにした事は一度も無い。それは事実だろう。ただ、
「努力して来なかったテメェのツケだろうがよ。知ったことか」
ここですよね。自己責任論が是可否であれば、非であるだけでなく、「努力」というのも単純に図れるものではない。何も努力をしていない人もいれば、努力をしても失敗する人もいる。この方は、個々の人生でそれなりに誰もがもがいて生きている現実に対して、たった一言、「努力してこなかったテメェのツケ」と片付けてしまったのだ。これはいわば、人間否定、人格否定だ。会社でのパワハラ手段としてよく使われる手段(足が付かない、という点で)であり、電通の自殺した女子社員が言われていた事や、ワタミで自殺した社員が言われていた事に似ている。これをもし無自覚(計算せず)に言えていて、その上で上記のようなツイートをしているのであれば、相当なパワハラ気質であり、それが社会的ヒエラルキー的に上層にいてサイコパスなのか、それともむしろ下層にして、投影同一視的に他人を見ているのか、はわからない。この人格否定の発言にネット民は食い付いたと思われる。
 

Apr 25

これは 「連休中に仕事だからってだけでそんな恩着せがましい事言う奴ら、本意なく働く事になったんだろ? でもそれは公休に休める仕事に就かなかったテメェのせいなんだから、1人で社会回してるようなデカい面して当たり散らすな」 って言ったワケ。そもそも自分の仕事に矜持あんならスルーするよな?

 

・この部分で上記した部分は省いて言うと、最初の、「知ったことか」につながる部分。「10連休取れない仕事の人達のことをお忘れなく」だけでなく、今回の10連休を取れる人は日本国民の6割という試算が出ているが、その中で休みたくない人(パートタイム従業者)を含むと、給料が下がらないで10連休を取れる人は5割を切るだろう。つまり、10連休を取れない人、歓迎じゃ無い人が多数である中、賃金保証と10連休がある人が少数派である、という事。なので多数派の人達が言いたいのはホワイトカラー層がクビに出来ない、同一賃金同一労働ではなく、年齢差別、性別差別がある既得権益化しており、そのためあらゆる政策がホワイトカラー向けのものが多く、今回の10連休は最たる例であるのだが、とそこまで深く政治に明るくなくても、日本がしっかり階級社会になって来ていることを肌で感じており、この層は実質賃金が下がり続けている(物価その他コストが上昇し続けている)人達。本来は政治に矛先を向けるべきなのだが、そこまで政治に期待をする事ができない(させないようにコントロールされているとも言える)層でもある。なので、上層階級の人達に向けて、「私達も実は同じ国民ですよ」という結託を求めるような恨み節に近い事を言いたくなる気持ちはわかる。本来上層にいるからこそ、そうした社会全体の事を考えるべきなのだが、実際庶民よりも詳しい人は多いが、だからこそシステム的に(個人や少数レベル)では改善は難しいという事を知っているし、なんにせよ、恵まれている自分たちの世界を壊してまで、という気にもならない現実もある。

そう、これは階級闘争なのだ。それを、「知ったことか」と切り捨てるのは格差社会に対してあまりにも無責任であるが、まあ、そこは許容範囲だが、ここは人格(他人の人生)の切り捨てへもかかっているので質が悪い。ここに追加して

「1人で社会回してるようなデカい面して当たり散らすな」

である。下層の人達が社会に当たるのは当然の事であり、それを救うのが本来の政治。しかも日本の場合は経済戦争の現代の中、自らの政策で陥った格差社会、階級社会だ。もちろん、それは庶民に責任もあるのだが。

で、この方は人格否定が出来るように、個々の人間の価値を軽んじすぎているから、「1人で社会回してるようなデカい面して」なんていう事を言えるのだろう。個の人それぞれに価値があり、社会をまわしている。それが哲学では前提である。社会学では「役割」をあてがう。なので、一人一人が社会を回していて、デカい面して本来はいいのだ。代わりがいないような天才、個性のある人は社会を構成する人間数からすると圧倒的に少ない。だからといって、そのモブ的人格を否定することは同じ人間としてやってはいけない事なのだ。本来。ここで本来、というのは否定することが当たり前だから階級社会になっている、という現実があるのでこの方だけの問題ではない、という事でもある。社会の構成員という見方で自分も他人も見ていない人にとっては自分と家族、仲間に直接関係無い社会の出来事は文字通り、自分は関係無い事、と見過ごして考える事もないだろう。しかし、自分が当事者(10連休が無い下層国民)として人格否定をされ、なおかつその役割さえも否定されて初めて階級社会、格差社会を痛感したと思う。その上で愚痴のはけ口であるTwitterでつぶやいてしまった。という事だろう。それを否定したければ、この方のように人格否定するのではなく、

「Twitterって掃き溜めだよね?」という

従来の論であれば良かったとも思う。しかし、リアルではけ口が無い人達からすると世間に口外する事がストレス発散になる側面もあるので、だからこそ、システム的にブロック、ミュート等の機能があるのだ。

 

ふぅ、後半ぐだぐだになってしまいましたが、相変わらず書き直し見直しせずに一気に書き上げ。これも結局、底辺の私の頭の整理の文章化ですもんね。

 

追記:

条件反射で想像力を働かせない人もいるので具体的な例を言うと、

「私は自衛隊員です。10連休はありません。少しでいいので我々の働きがあるからこそ、そちらの平和がある事を頭の片隅に置いておいてください。それだけで自分の仕事に誇りを持てる部分があります」

という人に対して、

「恩着せがましく言うなよ。自分で選んだ仕事だろ?公休に休める仕事に就かなかったテメェのせいなんだから、1人で社会回してるようなデカい面して当たり散らすな」

っていう事、言いますか?って事。

言う人は言うんだろうけど。