底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

山口達也氏のワイセツ事件についての小高千枝という人のコメント

ガリバー事務所のジャニーズの中でもレギュラーの多い山口達也氏が犯した未成年へのワイセツ事件。朝一の情報番組をザッピングしてコメンテーターという人種がどういった事を言うのかチェックしてみた。大前提として「Rの法則」に出演している高校生は売れかけに近い芸能人であり、地下アイドルよりもしっかりした事務所に所属している子達が多い。そんな子が被害届を出す、というのは今後の芸能活動が絶望的になる、という事だ。自分の夢を捨てる程の怖くて屈辱的な思いをこの子はした、という事は想像に難くない。場合によってはPTSDに苦しむかもしれない。

 

という事が芸能界素人でもわかる中、Rの法則に出演をしたこともある、心理カウンセラーの小高千枝という人がモーニングCROSS内で

「私も番組に出演した事あるのですが、私は性被害女性のサポート活動もしているのですが、(中略)、なんか、距離感を間違えてしまった、という気がします」

 

距離感?未成年の子が自分の未来を捨ててまで訴えた事を単なる、距離感?そんな問題?共演の高校生に酒を飲ませようとして、酔ってキスをする行為が単なる距離感の間違い?

 

もちろん、番組内では別のコメンテーターが即座に否定して許される行為ではない、と言っていたのだが。性被害女性のサポート活動をしていれば、ワイセツ事件はパワハラとセットであることも多く、私でもそれが距離感の問題でない事ぐらいは知っている。過去にマスメディアを騒がせてワイセツ事件で、コーチと未成年の生徒で同じような事があった。その時もどちらかの方が「とても仲が良く信頼された先生だった。距離感を間違えたのでは」という人がいた。被害生徒の恐怖を考えずに。そんな事、心理カウンセラーであれば絶対にわかるはずだ。

 

さて、ここで視点を変えてみたい。心理カウンセラーとは民間資格臨床心理士のよな国家資格ではない。ある意味、名刺を作って「私、心理カウンセラーです」と言ってもいい肩書だ。つまり、社会的には本来信用にならない。そんな人が渋谷一等地にルームを構え、なおかつテレビ出演までこぎつける。そんな事は本来出来るものではない。

では、どういった力が必要なのか。それは心理カウンセラーという曲がりなりにも人の心に寄り添う仕事なのに、それを曲げてまで上記のような権力者側に寄り添った発言が出来るぐらいの、信念の無さという信念がある能力だと思う。実はこの能力は企業人、サラリーマンとして有名な人も結構持っている能力だ。

本来、サラリーマンでマネジメントレイヤーまでいくと、本来会社の利潤のために働く事が最優先のはずだ。しかし、この能力がある人達は売上もあげず、利益もあげず。しかし、上には好かれて絶妙に出世する。もちろん、誰かがその尻拭いをするのだが、尻拭い人は決して報われる事はない。

 

そういう視点で見てみると、この件に対してどういう発言するか、でその人が生きている社会でのヒエラルキーがわかる。

 

・どんな事があっても許される事ではない、という人達

番組MC、雑誌や本の出版、弁護士等主軸がテレビではない人達など。

山口達也氏は普段とても男気があって、優しくて。信じられないという感想

コメンテーター、芸能リポーターなどテレビぶら下がり族など。

・酒に酔っていたんだから、まだ真相は、という擁護する人達

テレビでの仕事が少ない俳優、タレント、仕事を増やしたい文化人等

 

仕事とは大変なものだ。

ま、私はそういった営業が出来ないので今こんな立場なのだが。

 

 

mixiニュースのコメントの絶対的傾向

mixiという、昔のSNSで今やゲームプラットフォームになっているサイトにニュースフィードがあり、そこには旧Yahooニュースのように全部コメントが書けるようになっている。で、そのコメントに「いいね」を押す事が出来、それが多いとリストで上位になるのだが、以下の3つの意見が上位にくる(つまり、いいねが多い)事が多い。

 

1:女子高生と成人男性のワイセツ系事件

未成年側を責める

2:セクハラ系

される側を責める

3:自民党の不祥事による国会ニュース

野党を責める

 

この3つは不変的だ。私が気になるのはこのような意見を言う人が私が普段接する人間にはいない事だ。mixi内だけで生息しているのか?日本はほぼ教養に差はないハズなのに、なぜこのような極端な人間がいて、そしてどこに生息しているのか?

