底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

NGT48 山口真帆の暴行事件で思うこと

運営の対応がどうこう、とかいう正論は他の人達にまかせて。私が思ったのは今の日本社会では「会いに行けるアイドル」というビジネスモデルはもう限界になったのでは、という事。

秋葉原48として始まった時はファンとはオタクであった。ざっくり言えば、多くが「電車男」的な男性が多く、チェックシャツをインする、小太りもしくはみすぼらしい青年中年が中心。スクールカーストで言えば底辺あたりの人達。こうした人達が中心となって、冴えない自分と違ってアイドルを同一視して応援する。だからこそ、アイドルが輝く事が嬉しいわけで、応援する。同一視なので、それは社会で底辺あたりの自分も満たされる事と同じだからだ。

しかし、この会いに行けるアイドルブームが起きてから10年以上。未だにテレビでインタビューするのは世間がイメージするオタク(メガネ、ファッションがださい)人ばかりを映すが、そのようなオタクもたくさんいるが、むしろ普通のファッション、むしろかっこいい方なのでは?という若者や綺麗な若い女性が多く、昔からの中年的ヲタ達が一角に集まっているだけ、というグループもあるぐらいだ。これは会いに行けるアイドルというのがもはやヲタクの同一視の対象ではなくなり、一般的になった、ということ。

私の1割理論で言えば、昔から一定数は悪いヲタクはいた。しかし、絶対数が少ない事と、ヲタク同士の監視の目(トップヲタ制度)等、尽くすヲタク同士の尊敬や敬意があった事で防げる部分もあった。しかし、一般的になった、という事はこの秩序が崩れる。ヲタクの世界が一般社会の人の配分に近くなる、という事はそれだけ悪い人間の感じも一般社会に近くなる、という事。アイドルを応援したい、近づきたい、という事で起きていたファン的な事件だけじゃなく、一般社会と同じわけだから、自己承認欲求を満たす為だったり、単純に性欲だったり。事件のバリエーションが増えていく。

 

川栄李奈入山杏奈が暴行されたり、冨田真由がめった刺しにされた時に業界は気づくべきだったのだ。今の日本社会は会いに行けるアイドルというビジネスモデルが成り立つほどの民度では無くなった、という事を。

多分、一部の人達は気づいていただろう。だから握手会をしないアイドルというのも出てきている。しかし、先駆者であるAKBGが止めない限り、その他のアイドル達(というか企業側)はこの美味しいビジネスを止められない。CD(握手券)が売れるからだ。少女達には夢の実現という事で薄給で済むので、利益が予想がたてやすいのも魅力だ。

であれば、完全な安全を確保すればいいのでは?という話もある。それは絶対に無理だ。なぜなら、これだけのアイドルグループがある、という事は関係者もそれだけ多い、という事。つまり、人間が増えればそれだけ人間の悪さも出る。運営側の人達が全員、自身のアイドルの事を一番に考え、仕事をするわけがない。自己保全が第一で、その後に自己の欲求を満たす事、というどの会社にも当たり前にいる人が運営側にいる事だって当たり前なのだ。余談だが、私は様々な経験をして金持ちになった事もあるので、金銭的欲望も無いし、結婚もしていないから自己保全も無いので、滅私奉公が出来る、というPRでAKSの管理業務を受けた事があったが、書類で落ちてしまった。私は若い時に100人以上のコンパニオン系の女性の管理業務をした事もあったが、女性に手を出さなかった社員は私一人だけだった。私はそこを誇りに思っていた(今となってはクソ真面目すぎたと思うが)。つまり、私のような人間はほぼいない、というわけだ。しかし、年齢経歴等で面接さえも出来ない。逆にいえば、手を出すかどうかではなく、天秤があったら自分の倫理よりも自分の欲求が勝つ、というのが普通であり、そういった人間が運営側、という事だ。あの秋元康だっておニャン子クラブメンバーに手を出して結婚しているわけだから。

 

