底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ホームレスへの取材記事、まだ炎上長引いている事について

ホームレスを長く支援している人、元極貧生活だった人、人権擁護派の人。様々な人がPRとして記事、電通、人を見下しているという内容での批判を上げている。皆が俯瞰して人権とは、ホームレスとは、という事を語っている。この記事を書いた人は池澤あやかというマルチタレントだ。

私がもし今こんな美人で若い子と1日いれて話ができるとしたら。

それだけで嬉しい。

自分の立場の事は自分で毎日責めている。社会を責めてもどうしようも無い。しかも自分よりも下を見て見下して溜飲を下げる事も出来ない。自分が底辺なのだから。そんな精神的にもズタズタの時にこんな子が近寄ってくる。バカじゃないので対等な相手として見られていない事などわかっている。それでも幸福の時間だと思う。

 

確かに、ベースとして差別問題、貧困問題はある。しかしこの記事がそれを助長する程の力も無いし、逆に感銘を受けるような人は先の問題など理解しようとも考えようともしていない。つまり、この記事は

・仕事として金銭を得た池澤あやか

・宣伝となる事務所、広告会社

・デートできたホームレス

・何かしらグッドな事を考えるだけで自分がいい人間だと思いたいバカな恵まれた生活をしている人達

全てが得をしているのだ。

 

底辺の当事者に「現在」なればわかる。こんな若い美人がかまってくれる事の嬉しさ。この現在底辺というのがポイント。今の自分が見知らぬ保育園児から

「先生、(あの人=私の事)バカ?」

って指さされたり。小学生から学校の窓から顔を出して

「ば~か!」

って馬鹿にされたり。そんな経験を今現在しながら生きている底辺の人間の気持ちがわかるだろうか。ぶっちゃけ子供になに言われた事が悲しいのではない。彼らに吹き込んでいるのは親であり、その親は当たり前に結婚していてその子供が私に言っているのだ。しかもこのエリアは基本所得が平均を超えている人が多い。私が夢見た生活をしている家族全体が私をバカにしている、見下している。そんな経験を毎日しているのが私、底辺くんなのだ。そんな底辺層を色眼鏡で見ようが、表層だけ理解したつもりでいようが。女性と話をする機会など無い存在としては取材に利用されようがコンタクトがあることはとても嬉しい。何年も若くて美人な女性と話をした事がなく、話し方も忘れてしまった。そんな存在が現在の私、底辺くんだ。

 

なのでね、俯瞰して正論もいいんだけど。ほんのひとときの癒やしぐらい欲しいよ。という斜め下からの意見でした。

 

追記

よくネットに上がる警察官にわけわからない因縁をつけて暴れている人

接客業の方に高圧的にずっと対面でクレームを言い続ける人

役所等窓口で大声で文句を続ける人

大概こういった人達は高齢の男性だ。この人達は大声で怒鳴っている内容に対する正義、信念など無い。根底にあるのは「人とコミュニケーションが取りたい」だ。それほど孤独であり、自らの判断能力、理性が吹っ飛ぶ程孤立してしまっているのだ。私も同じだから良くわかる。そうした底辺に人間すれば自らのブランドの為であっても話しかけてくれる若くて美人の女性は天使。その視点無くホームレス支援、人権擁護など片腹痛い。

 

ホームレスとデートの記事のプチ炎上について

なんかね、一部の支援者の人達にとっては「ふざんけんな!」な感じらしいのよね。問題は色々あって。

①筆者のホームレス、西成区新今宮への見識の薄さと記事ありきの行動

②この記事で感動した、という人達

③批判する支援者達

 

個人の記事なのでそこで思想が支配される事がそもそもない。こういう人もいるねぇと思うだけ。なので「感動した」という人達がいるのであればその人達がバカなだけであってその人達はこの記事があろうが無かろうが貧困層の事など理解しようともしないし興味も無いのでどうでもいい。こういう恵まれた人達こそが周囲に関心を持って欲しいものだが、今の社会はそういうわけにいかない事は誰もがわかっているはずだ。

なので記事、称賛者共々今の社会だなぁ、というだけ。

支援者が怒っている気持ちもわかる。具体的に文章を細かく抜き出して批判している人もいる。しかし、これは他人の言動でありそれをコントロールする事は出来ない。支援者達はこのような貧困アプローチをビジネスとして売名行為をする記事を無視する事によって、こういった人達が増加する事を危惧している。貧困層が当たり前のように見下され、人間として対等としれ見られず、かわいそうな存在として扱われる事が一般化する事を憂いている。その事もすごくわかる。

