底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ディスカウント(ゲスト、リスト)がクラブ文化を潰すのか?

最近、ツイにディスカウント反対、と言うDJを見るようになった。前後から考えるに、

・クラブ文化が日本では衰退の一途をたどっている

・昔は良かった

・最近はいいDJ(定義はわからんが)よりも、集客出来るDJが箱側からは重宝される、つまり、ディスカウントがある事で下手なDJもレジデントをはれる。それが更にクラブ文化を駄目にしている。

だから、ディスカウント反対。来たい人は正規値段でも来るので、そういった音楽好きと、しっかりしたDJがいて初めてクラブ文化の復活があるのだ。

という事だろうか。

私はこの意見には真っ向から反対する。

 

確かに、今のクラブはイエローやマニアックラブ全盛期のような感じではない。当時のクラブはアンダーグラウンドな感じで、非日常的な雰囲気の中、特別なおしゃれな人が多かった。今はアンダーグラウンドな感じはなくなり、おしゃれな人などほぼ皆無になった。しかし、やる事といったら、酒、踊る、ナンパ。それが大きく変わっているとは思えない。

確かに、海外のクラブではバー含め、隣になった人とはすぐ話す事は多々ある。だが、日本は昔からそんな雰囲気は無い。だから、クラブは受け入れる箱としての存在ではあるが、ナンパ師で無い限り人と知り合う場では当時もなかった。話す人は話す、は今も当時も変わらない。これはディスカウントや箱の問題ではなく、日本人の特性、社会性によるものだ。外国人のナンパ以外、男性とは話しない女性は昔からいた。

 

私のように頻繁にクラブに行く人間にとって、ディスカウント(ゲスト、リスト)は年間にするとかなり大きい。音箱では男女ともしっかり音楽を楽しんで踊っている人は多い。昔と違うのは高齢化が進んでいるというぐらいか。そして、可処分所得が減っている事も大きい。昔は若者が踊り、中年はソファーで座って若い子をはべらかして酒をおごってくれる人が多かった。年齢の高さ=所得の高さ、でもあったからだ。今は違う。中年でも若者と同じくらいの所得の人はざら。結婚もしていない人も多い。だから中年が踊り、体力の無い若者が椅子に座りっぱなし、という事もある。

 

日本社会が昔とは違っている。だから、どの昔のクラブの雰囲気を懐かしんでいるのかわからないが、昔に戻る事は無い。今の現実の客層、客の要望に対してDJが何をするか。そこが大事であって、ディスカウントのせいなどではない。

そもそも、発想が客を舐めている。下手なDJの時はフロアがさっと引くものだ。ベテランDJでも、客を引っ張るどころか、自己満足の選曲でつまらないプレイの人もいる。フロアの客の笑顔でこちらがわかるぐらいなのに、全然それを変えようとしない人もいる。

 

多くの日本人の特性の問題として、酒を飲むとはっちゃける、というのがある。それは=酒を飲まないとシャイ、人見知りのまま、ともいえる。私は断酒して数年経って手に入れたのは、常に本音、という事だ。酔う事が無いから、常に平常心。クラブに入った直後にいい曲が流れていればすぐ踊り出せる。しかし、女性と話すのは出来ない。ナンパと思われるからか、私の外見の問題か、ほぼ塩対応されるからだ。男性の方がむしろ話かけられる事は多いのだが。気持ちよくなりに行っているのに、なにも好きでも無い女性から嫌な対応される確率が高いのであれば話かけないのが吉、と思っている。しかし、そうした女性の多くは外国人男性の痴漢のごときスキンシップのナンパにはひっかかっているのが不思議でもある。ただ、これも日本社会の問題でもあり、白人の外国人=かっこいい、もしくは英語を喋りたい等の目的意識を持っている女性が昔からいたし、SNS世代(時代)というべきか、不特定多数の人と知り合う感覚が、自分が日常で会わない人と知り合う楽しみ(昔)から、自分と気があう人と「のみ」知り合う事に重きを置く人が増えているのもある。インスタ、ツイ等で感覚や趣味が合う人以外は面倒でしかなく、クラブに重きを置いていない人達からすれば、そのクラスター属性の人はどうでもいい、という事でもある。

 