 

幸い(?)私がリアルで知り合った人のツイッターの発言でも上のような発言をする人がいる。1人は社員5名以下の工場勤務の人、1人は独立保険外交員。どちらも生きている社会が狭い人達だ。これだけのサンプルで、だからmixiには世界が狭い人達ばかり、と言えない気もするが、実際、あのサイトにはトラック運転手やホステス、看護師等、やはり世界が限定されている人達が多いというデータもある。

そうなると、世界が狭い人達(一定のヒエラルキー内での生活)というのは見識を狭めてしまう、という仮説ができる。いや、しかし、この情報化時代。あらゆる情報をナッシュ均衡やパレート効率性など知らなくても大人になれば自然と身についているはずだ。でなければ結婚して子供など育てる事は出来ないだろう。

そうなると、思考力は普通なのに、ある特定の事に関すると思考停止をして共感能力が著しく低下する、という現象がおきる、そしてそれはある一定の層の人達に起きる、という事が考えられる。そしてそれは特定の事案にのみ、発生するとも考えられる。

根底は男尊女卑、年功序列であることはわかるのだが、それらは本来50代以上の人達のもの。SNSの中心帯である40代ではもうそこまで濃い思想ではないはずなのだが。現に、パワハラが当たり前だった50代以上の人達から酷い扱いを受けてきたから、パワハラ関連ニュースの時は俄然加害者を叩く。これは自分たちが迫害をされた経験がある証拠。となると、やはり共感能力の著しい低下、という事か。

そうなると、未成年を叩く事に合点がいかない。なぜなら自分たちも未成年の時期があったわけで、自分が高校生の時に海千山千の大人達とまともにやりあって勝てる、という自信がある人達などほぼいないと思われるからだ。しかし、ワイセツ事件の時はなぜか未成年側を責める。これはもしかして、実は自分たちも未成年と性交したい、という嫉妬心から?とも考える事が出来るが、そんな幼稚だろうか。

 

この問題は数年考えていて、未だにハラオチしないのだ。周辺にこういった大人がいれば議論が出来るのだが。

そして、私は多分、長年この法則に当てはまる場所を探し、こういった人達のことを心のどこかで見下してホッとしている。私よりもよっぼどマジョリティーで社会に貢献している人達であるはずなのに。逆にホッとしている部分があるから、せめてその謎(幼稚な発想)の根源を探って、咀嚼して前に進みたいと思っている。もう、この人達の考え方は変わらない、という事はわかったのだから。

 

 

日本郵政グループの非正規との待遇格差是正はまだ中途半端

ネット記事では「『同一労働同一賃金』を曲解した暴挙」と言われている今回の決定。私はむしろまだ差がある事の方が不思議だ。

正社員はその名の通り、会社の一員だ。会社の方針や営業益等にも責任がある。会社を背負う立場だ。非正規は本来その間の作業を埋める立場の人達で、正社員と同じ労働をするのは意味が無い。時短等の本人の働き方に応じた柔軟な採用であれば問題無いが、往々にして企業側がコスト削減に使うのが問題であり、労働者の人生をしっかり考えた採用をしない企業のモラルの問題が大きい。

で、今回の郵政グループの決定だが。

 

・住居手当……転居を伴い転勤がない正社員への支給を廃止。非正規社員には従来通り支給せず。

・年末年始勤務手当……年末手当を廃止。年始手当は正社員・非正規社員ともに支給。

・寒冷地手当……支給額を削減。非正規社員には従来通り支給せず。
・隔遠地手当……支給額を削減。非正規社員には従来通り支給せず。
・扶養手当……今後も継続して協議する。

 

住居手当をどう考えるか、だ。これが社員への福利厚生なのであれば継続が必要だと思うのだが、転勤が無い正社員まで支給するのは手当が厚すぎるともいえる。

年末年始勤務手当は同一労働なのであればともに支給は当たり前。

寒冷地手当は同一労働なのであれば非正規にも支給すべきだ。

遠隔地手当も同上。

扶養手当については正社員への福利厚生なのであれば非正規は無くても構わないのでは。

 