 

しかし、これが日本社会なのだ。ある程度大人になると他人に急に今までの自分と違う事を言われた所で考えを変える人などほぼいない。あるとしたら思考の余地(方向性)を常に複数持っている人だ。大概は経験(教養)というバイアスに支配されている。なので支援者達が考えなければならない事は記事や筆者を非難する事ではなく、この記事を書いて&称賛する人達がいるのが日本社会であると認識し、どうしたらそういった人達が減る社会になるのか、と考えるべきなのだ。その為には貧困層直接支援だけでは絶対に無理であり、政治、大手メディアも利用しないとならなくなるのだ。そうなると次にあたるのは差別というのは日本社会全体に及ぶ事であり、貧困層単体焦点では解決する問題ではないという事に気がつくだろう。

 

余談だが、施しを受けたホームレスはどう感じたのだろうか。普通の生活を遅れる女性がお遊びで訪れて屈辱に感じただろうか。底辺が長い私からすれば屈辱は感じるだろうが、それを上回る喜びもあったと思うのだ。だって、普段金を出さないと話す事が出来ない若い女性と半日以上会話が出来たのだから。貧困と孤立はセットである事が多い。例え貧困かつ周囲に話しができる友人がいようともそれは同じ層であって脳の刺激というか、自らの居場所として価値がある一方、人間のプライドとして自らはこの地位であるという事を毎日噛みしめ無ければならない。諦めの日々を送るという苦痛がわかるだろうか。結局自分が悪いと思ってしまう自己肯定感が皆無の中、「俺らも同じ人間だ」という言葉がどれだけ空虚に響くか。

そんな中、若い女性が施しであろうとも声をかけてくれた。どれだけ嬉しいか。そんな事を考えてしまう。

 

「昔のツイッターは・・・・」というツイを見て

「起きたなう」

などのサービスの語源となったのが多かったよね。それで利用していた人は(自分だけじゃない)ってつながりを感じていた。私はそんな事でつながりを感じるタイプではないので登録はしていたが利用していなかった。

そして今。

ツイッターはアカウント自体に明確なブランドが必要になっているっぽい。例えばブームで言えばキャンプ垢。基本キャンプの事しかつぶやかないし、それ関係の人しかフォローしない。そして他人はそれを見て同じようなカテゴリー垢でフォローし合う。だから「バズる」という事が生まれる。この流れはSNSを利用して広告費を稼ぐインフルエンサーが生まれてからの流れ。ファッションならそれに特化した事をつぶやく。なのでツイッターというSNS

①特定分野に特化したインフルエンサー

②芸能人(公人)

③一般人

となっていた。しかし今は①の真似を③がしているのが一般的。なになにで繋がる、的な。そしてその方が一般人でもフォロワーは増えるし、1点で繋がれて都合がいい。難なく趣味嗜好、状況等だけで同じような人と繋がれるわけだから。これが群れるのが好きな日本人に浸透した。なので一般人でも複垢は昔であれば裏、表ぐらいだったのが自分が他人に見せるフェーズ毎の複垢となった。

 

なんでしょうか。他人が人じゃないような。同じカテゴリーだからといって人間性がほぼ見えない。自分も相手もみせない。あるのはそのカテゴリーに対する思想行動だけ。そんなのその人を表す人間のほんの一部。しかしそれだけで十分な感じ。

この希薄さ。自分にも他人にも。そのくせにそのカテゴリーで盛り上がると実際に会ってしまって起きる事件の多さ。やっている事と現実が折り合っていない。

 

日本人の人間性を見る力の弱さをよく表している。自分が好きなカテゴリーに対する自分と同じ思い=自分と同じような見識の人で気が合うはずだ、と想定善に基づいてしまっている。そして自身の人間性はひた隠しにする=他人の人間性も見ない(見れない)。

その発展系が最近ユーチューバーに会える等の事件やオンラインサロン等になってしまっている。一種の宗教。自分が出来ない、もしくは自分の考えの延長上(妄想上)の成功者にあこがれてしまって従ってしまう。そう、これはカルト宗教と同じだ。

 