昔を懐かしむDJが言うクラブ文化は、昔のテレビは良かった、的なテレビマンと似ている。娯楽が少ない時代だったのだ。だからテレビと同様、クラブに重きを置く(ソーシャル的に)人が普通だったから、そこで生まれるクラブ文化があった。しかし、今は時代が違う。人の時間は様々なものに割かれ、その対象物の価値は相対的に下がっているのだ。ドラマ「半沢直樹」はテレビが終わった、と言われた時の大ヒットドラマだったが、それでも同じ内容で今放送だったらあそこまでヒットはしなかっただろう。それだけ時代の流れは早い。

いいDJ。いい箱。定額。それによってクラブ文化が再構築されるなんて事はない。むしろ実質賃金がずっと減っている中、庶民が娯楽に割く時間が減る分、客が減り潰れる箱が増えるだけだ。であれば、DJがディスカウントを用意して客を呼ぶ。もしくはCONTACTのように箱側がディスカウントを用意する。参入母数を多くして、人を残していくのが娯楽ビジネスの基本なのだから。その後、いいプレイをしてファンをつければ、私のように「あのDJも参加するから、迷っていたけど行こうかな」となるのだ。これは落語と同じ。まずは寄席に来てもらい、そこで贔屓の落語家を見つけると、その人が参加する寄席を追うようになる。

 

正直、今やクラブしか居場所が無いのは孤独な中年ぐらいだ。そんな時代でのディスカウントという意味をもう一度考えてもらいたいものだ。

一般的な日本人には理解出来ない、映画「グリーンブック」の問題

映画「グリーンブック」がアメリカのアカデミー賞で作品賞を受賞して、これを問題視している声が本国で起きている。「史上最悪のオスカーだ」という声もあるぐらい。でも、こういった声がなぜおこるか?という事を多分多くの日本人は理解出来ないんじゃないだろうか?ネットでライターとして金稼いでいる人の文章でもただ、「根深いアメリカの人種問題」ぐらいの浅っさい内容だったりする。

問題は大きくは2つ。一つは白人側にいい影響を及ぼす、教養、性格、マナーも完璧な黒人の存在。もう一つは黒人を救うのは白人という問題。

いやいや、お互い友情が芽生えた、とか、いい影響をお互い与えあったんだからいいじゃないか、とか。多分、こう評価する人が多いのではないだろうか。これ、大前提としての大きな問題があるのよね。それは、

・黒人にもこれだけ素晴らしい人がいるのだから、相互理解をする事が必要

・受け入れる側もいい影響があるので、積極的に受け入れよう

この2つ。前者はつまり、

・一定の目線(教養、才能等)をクリアしていない黒人は駄目

・受け入れてあげる、であり、自分たちが相手に染まる気はない、自分たちの方が優位(上位)であるという意識

という差別、選民思想が浮き彫りになっているからだ。

 

この差別、選民思想は日本社会の根本的な思想だからいまいちピントこない人が多いのでは、というのが私の考えだ。例をあげると

・年齢差別・・・年齢だけで人を見下すのは黒人というだけで全否定されるのと同じだ。しかし、同じ中年でも「元有名会社の重役」というだけでコロッと態度が変わるのもまさに人間よりも一定の目線でしか人を判断しない所

・職業差別・・・ホワイトカラー(会社員系)とブルーワーカー(プロレタリア)を同じ人間とは見ていない。今年の10連休などそのいい例だろう。時給で稼ぐ多くの労働者は手取りが減ってしまう。そいう社会的弱者の事は考えない思想が政府とそれを支える国民には当然としてある

外国人労働者の受け入れ緩和・・・低賃金の奴隷(日本人がやりたがらない労働)としか考えていない。人口増よりも既得権益を守る事を優先した結果なのに、まだ自分達が優位な立場で外国人を「受け入れてやる」という意識でしかない。それに気付いていない無知な人達は必死でグローバル企業を抱えている中国韓国を叩くのに必死だったりする。

 

キリがない。もう、社会全般の根底にこの差別、選民思想があるからだ。だから#metoo運動なんかうまくいくわけがない。個人が声を上げる事が出来る社会の土台が無いからだ。白人、黒人という区分けと同じ。日本人社会は基本、人を個人として見ない。だから平気で年齢や性別で差別出来るのだ。そこに個人が声を上げると、映画のように完璧な黒人でないと駄目か、と思いきや、日本ではそれも許されない。完璧だと今度は「自分たちと違う」とその完璧さを叩くからだ。#metoo運動が日本でうまくいかないのは、セクハラされる人=美人、セクシーな人で、更に声を上げられる人は性格的に強い女性、という見方があり、セクハラ問題よりもそこを叩くからだ。こんな社会の日本で「グリーンブック」の問題など気付くはずもない。