話が逸れたが、そんな人間達が管理をしているわけだ。つまり、アイドルグループを作っているのは少女であり、情操教育や人間教育も必要、という事が理解出来ていない人達も多い、という事。それはそういった事が仕事のはずの学校の先生でさえ、真面目に取り組む人達は精神を病むほどの仕事だ。サラリーマンがするわけがない。つまり、メンバーも管理が薄い無秩序状態になる。そうなると、学校でもある、メンバーカーストだって生まれやすくなるだろう。メンバーの心のケア無しにメンバーに差を付けるのだから。それも完全に透明性があるわけでもなく。疑心暗鬼や嫉妬が生まれやすい土壌で、しっかり管理が出来るほどの責任感のある社員がどれだけいるか。むしろほぼいないのではないだろうか。学校にスクールカウンセラー制度があっても自殺が減らないのがいい例だ。カウンセラーというのは業務であって、真に子供を自殺させたくない、という人間性を伴っている人というのはそうはいないのだ。

握手券を数百枚単位で購入してくれる太い客が数人いる子に、購入が1枚だけど100人ファンがいる子が負ける事もある世界。逆にどれも少なくても運営から推される子もいる。コネ加入の子もいるからだ。ホテルでファンと定期的に密会、ジャニーズ等との合コンなど、ストレスのはけ口を性的な事に求める子が出てくるのも当たり前だ。キャバクラ嬢よりも収入があるはずの風俗嬢の方がホストに貢いで金が貯まらないのと同じ。よりストレスのある仕事の人の方が、よりはけ口を求める。全員が例えばディズニーランドに行って散財する事でストレス発散できればいいのだが(実際、そういう子も多い)が、ディズニーランドというゴリゴリ資本主義のやり方に自分達も乗っかっている、と見えてしまう感受性の高い子や感覚の鋭い子は、別の手段をとってしまうもの。それがいじめだったり、性的な行動だったり。それらの複雑な心理をどれだけ敏感に運営側の人間が感じられて制御出来るか。まず無理だ。

 

つまり、アイドルを取り巻くファン社会はもはや日本社会になった事で犯罪は防ぐ事は出来なくなり。

アイドル達は受ける負のエネルギーは増え続け、特殊な仕事から一般化した事でメンバーもアイドル志望だけでなく、権力者のどら娘なども増え、内外からのストレスで秩序の崩壊を防ぐ事ができなくなり。

運営側の人間も今どきの人(自己保全優先)となり、上記の問題などどうでもいい事となり、事件を防ぐ事も少女を守る事も出来なくなり。

つまり、この日本の「会いに行けるアイドル」というビジネスモデルは既に崩壊した、という事で、今止めないと今後更にこういった問題が起きるのは確実。

 

山口真帆Showroomツイッター等の道具があった事よりも、23歳という年齢もあるのか、本人がアイドルとして強かった。だから1ヶ月我慢出来た。これが10代の子だったらもしかした自殺していたかもしれない。実際、自殺した農業アイドルの子は16歳だった。

また、今回の事件で、頭のおかしい人は「ほぉ、アイドルの家に行ってレイプ出来るな、これは」と思って行動するだろう。そういう人は絶対にいるのが人間社会だから。

 

なんでこんな社会になってしまったのだろう、日本は。最近ずっと考えている。

 

 

 

ピーチジョンのラブポーション発売中止をうけて考える事

「こっそり食べさせる」という広告表示に批判が集まったとの事。その批判の根拠としては最近睡眠薬を飲ませて性的暴行を加える事件が多発しており、そんな中、媚薬的なモノをこっそり入れる、というのは不謹慎だ、というのだ。同社は販売を中止した。

 

こんな玩具のような媚薬になんの効果も期待出来ないだろう。しかし、それが犯罪を想起させるから駄目となると。

ほぼ毎日のように全国ニュースにのる、日本国内で教師による未成年へ対するわいせつ行為による懲戒、逮捕事件。毎年200人以上の教師がそれ関係で何らかの処分を受け、全然減らないどころか、SNSのおかげで更に潜れるようになり、増えているとも言われている未成年への教師のわいせつ行為。

これを問題視していたら、ピーチジョンへの批判を例にすれば、「中学聖日記」や「先生、、、好きになってもいいですか?」などは大批判、炎上してもおかしくないはず。なのに、そうならない。ネットライター達はプロモーションで「純愛!」などと煽る。なぜ?