日本国民が細分化されたカルト宗教団体のようになっているのはなぜだろうか。私はこれを日本人全体にはびこる、おっさん達(政治家、メディア)が作り上げた人間性を無視した、年齢、性別等で判断されるバイアスがついてしまい、そのように他人にもしてしまっているのだと考えている。逆に、そのカテゴリーに当てはまらない人間については完全無視が出来てしまうのだ。情報量的に先に人間がこない。先にくるのは特定カテゴリーに所属する(自分が望む)人間。これはとても危険で、社会が崩壊する可能性もある。他人をまず自分と同等と認識すれば起きないであろう事件が近年起きすぎている。

 

なんて事、色々考えたなぁ。日本のツイッター使用の歴史を振りかえってみて。

東京で飼い始めて間もないとみられる生後1年未満の子犬や子猫の保護依頼が急増、の裏側考察

コロナで暇になったからいっちょ動物でも飼ってみるかな?と手を出した人が「やっぱ無理」ってなったらしい、との話が出ている。この事は今の日本社会を観察すると当然な気がするのよね。

暇だから(リモートで家にいるから)、で動物を購入出来る人は少なくとも

・まとまった金の消費支出力がある

・自分時間が出来てもさほど給与が変わらない(固定給がある正社員)

・動物が飼える環境

を少なくとも満たしていないとならない。それはコロナ禍で給付金が欲しい、家な無くなったという人達の対極にいる人達だ。

 

私がぽつねんと社会観察をしている中でこのブログでも何度も言っている家族がいていい所に住んでいる人達や仲間に囲まれている人達の特徴に

・仲間と家族以外は他人と認識しない

というのがある。つまり、見知らぬ人間を生物を認識しないのだ。今までのエントリーでのこのタイプの新しい人達の行動を簡単にまとめると

・道端で人が倒れていようが、電車で困っている人がいても無視

・公共の場で子供がマナー、ルール違反をしても無視

・車のウィンカーは曲がる時に点ける

・仲間で楽しめればいい、とどこでも自分達勝手にふるまう

等がある。私は今回の動物ニュースにはこの新しい人種だからこその行動だと思っている。というのも、そもそも他人という目の前の人間さえも平気で無視し、自分達(家族、仲間)で勝手にできるのだ。このクラスターの人達はウーバーイーツ等の自分達の行動で出来ることを金で解決するサービスにも抵抗がない。そんな人達が「今暇だから」で動物を購入する。彼らにとって動物など守る命の部類に入るわけがない。お迎えした限り命に責任があるとも思わない。だって、まだ家族でも友達でも仲間でも無いんだから。その精査をして嫌だったら返せばいい。命に対してそんな感覚。デジタルネイティブらしい、嫌な事は我慢せずに快適な所で快適に、が主義。

 

ペットにすればいい迷惑だが、近年周囲の透明人間扱いされている人間だって迷惑をしてきたのだ。他人を同等の人間扱い出来ない人間性の人達がなぜペットと辛抱強く生活ができるか。できるわけがない。

 

24時間は誰にとっても同じ。人間の処理能力はそこまで差がない。家族、仲間、友達。そして仕事と自分の時間。あふれる情報の中で消費支出力が高い為に自分の趣味に使える金と時間が普通の人(今でいう貧乏人)よりも多い。つまり、他の命について考える時間など無いのだ。

 

アメリカはまだ宗教がこういった情報、所得格差による倫理、哲学を埋めてくれるが日本にはそれがない。そうなると人間本来の姿って、こうなるよね。

 

コロナ禍でわかる自公連立政権の政局政策のすごさ

今までもすごいから戦後日本を統治してきたんだけど。それをゆるい独裁という風に海外ジャーナリストで言ったいた人もいて。私も日本は独裁国家だと思っている。その独裁を倒そうと思えば簡単。野党が一つになればいいんだから。でもならない。それが独裁国家の証拠。しかし、どのような事をしてそうなってきたか、現在も保っているのか、はしっかり広く社会を見ていないと中産階級以下の人達には気付きにくかった。しかし、コロナ禍では直接庶民に影響のある政局政策がなされる事でさすがに誰でもわかりやすくなった。その例としてすごいなぁ、と思ったのが休業給付金。

 

ご存知の通り、自民は大手から小規模事業者まで昔は押さえていたのだが、より金が手に入り票につながる、実社会での支配階級を指示母体としてきた。そうなると小規模事業者がおろそかになる。そこで家族経営のような事業者の指示の多い創価学会を母体とする公明党と手を組んだ。これが自公連立政権。