 

日本はこういった所では本当に後進国だ。びっくりするほどだ。

ただ、その歪がもう限界に来ているのも事実。各方面の現場のプロレタリア層が声を上げつつある。SNSのおかげだ。日本の為政者達は最大公約数的な幸福を与えていればよかったのだが、既得権益層は変わらずだが、庶民が高齢者ばかりになってしまった結果かもしれない。今、声を上げれば本来政府を倒せるぐらいの票数は集まりそうなのだが。

いかんせん、対抗馬(野党)さえも、既得権益層で今の地位が美味しい、という人達だからどうしようも無い。

どうしたもんかねぇ・・・。

イジリといじめの違い

あるイベントでキングコング梶原氏が評論家の宇野常寛氏を縄跳びが飛べない事等でいじった事で宇野氏がキレて現場から帰った事がちょっと前に話題になった。そしで、表題のようなタイトルで論じられる事態となった。まあ、イジリといじめの違いがわらかない人は他人に何を言われてもわからない(理解する気がない)と思うのだが、様々な角度でちょっと考えたのでそれを残しておこうかな、と。

 

・イジリで楽しいと思える人間性かどうか

高視聴率番組「アメトーーク!」で、「運動神経悪い芸人」「踊りたくない芸人」という企画がある。私はまったくこの2つが笑えない所か、付け足される笑い声、抜かれる大笑いしている芸能人の顔に胸糞が悪くなるのだ。芸人とは「芸」を磨いた人達だ。しかし、運動が出来ない、リズム感が悪い、というのは「芸」ではない。本人達が一生懸命やっていて出来ない事を「笑う」という感情がわからないのだ。むしろ、「ファイト!」「頑張って!」と応援する気持ちになる。当たり前に出来るだろう事、という前提において、それ以下の行動をバカにして笑う。このいじめ体質の根性が高視聴率番組なのだから、日本社会がそういった社会である、という事だ。これが道徳的に問題だ、とBPOに乗ることもない。出川哲朗のリアクション芸とは違うのだ。ただ、この番組的(世間的)には「イジリ」によって全国放送に出演出来て有名なる芸人がいるのも事実であり、その事が「本人は売れて嬉しいんだからいいでしょ?」というエクスキューズになる。その事と、この番組を見た子供に限らず大人でも、例えば運動神経が悪いと思って人前で踊る事を拒否する風潮になってしまう社会を生む事の功罪が許されるものではない。そもそも、そういった感性が前提として・・・。

 

・お笑いとしての質が高かったか

お笑いの芸とは観客を笑わせる事だ。宇野常寛氏が怒って帰った時点でお笑いとして成立していない。イジリとかいじめとかの問題ではなく、下手なツッコミであっても同じだ。これは芸人側であるキングコング梶原氏が単純に仕事に失敗しただけだ。これは松本人志が自身の番組「ワイドナショー」内で、NGT48の不祥事に何も出来ない、とうつむく指原莉乃に向かって、「それはお得意の体を使って何とかするとか」と発言したのと同じ。お笑いとして成立していない。松本人志は圧倒的に信者が多いのでこの発言は吊し上げに合う事もなく、むしろ指原莉乃がその後フォローをして、「二人の信頼関係あっての発言」という事で勝手に収まった感があるのだが、アイドルが実際に男性に襲われ、運営がそれに加担をしていたかもしれない事件だ。その事に対してのツッコミとして成立がしていないのだ。指原莉乃も固まっていたし、共演者もさ~っと引いていた。これが指原莉乃がしっかり返答して共演者もツッコんで笑いとなっていれば、お笑いとして成立していたかもしれない。つまり、お笑いの芸として失敗したのだ。これはイジリやいじめとかいう前に、お笑いとしての質をどこまで考える事が出来るか、という見る側の目線も大事なのだ。ファンだからといって甘やかしたり、単純に「いいね!」を押したりする事でどんどんこの「質」が低下するのだ。