 

私が学生の時、「Juice」という映画を見て衝撃を受けた。当時流行っていたDJのスクラッチの技にではない。もちろん、それはかっこいいのだが、若い人を中心に人気のあったラッパーの2Pacが劇中、銃を手に入れる事によって悲劇的な最後を終える、というストーリーにだ。日本では若い人に人気の役者が悪事をしても、それがかっこいい、となっていたのに、だ。仲間だけを大事にして世間一般への悪事はワルとしてかっこいい。それが当時の日本だった。そんな中、アメリカは若者へ影響力のある、悪童で売っていたラッパーが銃(暴力)による悲劇を描いていたのだ。私はこの時、「ああ、日本はアメリカには勝てない理由はここにあるのか」と思った。発信する力のあるもの、権力があるものが社会に対する影響もそれなりに考える、という自浄作用というか。その志というか。もちろん、全てではないが、そのアメリカの懐の深さにびっくりしたのだ。その後、2Pacは映画のように、実際銃で死んだのだが。

 

あれから20年以上経って。日本は当時と何か変わったのだろうか。子供を守る環境作りをしなければならない大人達が定期的に人気俳優を使って教師と生徒の恋愛を綺麗に描き、まだ世界を見る力の少ない子供達に事の問題の重要さを曇らせ続ける。こんな子供じみた媚薬の広告に目くじらを立てるほどの倫理観があるのであれば、なぜ教師と生徒の関係を純愛っぽく描く作品にクレームを挙げないのだろう。なぜ犯罪を防ぎたいのでれば、まず子供たちを守ろう、とは思わないのだろうか。ネットなどでは売りを示唆する投稿をする未成年側を責める大人もいてゾッとする。そういった未熟な未成年を問題視したいのであれば、そういう発想をする子供を生んでしまっている社会を構成してしまっている自分たち大人を責めるべきなのに。

 

要は、ラブポーションの広告にクレーム付けるぐらいの倫理観があるなら、目の前に当たり前に広がっている事にも気付いてね、という事。

ま、この非論理的思考、矛盾が人間というものなのかもしれないけど。

 

追記:この投稿の日、雑誌SPAが「やれる女子大ランキング」というクズ記事を作り、上位5校の大学が「著しく生徒の安全を脅かす」「女性蔑視だ」とクレームを上げた。これがまともな対応だ。となると、教師からわいせつ行為で被害を受けるのは更に年端もいかない小中高校生なのだから、マスメディアや既得権益側が教師と生徒の恋愛を綺麗に純愛っぽく描く作品を作ったら、各教育委員会、校長が団結して「教師への教育、統率に問題が生じる」「わいせつ教師から守りたくても生徒側へ間違った認識が受け付けられる」とクレームを毎回入れるべきなのだ。子供を守り、本気でワイセツ教師を減らしたいのであれば。

ただ、今日全国ニュースになった中学生へのわいせつ行為での逮捕は50代の校長だったのだが・・・。

なんだ、これ。

CMから降ろす、発言は問題なのか?

大前提として、日本でCMに起用されるタレントは企業のイメージアップに利用される為にあり、なので、CMから降ろすのも起用するのも企業の自由。

 

という事はあるのだが、ここで話したいのは「責任」という事。

例えば、アメリカでは有名なタレントは車やジャンクフード系のCMに出る事は無い。なぜなら、車にリコールが合った場合。「あなたがCMで勧めているから購入したのだ」と訴えられるリスクがあるからだ。太って病気になった場合も同じ。「スリムなあなたがCMやっているので問題無いと思ったからだ」と訴えられる。つまり、企業だけじゃなく、庶民に陽動する広告塔としてのタレントにも責任がある、という事だ。

 

私はこれは当然な事だと思っている。だからこそ、タレントはリスクある企業のCMはやらない、つまりその分の収入は無くなるのだが、その分、自由に政治的発言が出来る。逆に、その政治的発言に賛同する、訴訟のリスクの無い企業(ファッション系など)はそのリベラルイメージ等を利用しようとしてCMタレントとして起用する。これこそ企業とタレントが対等な関係。

しかし、日本では違う。海外のタレントも訴訟リスクの無い日本で車のCMをガンガンやる。バカな庶民は「あのタレントが宣伝しているから」と購入してしまう。真矢ミキの「諦めないで!」のCMでどれだけの人があの化粧品を購入しただろうか。彼女の宣伝無しにあれだけ売れる事はなかった。消費者は企業よりも真矢ミキを信じて購入したのだ。しかし、それで皮膚被害になった。その時に真矢ミキは宣伝しただけ、という事で責任はない、というのが日本だ。そんなむちゃくちゃな論理がありえるだろうか。消費者は商品だけでなく、タレントイメージも込みで購入したにもかかわらず。しかし、そのむちゃくちゃ、が日本なのだ。そんな日本でタレントが政治的発言など出来るはずもない。