で、今回飲食店に1日6万円が支給される。これは家賃が0~30万以下の店であれば完全休業して原価をかけなければ最大理論値180万の利益。ここに妻や子供を臨時雇用扱い(もしくはゴーストバイト)を雇用調整助成金を請求すれば100%出るので、二人雇用とすれば最大1日1万5千円×2=3万。一月90万。合計最大理論値270万の利益となる。この利益を小規模飲食店が実際の売上で稼ごうとすると約2700万の売上が月に必用。単純計算で1日90万の売上。昼20万で客単1000円、夜70万で客単5000円とすると、昼200人、夜140人回転させないとならない。夫婦+バイト一人、家賃30万だと客席はよくて30席ぐらいか。つまり実際は無理な売上なのだ。

なので休業して丸儲け。コロナが収まればGo toで(食材調査視察の為)という理由で旅行したり、搬送用として車購入して経費扱いすればいいのだ。これで公明党支持者は救われる。指示していなかった人はこのボロ儲けに恩を感じて学会員になるかもしれないし、少なくとも現与党に票は入れるだろう。

救われない大手飲食店からすればふざけるな、だ。クラブやライブハウスなどのビジネスモデルが違う飲食店もだ。これはこの層の人達が現与党の支持者ではないからだ。支持者になれば金配るぞ?という暗黙の脅しがあるのだ。

 

面白いのが後出しで出たイベント中止に2500万円だ。予算は最初から決まっているので、後は割り振りの話。この金額は先の小規模飲食店の利益と酷似している。つまり、支持クラスターの個のまとまりに、約2500万円前後利益が出るような準備金がある、という事。次の衆院選および今後も自公連立に票を入れ、その他諸々の便宜を図る確約があればそれを配るぞ、という密約ともとれる。前回緊急事態宣言をしているのだからイベント中止の事で苦しくなる事など政府はわかっているのだ。後出しで急に決まったのは何か取り決めがあったと考えるのが普通。

 

これで金で票、地盤固めは完璧。こういった政局政策で自民党は戦後バグ期間以外は日本を支配してきたのだ。組織票にならない苦しくて困っている人間などどうでもいいのだ。

 

余談だが、こういった現政権の独裁政策を知っていて利用する人間もいる。それが一度政治家を経験して裏の世界を熟知した渡邉美樹率いるワタミグループだ。去年から一気に「唐揚げの天才」という小規模(ほんとに小規模!)店舗を都内に急拡大していたのだ。普通の報道では「コロナ禍でテイクアウトに特化した(一部の店では店内飲食可能)唐揚専門店を作った」と言える。しかし、真の目的はそこだけではない。

大手チェーン店、特に酒が伴う店の売上減は深刻だ。しかし大手だからこその大量仕入れにより原価はかなり安くできる。それが安く無いように見せかける為にテリー伊藤の卵焼きというブランドイメージを付けた。で、2坪~10坪以下レベルの店をバンバン作る事で先の計算の通り1店舗2500万程の利益となるのだ。初期投資の少なく、まだ新店舗であるからあげ専門店からすると莫大な利益だ。店舗数×2500万の利益と考えたらすごい事になる。しかも基本狭小地だから家賃も安い。ワタミグループなら雇用調整助成金を更にゲットする為に隣接の店にヘルプに行く人員も加算してそう(実際にはワンオペでも)。そうなると更に利益はUPする。日本政府のやり方を熟知してそれを利用して儲けるという、元政治家ならではのやり方。しかし忘れてはいけないのだこのお金は税金という事。このような品性を疑うようなやり方が本来は許されてはならない。ま、真意はわからないが、コロナ禍で店を急拡大しているのはここだけだし、給付金でどこよりも儲かるのも事実。

 

昔、中国が腐敗していた時に賄賂が当たり前的な報道があって。それが独裁政権の腐敗のように言われていた。旧ソ連も同じ。しかし、日本は政治家個人はもとより、与党として支持クラスターに優先的に金をまき、そして回収するという事をずっとやってきて独裁政権を樹立しているのだ。もちろん、今回の大手飲食店やその他ビジネスモデルの違う飲食店を救えなかったように、予算にも限りがある。なので東日本大震災のように、有事は浮動票が流れやすい為、野党が一つになれば十分現与党を倒す事は出来るだろう。