 

・社会人として、帰った宇野常寛氏はどうなの?問題

社会人として、とはいったいどういう定義なのだろうか。請け負った仕事は最後までやる。どんな事があっても。それが社会人の定義なのだろうか。私はそうは思わない。社会人とは簡単に言えば自分で責任を負う立場、という事だ。宇野常寛氏はギャラは全額返還、自分目当てで来た客にも返還する、と言っているので、まず金額が発生していない。後は、「本人的に不当な扱いをされて仕事を拒否して帰った」という事実が残るだけだ。これは本人がその責任を負うだけ。今後彼が仕事が増えようが減ろうが、それは彼の問題。彼はその責任を十分理解しているから、持論を展開しているのだ。

これを一般化してみよう。大手企業から下請けがソフト開発を請け負った。しかし、下請けいじめがひどく、それローンチが近づくにつれ、ピークに達し、開発側の人間が精神的に病む人が続出。さて、開発会社の社長が

「契約書上の違約金もすべて払うから、御社とはもう一緒にできません」

と言う事は駄目な事なのだろうか。もちろん、現実的解決は色々あるが、例えとして。日本では「無責任」と言われる事が多いと思う。また、「請け負ったらプロなんだから最後までやれ」とか。なぜ、請ける側だけにすべての責任がいくのだろう。なぜ、金を払う側は「神」ではなく、「悪魔」であってもOKになったのだろうか。金を払う側はクライアントではあるが、下請けが奴隷、という話がなぜ通説になってしまったのだろうか。その階級社会、レントシーカー(利権喰い)が跋扈する日本を甘んじて受け入れているから、宇野常寛氏の行動を「社会人としてどうか」となるのではないだろうか。奴隷扱いに不満をもったり、そういう社会がおかしいと思っているのであれば、真っ先に、「よくぞ帰った、そうだ、イジリといじめは違うよな?」となるはずなのだ。人を奴隷にしている人達、自らの奴隷化を甘んじて受け入れてしまっている人達がこの、「社会人としてどうよ?」という反応になるではないだろうか。

 

と、まあ、思ったわけです。人間が他人を尊重する社会にはまだまだ遠い・・・。

バイトテロが減らない理由

くら寿司セブンイレブンビッグエコー。相次ぐバイトのツイッターへの不適切動画投稿問題。この炎上拡散が当たり前のご時世になぜこのような事が起きるのだろうか。これらの動画を上げた本人達がその事を感じていないわけがない。つまり、少しは「拡散するかも」という予想があり、そのドキドキ感も堪らないのだろう。なのでこれらは情報リテラシーの問題ではなく、ある意味確信犯的な行動だと思う。では、なぜ彼らはこのような行動をしてしまったのだろうか。

その昔、昭和のドラマにはオフィスレディーという職があり(今もあるのか?)、それらは一般職と呼ばれた。上司からのセクハラ等の暴言は当たり前で、その腹いせに給湯室で雑巾の絞り汁をお茶に入れる、というシーンが度々あった。まさに、この感覚に近いものがバイト達にはあるのではないだろうか。民度の低い客達によるストレスフルな仕事。しかし低賃金。仕返しをしたくなる気分になる彼らの気持ちはわからなくもない。彼らは奴隷扱いをされるほどの賃金をもらっているわけでないからだ。あまり行かないが、私がコンビニに行くと、3回に1回は「へ?」と思う客がいるから、働いている方のストレスは尋常じゃないだろう。

 

前にも述べたが、人は他人からのストレスを一定量以上貯める事は出来ないようになっている。それをうまく発散出来ない人は精神を病むし、発散方法を間違っている人は知らないうちに心の許容量を超えてしまう。そうなると、

「これだけ低賃金でがんばっている(酷い扱いをされている)自分は、これぐらいやっても許される」

というプラスとマイナスの差し引きの基準が生まれてしまう。これは社会ボランティアや宗教家として社会にとって尊い行動をしている人が不正に手を染める心の動きと同じだ。そしてバイト達の仕返しは客に対してだけではない。それをUPする、という事は実は客にプラスして雇い主である「店」に迷惑をかけたい、という気持ちも働いているのだ。これは自分たちを低賃金で客から守ってくれない、むしろ客と一緒になって自分たちの心と体を搾取する側、として見ている感がある。なので、その仕返しをする自分達には一定の正義がある、と勘違いしてしまうのだ。