これは正社員と非正規の労働をしっかりわけていない、つまり労働層のコストカットの為に非正規を使っている企業の典型的な例であり、業務効率が著しく悪い場合が多い。そりゃそうだ。非正規で十分な仕事は非正規で。正社員は正社員でしか出来ない仕事。マネジメント層はマネジメントを。そうしたヒエラルキーがあるからこそ、会社は効率良くまわるのだ。労働層を奴隷のように考えているからその中で正社員、非正規などとどんぐりの背比べ的な差を付けたくなるバカ達が生まれてしまうのだ。本来の組織としておかしい事に気が付かない。正社員なのであればその組織も変える義務があるのに、正社員として非正規よりも得をしようとする意識しかないから使えない人材であり、ずっと労働層なのだ。

 

そんな会社だから、アルバイト募集の中に「正社員への登用もありえます」的な記載をするのだ。アルバイトは本来働き方であり、業務内容。正社員を餌にするなんて、それは非正規と同一労働だが賃金が違う、という差別主義である、労働層を下に見ている経営陣の発想ともいえる。必要であれば正社員を雇うか、もしくは普通にアルバイトからスカウトすればいいだけで、わざわざアルバイト募集の記事に「登用もありえまっせ」なんて書く必要はないはず。

 

最下層の労働層が全員バカだと思ったら大間違いだ。とはいえ、私が現在最下層である事には変わらないが・・・(泣)。

晴れてまだ無職になりました・・・

2ヶ月間、ちっとも転職活動が上手く行かず、また無職になってしまいました。なのでこのブログの更新頻度も高くなるかも?w

たかがアルバイトなのになぜそれさえも受かる事が出来ないのか?私には不思議でならない。私がホワイトカラーの時には採用にはランクがあった。

 

・アルバイト=英語の通り、パートタイムジョブ。誰でも出来る仕事、作業をおまかせする人材。IT系だったので、主にコンテンツの更新作業等をお願いしており、いつ辞めても替えが効く場所。大学生やフリーター(主にバンドマン)が多かった。というのも、誰でも出来る仕事なので、業界的に私服がおしゃれ、というだけで選んでいた部分もあった

・派遣、契約社員=簡単に替えが効かない仕事を任せていた。主に社内社外のハブ役。業務内容や流れを覚える必要がある。後に辞められた場合や派遣会社との賃金交渉の手間等のコスト、仕事への敬意もあり(抜けられると困る)、積極的に社員にして囲い込みをはかった

・社員=会社の業績に責任がある人材。なので、個人の目標だけでなく会社の方針も目標として抱える必要がある。

 

これがあっているかどうかはあるが、概ね、賃金と見合った仕事内容だったとは思う。例えば私が探しているのは当座生活が出来る生活費が稼げるアルバイトだった。しかし、ただの流れ作業は向いているとは思わなかったので、経験があって知識のあるスポーツジムのインストラクター業に幅広く応募してみたのだった。

 

しかし、現実は年齢で落とされる事が大半。その他は面接に行っても中にはアルバイトなのに「最低2年ぐらいは働いていただける人を」とか。おいおい、それだったら契約社員でしょ?と。そして質問内容も社員並に突っ込んだり。おいおい、学生だったらそんな質問しないでしょ?と。そもそも、接客業、とくにジムのインストラクター業は専門職であり、経験も必要。実際。過去にお客様から「若い子が悪いわけじゃないのよ、でもね、やっぱりアナタの方が話しやすいし相談しやすい」と言ってくれた客は1人や2人ではない。当たり前だ。学生のアルバイトのお父さんの年齢だ。幅広い層にアプローチする話術も持っている。知識もある。しかし、まったく初心者の大学生の方が採用される。まったく意味不明なのだ。客も求めている。シフトも都合よく入れる。学生のように「大学に履修が入って」と突然休むことやシフト変更、辞める事もない。それでも、頑なに中年はいらないという風潮。

 

先日、吉祥寺のハンバーグ山本に行った。基本外食はしないのだが、この日は退職する仕事がラストだったので自分へのご褒美のお疲れ会として行ったのだ。そこに私よりも年齢が上と思われる、ロマンスグレーのオヤジのホールがいた。もう1人は学生っぽい女の子。その女の子の愛想の悪さと手際の悪さ。まあ、事実、私はこれが普通と思っているのでなんとも思わなかったのだが、対照的にオヤジさんの接客の素晴らしいこと!手際がいいだけではない。距離感が絶妙なのだ。馴れ馴れしいの一歩手前というか。押し付けがましくないフレンドリーさと紳士的な雰囲気。正直食事よりもあのオヤジさんの接客の技術の方が記憶に残っているぐらいだ。もちろん、時給は違うだろうが、あの拙い若い女性と同じ業務を客から見たらしているわけで(もちろんバックヤードでは色々あるのだろうが)。こういう事だ。たまたまこのオヤジさんが仕事が出来るだけで、別に中年オヤジ=仕事出来る、と言っているわけではない。公平に見る事が企業側が出来たからこそ、このような素晴らしい接客に出逢えたのだ。もちろん、若い人にだってこのような接客が出来る人だっている。ただ、このオヤジさんは自分の外見(大人である事)も利用していた。そこさえも上手かった。