しかし、ローラは発言をした。そして、TBCはそのローラを広告塔に起用し続けている。これは画期的な事で、費用以外なかなか差が出にくくなったエステ業界に、リベラルな企業である、というイメージを付ける事にもなる。信念も無く何も考えていない人には関係無いが、社会を考えている人には選択肢の決めてにもなるだろう。これはタレントにとっても企業にとってもプラスで、日本が世界基準に近づいた一歩とも言える。

 

多数決で多い方が正義という間違った民主主義を貫いて教育してきた日本では、企業やマスメディア、為政者はマジョリティーのみを向いた事をやってきた。しかし、それを支えてきた人達(庶民)はすでに高齢者。それが通じるのはあと15年~20年ほどだろう。生き残る企業はブランドイメージ戦略をさらに突っ込んで特定の層に刺さるようになるだろう。ライブコマースの成功がいい例だ。それが企業規模になるほど移民も増え、多様性が当たり前のになった近い未来では今の古い時代の日本のマーケティングは通じない。

 

今回の件はそういった時代の変化に対応していなかった企業側、タレント側にパラダイムシフトを促す一石になったかもしれない。競争が今後も激しく、価格競争に陥りがちな業界は、今が商品に関係無い、思想的ブランドイメージを付け、価格競争から外れるチャンス。タレントも事務所制約(権力)からはずれ、個人事務所ではなく、フリーのエージェントを付けて活動するチャンス。そして、フリーエージェントという、事務所に代わる仕事をする仕事が増えるチャンス。

 

と、言いながら、日本社会はそんな簡単に理論的に変わるわけない、と知ってもいるのだが。

上沼恵美子への暴言事件

該当の動画は見た。松本人志の「上沼恵美子がどれだけすごい人かわかっていない。相手がいない所で悪口を言うのは違う。(自分自身の過去の反抗)は面と向かって本人に言っていた。また、酔って言うのも違う」(要約)もオンタイムで見た。本人が謝罪する、という自体になり、ネットニュースの素人ライターもとろサーモン久保田とスーパーマラドーナ武智を叩く記事を書くようになっている。

私はお笑い好きだが、録画して見るようにしている。なぜならCMを見たく無いし、審査員の評価コメントも聞きたくないからだ。自分が面白いかどうか。それだけでいいので純粋に漫才シーンだけを続けて見ている。それでもちょっと家事等をする時には早送りしていないので、上沼恵美子の「嫌い、好き」というコメントを聞いたいた。

正直、当事者でもないし、審査点などどうでもいいと思っているので面白ければいいと思っているので彼女や審査員に何も期待などしていない。ただ、当事者にとってはとろサーモン久保田が言うように1点で人生が変わる、という気持ちがあるのであろう。それを酔った場で生配信して、審査員の悪口を言う事に何が悪いのかイマイチわからないのだ。

というのも、上沼恵美子とろサーモン久保田、スーパーマラドーナ武智とは業界内でのレベルの差が雲泥の差だからだ。日産の平社員がカルロス・ゴーンの悪口を生配信するのと対して変わらない。審査員とは本来相手の人生を担うぐらいの重さがあり、だからこそ、そのジャッジには責任がある。審査される側から文句を言われても、それをはねのける信念も必要だし、審査される側から「おかしい、不公平だ!」と自由に声が上がる事によって、また審査員も襟を正すし、審査方法が進化する事もある。審査される側が一方的に従わなければならない、というのは日本の権威社会主義の上下関係を押し付ける、パワハラそのものだ。

というのも、M-1で大事なのは、審査員の顔を立てる事でも、敬う事でも無い。面白い漫才をゴールデンタイムで行う機会を得て、売れるチャンスを売れていない芸人に与える事だ。つまり、審査される側が主人公なのだ。確かにダウンタウンは昔は面白かった。しかい、今はちっとも面白くない。そういう人だってたくさんいるはずだ(私もそうだ)。しかし、それをどこでも発信出来ないというのはどうもおかしい。