しかし、そうはならない。なぜなら野党は国を、民を良くしたいわけじゃない。自分が職を失わず先生で居られる事の方が最優先だからだ。変に責任を負って仕事が増えても今の日本の庶民がそれを評価できる程の政治リテラシーが無い。旧民主党時代の仕分けで明らかになった税金の無駄使い組織がことごとく復活していても何も感じないのがいい例だ。野党が一つになって与党を倒し、社会に変化をもたらすという事を受け入れる土壌が無いのだ。与党である大阪都構想が何度やっても勝てないのがいい例。

 

現在ネットではテレビとは真逆に現政府を批判する意見が飛び交っているが、それは政府だけのせいではない。もちろん、一つにならない野党のせいだけでもない。変化を受け止めて現在と未来を線でつなぐ事が出来ない有権者が一番の功罪だ、と思う。今の自分達だけが儲かればいい、楽すればいいという人間の集合体が強すぎるのだ。

 

という事で、次回の選挙は本来なら政権交代の最大のチャンスだが、以上の例のように様々な政局政策によって自公連立政権がそのまま与党だろうなぁ、と。ほんと、独裁者って頭いい。

 

日本だけが経済成長率回復見込みが低い理由と竹中平蔵氏に騙された件

先進国中、日本だけがコロナ後の経済回復率が低い設定なんですよね。グローバル企業が引っ張ってくれているからの数字でドメではもっと低い。この主な原因は日本だけが正社員をクビに出来ないから。各国は制度はかなり差ががあるが、当たり前にこれができる事で会社がやばい時に人員削減をし、株主に還元。上昇見込みの時には雇い、それで経済が活性化する。なので人材の流動化もあるし、人間はまさに人材としてレジメに何ができるか、が明確になる。そもそも日本ように履歴書、性別年齢などをきくのは違法な事が多い。

なぜ日本が正社員だけを既得権益化して守るのか。これには複雑な理由があるが結局は現政権が保てるから、といえる。しかし、バブル崩壊後、日本が10年に渡る不景気を体験する。

そこで正社員をクビに出来ない代わりにクビに出来る人材を増やした。これが竹中平蔵氏と小泉元首相が実行した派遣法改正。しかしここに問題があった。会社が派遣社員を雇うという形はまだわかる。ここに中抜きだけをする、いわゆるピンハネをする派遣会社からの派遣という形の拡大をOKにした事だ。この方式は戦中で大日本帝国が中国人や韓国人を奴隷に使う時に使った方式。古くは江戸時代から続くヤクザが使っていたやり方。これによって新規企業するならITもしくは派遣といわれるぐらいに派遣業界は大きくなった。

私はこの時、まだ少しだけ竹中平蔵氏を信じていた。というのも、こんなピンハネ業が横行すれが格差が拡大し、貧しい国民が増える。そうなれば世論としてこんな事はおかしいとなり、貧困層が拡大した後になってしまうが正社員をクビに出来るようになる制度ができると思ったのだ。日本人自分で考える人が少ないので変化を嫌う。なのでじっくり時間をかけて貧困が迫ってくる事で奴隷開放運動が起きる仕掛けを作ったのだ、と。

しかし、竹中平蔵氏はピンハネの大元、パソナの会長になった。再度政府の経済会議メンバーになった。そして正社員をクビに出来るような制度を実施する議論すらない。国民も近代史、特に大日本帝国の悪業を公には勉強しないようになっているから今や国民の多くが当時の中国人、韓国人と同じような奴隷扱いのピンハネ業に付いている事も気になっていない。いや、他人(つまり、社会)を気にしせず、自分達と仲間の事だけを考えるように巧みに洗脳されてきており、それが成功したとも言える。

その結果、労働者の4割以上が非正規、200万人という第二次世界大戦中で無くなった軍人と同数の引きこもりが日本の国民という事になった。

この結果を逆算した言い方をすると

仕事が出来ない定年待ちのクビに出来ない正社員を守る為に労働者の4割が奴隷として貧困層となり

仕事が出来ない定年待ちのクビに出来ない正社員がいる為にリスク低減で若い人を採用したい会社が当たり前になり、そのせいで年齢制限、性別制限が当たり前になり、働き盛りの中年は採用されない社会になり、大量の労働者が余る事になった。