 

年齢差別をする必要が無いのにする業界は単純にこの年齢で最低賃金で働く人=ずっと社会のヒエラルキーの底辺にいる頭のおかしい人、と決めつけているのかもしれない。人間性を疑っているのかもしれない。確かに、私は都の生活保護よりも安い金額で暮らしている。もうこんな貧乏生活はいやだ。その為にもまずは今の

生活を維持するにあたって、そこまで責任を負うつもりもない。だから最低賃金でもいいよ、というスタンスだ。賃金が高い=責任が大きい、というのが本来の正しい形だ。最低賃金なのだから、それで他の人よりも仕事が出来るのならOKでしょ?と思っていたのだが。まさか、年齢で差別されるなんて。

 

いったいこの現状をどうしたら変える事ができるのか。シリコンバレーのように、起業家達、という言い方ではなく、日本はマスメディアで発言できる人達が「若い」を付ける事で社会にバイアスがかかっている、とか。そういう発言をするテレビマン達を叩けばいいのか?いや、それは意味がない。

私と同じ、ベビーブーム世代は数が多いので結託すれば社会を変える事が出来るはずなのだが。いかんせん、恵まれた人とそうでない人の落差がありすぎてなかなか他のヒエラルキーを私のように横断して経験しないとなかなか慮る事が出来ないのが結託の妨げになっているのと、そもそも社会を変えようとする気概がない世代でもある。

 

難しい。

 

菊池桃子氏へのストーカー事件を一般的なストーカーと一緒には

するのはちょっと違うと思うんですよね。

底辺を知らない一般人からすれば、ストーカーというのは一方的に好きになった人に付きまとう、という定義だと思います。確かに行動的にはそうだと思います。ただ、過去に付き合っていた人、妻等へのストーカー、電車等で出会った一目惚れした人へのストーカーと元タクシー運転手・飯塚博光容疑者(56)のは根本的に違うと思うんです。もちろん、勝手な想像ですけどね。

56歳でタクシー運転手。誇りを持ってお仕事をしている人には申し訳ないのですが、私が若い頃から登録していたリクナビネクストでは、若い時には様々な会社からアプローチがあったのですが、年齢差別をされる歳となった今、大東建設かタクシー会社、警備員会社からしかアクセスが無いです。つまり、この3つの業界が年齢経験関係無く、人間であればいい(人手であればいい)という3大底辺仕事業界なわけです。そんな中、飯塚容疑者はまだ56歳。年齢差別社会の日本ではオワコンではあるが、人間としては全然元気な歳。その事を本人が一番知っているはず。自分はなぜこんなヒエラルキーの底辺でずっと人にペコぺコし続けなければならないのか。それもこの給料で。そうしたうつうつとした負のエネルギーは人間力があればあるほど溜まるものです。

そんな中、菊池桃子氏と接触する機会が出来てしまった。もしかしたら若い時にファンとは言わずとも、彼女のアイドル全盛期をしっていたのかもしれない。惨めな底辺な自分と輝かしい彼女。最初は眩しいだけだったと思う。

しかし、時間が立ち、冷静になってみると、なぜ自分だけがこんなに惨めなのだろう、と普段から考えている気持ちとの対比が頭を出してくる。調べてみると、菊池桃子氏は年齢も自分と近い。結婚してもおかしくない年齢差だ。そういう人生もあるのでは、と妄想するようになる。

その妄想は惨めな自分に対する別の人生の可能性として色が付くように成る。短期的な精神逃避行動、ちょっとした解離症状だ。昔の言い方でいえば短期的な精神分裂病。しかし精神疾患者ではないので、分裂したままで持続する事はできない。となると、どちらかを選択する時がくる。

そして彼は別の人生の可能性、菊池桃子氏と結婚してこの惨めな自分の人生が浮き上がる、という妄想を選んだ。その時点で妄想が現実となったのだ。だから現実の自分は切り捨てた。だから生活の糧であり、それを無くしたら再就職は難しいとわかっているタクシーの職を無くした。当たり前だ。自分には輝かしい未来が待っているのだから。