こういった行為を減らすには、バイト達プロレタリア(低賃金層)をしっかり人間として扱う事だ。つまり、社員によるマネジメント。しかし、今やマネジメント層(経営層)は利益確保の為には一定の社員(これまたプロレタリア層)を低賃金で働かせる。社員の賃金をカットするのが売上UPよりも簡単に利益確保出来るからだ。なので、現場監督社員に数店舗まかせて効率化をはかったりもする。以前の原田体制のマクドナルドがこれをやってバイトの質が落ちて、店舗を大リストラした後、カサノバ社長が原点回帰で従業員(社員、パート、アルバイト)とお客重視の方針で立て直した、という情報があるにもかかわらず、だ。原田泳幸=日本人、サラ・カサノバ=外国人。ここに、人間を奴隷として見る経営と人材として見る経営の違いがある。民度の低い客からも、会社からも大切に扱われ続けない人間はその心のセーフティーボックスの許容量を超えてしまうのだ。

 

人間を自分と同じ人間として見る事。これが出来ているマネジメント層は本当に少ない。これはストレスフル社会の中で、上層部は他人を見ずに自分たち(と仲間)の快楽を重視する傾向が強い日本独特の階層社会によるものでもある。日本は世界でも有数の富裕層がいるのだが、世界の有名な富裕層が社会を良くする為のチャリティー(申し訳ない程度だが)をするのに対して、日本の富裕層は日本社会の為に一切金を使わない、ノブレス・オブリージュを底辺層に示さない雰囲気もまた、底辺層の自己消滅欲求を掻き立ててしまう。どうせ底辺なのだから、と。金持ちに搾取だけされている感覚になってしまう。労働層は人生の時間だけでなく、心まで搾取されている、と感じてしまうだろう。

 

会社側は現場マネジメントをしっかりする。アルバイトであろうが、「お前らの代わりはいくらでもいるんだよ!」ではなく、アルバイトがいないと成り立たない、でもなく、「底辺君さん、君がいるおかげでアレがうまくいったよ!」としっかり個人を見てあげる。それだけでもこういったバイトテロは減ると思うのだ。現に、着物を着るが、時給2000円以上もらえる高級料亭の女性バイトはこういった事はしない。賄いがかなり豪勢だ、と聞いた事がある。大変な仕事に割のあった時給、待遇。だからアルバイトも仕事に誇りを持ち、妙なストレスを貯める事が無いから、仕返しをしない。

 

経営層は低コスト時代だからこそ、人間回帰をしなければならない。小泉政権から生まれた派遣拡大による労働者の階級格差は社会の分断を生んでしまった。それを正すのは政治家ではなく、現場にいる経営層でしかない。

 

ま、今の日本社会を見る限り自分たちさえ良ければいい、という人が老若男女増えているから、難しいとは思うが。

バイトテロを擁護しているわけじゃなく、ここまで頻発すると個人攻撃ではなく社会問題として考えるべきだ、と思うわけで。

年齢でバイトさえも応募できない立場の人間が言う事でもないが。

 

栗原心愛さんはなぜ亡くなったのか。児童相談所の問題とは

虐待をしていた親に、「職員の個人名名指しで訴訟起こすぞ!」と大声で恫喝されて心愛さんを引き渡してしまった、とのこと。

こういう問題になると、大体上がる児童相談所の改善策としては

・職員を増やす(人員増)

・権限を大きくする

というものだ。しかし、本来の問題はここではない。過去の児童相談所の問題を見てもそれは明らかだ。それは、多くの職員が子供を守る為に働いていない、という事だ。職員は自分の定職を守る為に働いているのだ。自分が一番大事。だから権限があろうが、職員を増やそうがそれは変わらない。

それは警察を見ればよくわかるだろう。交番の警察には今、定年退職した元警官がなぜか再雇用されている(人員増)。そして権限もある。では、それによって警察の本来の仕事(秩序の向上)はしているだろうか。巨悪ではなく、あえて交番とした所に注目してもらいたい。児童相談所が子供を守るのであれば、交番警察は庶民間の秩序。しかし、庶民間の法律は増える一方。マナー違反、ルール違反は増える一方だ。これは警察が自分たちのポイントにならない問題は無視しているからだ。交通安全週間とか、ポイントになる時にほんの1m右折車線に入るのが遅くなった車を捕まえる事に躍起になるだけだ。つまり、児童相談所に職員を増やそうが権限を与えようが何も変わらないのだ。