面と向かっていえない自信の無さ、立場。それがとろサーモン久保田に暴言を吐かせたのであれば、そういった若手の不満を受けて、過去に偉大であり、今でも日本の平均年収を超える収入がある、審査員の立場やシステムを作る立場であれば、「今の人は昔の天才肌とかいう感覚ではなく、分析したり数字化したりする世代。であれば、審査員も感覚派と分析派を視聴者や演者にわかりやすく提示するか。いや、感覚を点数化した方がいいか」など、考えるべきなのだ。それこそが再配分であり、それを出来ないで審査する側=上、される側=下、という序列を設ける為のコンテストなら即刻やめるべきなのだ。

ただ、これは視聴者というか、社会が求めているシステムでもあるのかもしれない。テレビを見ている人などすでに中高年以上ぐらいだろう。未だに年齢、経験=偉い、と勘違いしている世代だ。年齢、経験によっての「今」がすごい人のみが尊敬されているのであって、過去にすごかった、なんて何の評価もされない現実を一番知っているくせに、とろサーモン久保田に肩入れしないのは、自らの立場を客観視出来ていない、としか思えない。これが、いわゆる老害だ。

 

ま、それが日本社会なのであれば私の方が少数派ではあるのだろうが。

安田純平さんへのバッシングの根深さについて

私はバカなコメント等は見ない事にしているので、そもそも彼がバッシングを受けている事を知らなかった。自己責任論とか色々あるらしい。まあ、これはいつもの事。ただ、そのようなバッシングをする人達の発想の根深さに気づいた出来事があった。

それは「ワイドナショー」というCX系の番組内での事。言葉はうろ覚えなので、覚えている限り。

長嶋一茂氏「ジャーナリストって言うけどさ、それが日本国民にとって何の役に立つかピンとこないんだよ、我々には」

堀潤氏「例えば、安保の時にもあったのですが、シリアで戦争があったら石油の値段が上がって結局日本国民の生活が大変になって。だから戦争に加担するような事になったら、巡り巡って日本国民にダメージが来る事に・・・」

長嶋一茂氏「いや、だからさ、わかるよ、子供がなくなったり、ひどい事があったり。可愛そうだなぁ、とは思うけど、直接日本になんかあるのかわからないじゃん」

ここで、同じゲストの千秋氏が流れを変えようとする。

千秋氏「でもさ。知りたいと思わない?遠い国で何が起きているか、とか」

長嶋一茂氏「思わない。関係無いもの(だったかな?)」

 

この一連はまさに社会の構築を考えない、考えようともしない今の日本の国民性を良く表しているなぁ、と思った。ドラマにもなった「乱反射」は、このブログでも何度か言っている、「自分と家族、仲間に直接関係無い事には無頓着」な人間の「点」の悪意、悪行、反社会的行動が巡り巡って最大の不幸を受けてしまう人間を描いている。難しいのは、その「点」で反社会的行動をする人達は日本社会では普通の人達だ、という事。近所にも見かける人達はいると思う。大通りではタバコを吸わないくせに、裏道に入った途端に吸うスーツのサラリーマン。駅の近所のスーパーの駐輪場に子供共々自転車を止めてそのまま電車で出かけるお母さん。細かく言ったらキリがないほど、平気で社会のマナー、ルールを破る人達はごく一般的に見る事が出来る。その人達は多分、「乱反射」を見ても「ひどい事する人達がいるもんだねぇ」となって、自分たちがしている反社会的行動に責任があることなど微塵も想像できない、いやしないだろう。

 

見たい事だけ見る。信じたい事だけ信じる。

 

これが徹底しているこの多くの日本人達からすれば、ジャーナリストとテレビやツイッターをまとめている記者の違いなどどうでもよく、むしろテレビをまとめてくれているネットニュースの方が有意義に感じているかもしれない。

遠い国の出来事。自分たちに関係無い事。この長嶋一茂氏の意見は戦場ジャーナリストとマスメディアの関係とか、何がジャーナリストなのか、とか、そういう事以前に、日本社会が今陥っている根底の問題に気付かされた。理論的とか論理的に、とか関係無く、そもそも自分家族仲間に直接関係無い事は想像力が働かないのだから。

 