 

正直、相手が菊池桃子氏である必然性はないと思う。たまたま自分が知っている輝いている芸能人で年齢が結婚するに適当であれば誰でも良かったのだと思う。今の自分を救ってくれる程のエネルギーがある人であれば。この部分が、恋愛によるストーカーと違う所。恋愛ストーカーは少なくとも自分の事を相手は多少知っており、その自分を拒否する=自分が否定された、という事を認めたくない、という部分が大きい。飯塚容疑者は今の惨めな自分から脱するきっかけが欲しかっただけだと思う。そういう意味では彼は自殺願望もうっすらあったと思う。こんな自分の人生ならもう消したい、と衝動的に思うような事が何度かあったと思う。

 

だからマスメディアで言っているような「タクシー運転手がどうのこうの」という意見は的外れだと思うのだ。まだ元気な人でも中年というだけで虐げられる、ヒエラルキーの底辺に押し込まれる社会が生んだ事件だと私は思うのだ。そしてこうした感覚は多くの中年(中には若者でも)が抱いていいる事でもある、と思う。

 

新卒のみがバブル期よりも有効求人倍率が高い=その他は就職出来ない、と同義だ。日本の会社が欲しいのは奴隷。そこからはみ出ようとする意思がある若者には多くの経営者、ファウンダーがサポートする。では、その他大勢は?

そんな社会のヒエラルキーの中でもがいている人間なら誰でも起きうる事件であり、たまたまタクシー運転手がストーカー事件を起こしてしまっただけなのだ。

 

私はその気持ち、よくわかる。なぜしないか?簡単な話。自分だけが浮き上がる事に興味が無いからだ。そうした自己愛が欠如しているから私は底辺にいるくせにこうした感情はわかっても行動をするような事は無い。

改正健康増進法が他国より劣る内容になりました

WHOは「たばこの無い五輪」を目指しており、イギリスは伝統のパブでも禁煙とし、あのネトウヨたちがいちいち悪口を言う中国でさえも飲食店も禁煙となった。しかし、日本は100平方メートル以下の飲食店(ほとんどじゃないか?)は除外、公共機関でも敷地内禁煙ではなく、屋内だけ禁煙、という緩い場所が多く存在する、世界で比べても一番緩い規制となった。ここの日本人の頭の悪さ、社会的な知能の低さが露呈されている。

まず、認知の歪み。

飲食店の支持や実際の経営者である議員達の反発が強かった、とあるが、実際全面禁煙にした所で売上が落ちたというデータは存在しない。むしろ売上が伸びたというデータもある。なのに、

「禁煙にしたら客が減る」

と信じて疑わない。これは認知の歪みというもので、現実を自らのバイアスで歪めて見てしまうのだ。

そして、自らの欲望を優先する姿勢。

まだ外国人と対等に仕事(底辺労働層ではなく)をしたことがない庶民が多い日本では未だに社会的ヒエラルキー(年収、権力)=自分たちの自由にしていい、と思われている節がある。本来はノブレス・オブリージュヒエラルキーの上位になればなるほど逆に社会の事を考えなくてはならないのに、タバコを吸う議員が多い&将来の天下り先として日本タバコ産業を狙っている人達はそんな事よりも自らの快楽を優先する。

最後にそうした為政者達の怠慢、傲慢さを責める事が出来ない庶民の存在。

国際基準で下回るこのタバコへの政府の処置について、特に何かと中国が、とネットで騒ぐネトウヨ達は今ここで自分たちがその中国に社会的法整備で劣る事について、どう心のバランスを保っているのだろうか。お得意の「しかし◯◯は・・・」と論理のすり替えをしているのだろうか。「野党が森友学園でもめているから」とか誰かのせいにしているのだろうか。それとも「ここは日本だから国際基準に合わせる必要ない」とでも思っているのだろうか。

であれば、東京オリンピックなどやらなければいいのだ。国際化とは他国の人々の最大幸福を目指すのではく、最低限の基準、最低限の幸福を満たす事だ。それさえも出来ない。自国の幼児が遊ぶ公園のベンチでタバコを吸うのが当たり前という国民だ。ダイバーシティなど程遠い。