人手が足りなくても中高年は雇わない。そういう流れが当たり前になった事で国はその思想を後押しする為に技能実習制度という新たな奴隷制度で海外からの若者を奴隷にする事を考えた。

 

今だからこそ、パソナがやっているピンハネ業を批判する人も出てきているが、このヤクザ企業群を止めるには正社員をクビにできる制度と、履歴書を無くしてレジメで採用をするという制度改革全てが一体の議論として必用なのだ。これは会社と労働者に多くの良い変化をもたらすが、悪い変化ももたらす。安定を貪っている正社員達が不安定になるからだ。人材流動化は結局できる人間の価値があがるが、出来ない人間の価値は下がるので、その競争に自信がないとならない。いや、そもそもこの改革は奴隷開放運動に近く、奴隷からの利益を享受している正社員達の人間性に関わっている。しかし、先に述べた通り、既得権益者が作った他人を見ない雰囲気作りはよく出来ており、それがコロナでしっかり露呈した事は社会を考える人には痛い程わかったと思う。

 

ここまで酷い事になったら通常の先進国なら暴動、所謂暴力も一つの手段だと思うのだが、ここも既得権益者達はうまくやった。

(肉体的)暴力はいけない

という魔法の言葉だ。だから精神的、制度的暴力は許されるという不思議な社会が出来上がった。これは既得権益層が肉体的暴力には弱い、という事が現れており、だからこそ暴動が必用なのだが、庶民は署名運動とかしちゃう。

決して暴動を促しているわけではない。今の所社会を変える手段として各国が当たり前にやっている事なのに日本だけが無いという事だ。

 

という事で、このまま奴隷が増えていく、というお話。

 

同意の無い性交が犯罪認定されず、同意年齢も13歳から変わらない理由

性犯罪を目の当たりにしている人からすればたまったもんじゃないだろう。なぜこんな当たり前の事が執行されないのか。そこには2点問題がある。それは日本社会全体の問題であり、法律の定義とは厳密で無ければならないからだ。

第一の問題は「同意」の定義。

日本の同意の問題は戦中から行われていた。神風特攻隊の兵士全員が同意書にサインをしていた。これは断る事が出来なかったからだ。権力側が弱者を力づくで同意に誘導するという行為は日本人の専売特許。それは今も続いている。

例えば賃貸。法律で表向きは決められたが、契約時に大家に逆らえる交渉など出来ない。借りる為には同意にサインをせざる負えない。

例えばNHK。同意無くしてTVがあれば契約に同意しなくてはならない。

まだまだ沢山の同意無き同意が権力側から執行させられるのが当たり前の社会なのが日本。もちろん、こんな事は法律で制限をする事は簡単だ。しかしそれが出来ない。なぜなら権力側=法律を作る側もしくはその支持者だからだ。

これらの日本社会の同意無き、弱者への強制全てについて論じないと、その中に一部である同意無き「性交」を犯罪と出来ない。後半のカッコ内の部分は様々な事にも当てはまる事で初めて権力側の同意無き行為を封じる事ができるのだ。

しかし、日本社会はそれらを論じて弱者を救済(強者を制限する)まで成熟していない。アメリカが自国のエリート企業であるGAFAを法規制しようとする(もちろん、タックスヘイブン問題もあるが)ような多様性の社会とは違うのだ。日本はむしろ財閥系、旧貴族系企業はひっそり守る。

 

次に年齢。例えば今の議論では13歳から16歳に年齢をあげようという話になっているが、そうなると15歳以下場合は全て犯罪になってしまう。実際このクラスターで性行為をした事がある人、普通にいる。その中でまず最初の「同意」問題に絡む事に同意をどう捉えるか、という次の議論になる。つまり、同意が意思なのか契約なのか。その切り分けは?13歳の意思での契約が同意であればそれは成人としての扱いと同じなのか。そいった議論になる。そこに正しい性教育が混じってくる。日本は性教育後進国だ。未だにモザイクで性器を隠すような公に出来ない卑猥なモノとして扱う傾向が強く、年齢問題を考える時、その性行為、性教育をまともにできるような社会になっていないのだ。

 

つまり、性被害者が求める他国のような厳罰化、年齢引き上げの議論がなかなか進まないのは我々日本社会が成熟していないから。

と思う。各個人が成長する(多様性を認める)社会になることが先決。