なぜこんな社会になったのだろうか。一つは教育になる。怒られるからやらない。殴られるからやらない。そういった教育を受けてきた人はなんでその行為が駄目なのか、ということを学ばずに大人になってしまっている。なので、罰則が無いマナー、ルール系はガンガン破る。自分が得になるのであれば。ただ不思議なのは私も含め、そういった教育を受けてきた人達でもしっかり社会の構成員としての意識がある人達も少ないがちゃんといる、という事。ただ少ないのが問題で、そういう人達は無償ボランティアとか「いい人」として搾取される側になる事も多い。

この社会風土は根深い。実は第2次大戦中の日本でも戦争に無関心だった日本人が多かった事がわかっている。配給が減ってきつくなってきたねぇ、ぐらいで、太平洋の先で起きている事、程度に思っていたらしい。そこをいいように国に使われてしまった。

では、安田純平さんへの非論理的なバッシングが一般的だとしたら、今も第2次大戦中と同じように、日本国民は国にいいように使われてしまう土壌がある、という事だ。

そうならないためにも、自分で考え、社会の構成員として、短期的な損得以外に、広く社会、世界を考えないとならないのだが・・・。

まあ、無理か。

渋谷ハロウィンについて

ハロウィンの意義とか内容とか。そんなのどうでもいい。日本ではレイヤーではない、一般人が参加出来るライトなコスプレイベントして浸透したわけなので。

問題はお祭り騒ぎによる弊害だ。大雑把に言えば治安やマナー問題。果たして今後どうすればいいのか。

そもそもお祭りとは日本の歴史を見ても危ない(治安の悪い)ものなのだ。昔の時代劇などでは、お祭りの日に夜道を歩いている町娘がレイプされそうになるのを主人公が助ける、というシーンは結構あったものだ。現在でも世界のお祭りではメインストリート以外の路地裏には入ってはならない、というのは常識だ。

ただ、ここは日本。リオのカーニバルのような治安の悪さには本来なるはずがない。では、目指すレベルはどこにするか。川崎のハロウィンパーティーレベル(一見マナーを守っているように見えるが、一歩脇道に入るとタバコを吸ってポイ捨てしている人が多くいる、というレベル)以上には渋谷という若者が多く集まりやすい場所では目指したい。というのも、たむろしてタバコをポイ捨てするのは中年以上が圧倒的に多いからだ。そのマナーのレベルを越えたい。

対策1:暴徒化問題

公式化して、イベントとしてスケジュールを立てる。現在の渋ハロは自然発生的に人が集まってしまっている為、誰も仕切る人がいない中、当然起きる無秩序、集団心理だ。4年前たまたま週末が31日だった時、渋ハロにはスポンサーがついて渋谷全体(クラブ含め)でハロウィンイベントをやった。その時は今年のような輩はすくなかった。なので、毎年31日はスポンサーを付けて公式イベントとして決まった時間に行う事で、暴徒化を防ぐ

対策2:暴徒化、マナー違反問題

期間中、路上飲酒禁止。もちろん、罰則を設けないと日本人は従わないので、一定期間、渋谷エリアの路上飲酒を禁止にして見回りのガードマンも雇う。酒を飲みたい人はお店に入らざるおえないわけなので、予算は渋谷の飲食店、区から捻出。

対策3:ゴミ問題

これは花火やキャンプ上等、人が集まれば捨てる人が絶対にいるわけで、渋ハロの問題ではない。ゴミ箱&ボランティア清掃を徹底するしかない

対策4:痴漢問題

これも、人が集まれば必ずいるので、痴漢を発見しだい、回りの人も協力して捕まえる、という雰囲気つくり(女性は断固拒否、笑顔でへらへらしない、周辺男性は発見次第捕まえる)という事を徹底すべく、事前に痴漢防止、発見、確保イベントをやってもいいかもしれない。

 

せっかく日本独自に発展してきたイベントだ。公式化して、外国人を多く呼べるイベントとして定着してもらいたい。渋谷区はそのための予算確保に動くべきだ。

 

公式化アイデア

腐ったりんご理論より、腐ったりんごに人が集まらないようにする必要がある。

 

暴れるたり、マナー違反をする輩系は目立ちたいわけなので、騒ぐ。それに便乗して発散したい人達が集まってしまう。なので、その腐ったりんごを孤立化させるのが大事であり、健全なイベントのキモでもある。