であれば、北朝鮮のように国際的に孤立してみればいいのだ。そんな事は出来るわけがない。

であれば、自国の人も他国の人も。皆が幸せになる健康基準を施行するのは当たり前だ。日本人はいつもこうだ。世界という規模よりも一部の数える事が事が出来る利害関係者だけを優遇する。青函トンネルの経済的損失の計算が出来ない人は今やいないだろう。それを世界規模の話でもやってしまう。

なんと愚かで醜い事か。日本で権力を握る人間とはここまで国際社会どころか日本の未来さえも考えない、自分たちの事しか考えない事が平気で出来る、という事なのだろう。

なぜだろう。なぜこんな国になってしまったのだろうか。そろそろ昭和の雰囲気から脱してもいい時期だと思うのだが。

ふともも写真の世界展 はアートなのか?表現の自由なのか?

人間の肉体の美についての写真について、それがポルノか芸術か、と言われたのはロバート・メイプルソープが記憶に新しい。彼は男性も女性も関係無く、性器も撮影の対象とした。私は彼の写真は芸術として美しいと思った。

そして今回のふともも展。朝点けっぱなしにしてたテレビ(モーニングCROSS)で丁度その話題をしていた。コメンテーターの見知らぬおっさんが「表現の自由」の話をしていた。展示会は有料なんだから見たい人だけが見ればいいのに、こんな事で中止するなんて、アートが無くなってしまう、とも。司会の堀潤氏が「いや、でも、未成年(と思われる雰囲気)を性の対象とする問題も・・・」と話を戻そうとしていたが、全然戻らない。結局コメンテーター達はふともも展をアート(芸術)であり、表現の自由だというのだ。

 

もともも展が文字通りであれば何の問題もない。ロバート・メイプルソープと同じだ。肉体の筋肉の7割は下半身だ。その中で最大の太もも。子供からご老人。車椅子の人だったり、車椅子でもパラリンピックの選手とかの太ももとかはまた違うのかもしれない。機能としての太もも。そこにフューチャーした写真展だと多いに興味がある。しかし、今回のは「ふともも」なのだ。

 

若い女性のすべすべした太もものみ、の写真なのだ。これのどこがアートだというのだろうか。これはアートではなく、フェチ、というのだ。つまり、性癖。性欲の対象物としてのふとももだ。例えば、「お前はまだグンマを知らない」という映画がある。この主人公は机の下に文房具を落とした時に周りの女子の足に欲情した。この行為がどうのこうではなく、映画に使われるぐらい、若い女性の生足というのは欲情を誘うものなのだ、という事だ。これが100歩譲って、若い女性ではあるが、色々な足、という逃げ道もあった。しかし、実際は程よい肉付きの一番所謂そそる足ばかりだ。このフェチ道をアート(芸術)と呼ぶのは芸術の世界をバカにしている。

 

そして表現の自由は社会規範に違反しない事が前提として考えるべきだ。反国家的だとダメ、という意味ではない。最低限、未成年は守るべきだ、と言っているのだ。若い女性のふとももを愛でる性癖(フェチ)を社会的に肯定してしまうと、実際の女子高生がJKリフレ等でふとももを見せて金を稼ぐ事を肯定する事にもつながる。その先の売春行為(肉体的接触)のみを問題にする人がいるが、未成年にとって、自らの精神性(アイデンティティー)の前に肉体(性欲)で評価される事による心のダメージは図りきれない。成人しても心と体の一致が出来ずに奔放な性生活を送る人も少なくない。フェチを否定する気はない。性癖は変わらないからアンダーグラウンドでやればいい。その商売の自由はある。しかし、それを丸井という日向でやる、という事は若い女性に「体を売りにしていいんだよ」と社会が言っている事と同じだ。

 

以上の点から、ふともも写真展は個人的には嬉しいが、それはアートでも表現の自由でもなく、たんなるフェチ、性癖の点であり、だからこそ表舞台でやる事ではなく、エロ本のごとく、アマゾン等でひっそり通販していればいいだけの話なのだ。

つまりこの点からコメンテーターという存在がいかに偏った存在であり、だからこそマスメディアには必要ない、という毎回言っている結論にもつながるのだ。信念や社会の一員感が無い人にとってテレビに出ている人の意見=自分の意見の後押しになる事が多いからだ。考える力が無いからコメンテーターが欲しいのだから。

 

しばらく見ないうちにテレビは恐ろしい箱になっている。視聴率の低下によってそれに毒される人が少ないのがせめてもの救いか。