1:ハロウィンとしてのイベント性を取り入れる

子供も参加出来るような内容の、「トリック・オア・トリート」券の販売。参加各店で飲食、お菓子と引き換えが出来るようにする。子供が多く参加出来る雰囲気を作る。

2:インスタ映えエリアの設置

各エリアにコスプレ写真が取りやすいような場所の設置

3:マナー啓発イベントの実施

ゴミ捨て、痴漢、その他マナー違反。回りの目でそれらを防げるような回遊型イベントの実施。取り締まる方もコスプレをするなど、行政の介入はできるだけ防いだほうが荒れにくい。いつの世も行政(権力)が介入すると暴れる人が増えるものだ。なので、横の繋がりを作る

4:渋ハロ後援隊を作る

マナーを守って楽しむ人達にはその誓約と共に参加出来るSNSがあり、そのパスがある事で渋谷で遊ぶ時になにかしらのメリットが享受できるようにする。そのSNSアカウントにはポイントが付与でき、記念撮影やハロチケ回遊券の使用、ボランティア清掃などでもポイントが付き、横のつながりの強化によるマナー向上の雰囲気を作る。広告塔の芸能人はスポンサーにて。

書きながら考えただけでもこれだけのアイデアフラッシュ。出来る事からやって、自然発生の都市型お祭りイベントを金にして盛り上げるようにしてもらいたいものだ。

 

生活保護費の使い方の個人差って

たまたまYou Tubeのオススメに橋下徹氏が政治家時代に、生活保護費受給者が質問をしているシーンが出てきたので見てみた。

堺市に住んでいるのだが、病院まで毎月6千円ちょっと交通費がかかるのに、それがカットされた。月に10万円の生活保護費だとやっていけない。服も買えない」

という主張だった。

ん?私、東京の高級住宅地と言ってもいい場所に住んでいるけど、その金額よりも全然少ない金額で暮らせているんですけど。もちろん、自分の稼ぎで。服もユニクロやGUなら買えるし、酒やたばこはやらないけどクラブにも行ける。

いったいどんな使い方をすれば10万円の生活保護費だと足りない、となるのだろうか。医療費がタダだし、住民税も国保費も無いのに。

もちろん、私は医療費がかかるので、逆に病院に行かないよう、食事には気を使って基本自炊。光熱費は記録して最低を維持出来る努力をしているし、格安SIMで通信費も使わない。

生活保護費はもらった人間が自由に使っていい額だ。パチンコもタバコも自由。ただ、それが足らないというだけでなく、行政に文句を言うような状態、言う事が問題なのではなく、ストレスフルな生活になるのは「健康で文化的な最低限度の生活」では無いのでは、と思う。その解決は単純に金額を上げる、ではなくて使い方を指南して上げるべきだと思う。

太っている人に、「食べ過ぎだ。食費を減らせ」と言っても意味があまり無いように思える。それよりも、ダイエットをして健康的な身体を手に入れれば、医療費も食費も削減出来る。そして、健康に興味を持つと酒やタバコも自粛、もしくはやめる事になるかもしれない。

まあ、そんな都合のいい事はほぼ無いと思うが、生活保護を受給する人には家族がいるのに賃金が足りない、訳あって働く事が出来ない、という節約してもギリ、という人がいる中、特に仕事をして養う存在がいない人で生活保護費が足りない、という人に、ただ金を振り込むだけ、というのは無責任が気がする。

生活保護費でやりくりし、前向きな生活をおくれるようになる為のトレーナーのような存在やコミュニティーがあると違ったりするのだろうか。

 

いや、それも駄目な気がする。

じゃ、どうしたらいいんだろうか。私が知っている生活保護受給者は仕事でコケて家庭でもコケて。もう初老で仕事も見つからず。酒は止められない人がいた。その人に酒をやめろ、なんて言えないし、コンビニで酒買って家で飲むよりも遥かに割高だが、お店で飲む方が精神衛生上いいのでは、とも思えた。

ぬぬ。こうなると生活保護費の問題ではなく、なぜ一度社会からドロップアウトした人間は社会に戻る事が出来ないのか、という問題にぶち当たる。日本ほど他人に不寛容かつ、他人を本質的に無視する先進国は無いのではないだろうか、という問題に。

 

やはり簡単に解決する問題ではないな。生活保護費。難しい。