 

誰もが自分を守りたい。自分が大事。それが人間である。しかし、他人の子供を守る為に頑張っていったい何になるのだろうか。それが評価されて賃金UPするわけでもなし。であれば、問題を起こさない事が一番。それが当たり前の選択になってしまう。その事を裏付けるように、地方公務員としての児童相談所の長は大体2年で移動になる。つまり、2年間問題を起こさなければ公務員としてまた幸せな生活が待っているのだ。だったら何もしない方がいい。他人の子供の為にがんばる必要などないのだ。それを責めるのはおかしい。政治家だって警察だって。権力がある人達がそれを社会正義の為に使うなんて幻想がそもそもおかしい。自分と同じ人間が権力をもったらどうなるか。そういう事だ。

 

では、どうしたらいいのか。答えは簡単。児童相談所の地方公務員システムを止め、NPO法人等、本当に子供の為にがんばりたい、という人達が集まる機関に委託するのだ。国は金だけを出す。それだけ。

 

適材適所というのがある。本能が無くなった人間には親でも子供に愛を注ぐ事は知的作業やバイアスのおかげであり、それを全員に強制出来ない以上、自ら望んで子供の為に働きたい、という人達が児童相談所をやるべきなのだ。

子供=人間だから、それを扱う人間にもそれなりの資格が必要=人間性が大事なのだ。

しかし、国がやることは下手に資格制度を設けて、人間性よりも客観的事実のみを重視する事だ。これでは、資格を取るだけ(仕事がもらえる)、という大人を排除出来ない。

子供を保護する、という事はとてもデリケートな作業だ。であれば、それを扱う人間もデリケートに採用し、デリケートに組織を作る。人間性を排除して権限だ、資格だ、と言っている間はこの問題(相談をしたのに子供が亡くなる)は無くならないだろう。

 

まあ、その人間性無視、が日本社会の特徴でもあるのだけれど。

 

「火付けてこい」明石市長暴言問題 批判一転、擁護論とか、メディアの「報じ方」に課題とか。

表題の通りの意見を目にするようになった。これがとっても不思議。なぜなら全文を見た所で、見解については何も変わる事が無いはずだからだ。これを別の例にするとわかりやすいと思う。

 

ある男性が彼女をボコスカ殴った事でDVで逮捕。しかし、物語には続きがあった!

「お前の為にやってしまったけど、こんな事したくないんだよ?何度も同じ失敗繰り返すし、自分で言った約束破るからさ。俺の親がそういった嘘つきだったから、これから生まれてくる二人の子供為にも、この部分だけはしっかりしたいんだ。俺が毎月貯めている、二人の為の貯金が100万円たまったら、それを資金にして結婚しよう!」

なんて事があっても、世間は許さないだろう。これがDVの手口だ!と騒ぐだろう。今の世論だと、逆に被害者女性も責められるかもしれない。

これは、「暴力」という定義が目に見える肉体的なものだから、何の努力も考える時間も使わずに想像出来る事が大きい。後、他人を責める時の後ろ盾としての絶対正義として、暴力=法律に反している、という単純な理論で話す事が出来るのもある。

 

では、この表題の問題は。まず、発言の酷さと言ったら。大人同士でこんな汚く酷い発言をされる事なんて、ほぼ人生で無いのでは?と思える内容。その精神的苦痛はまさに言葉の暴力。まずここ。相手に言葉の暴力で苦痛を与える事に関して、鈍感な人間が多いのが日本人の特徴。これは教育者や警察等が罰する基準として肉体的暴力を与えた側が一方的に悪い、として楽をしてきた社会の結果。なので、肉体的暴力よりも時には遥かに強力な言葉の暴力について、考える事も軽んじられてきた社会背景がある。なので、まず、言葉の暴力も肉体的暴力と同じである、という認識が必要なのだ。法律的にどうこう(罰則の大きさとか)や、「私だったらこれくらい」じゃないのだ。被害者の気持ちに共感すれば、肉体的苦痛も精神的苦痛も同じ事であるのがわかるはずだ。

ここに、絶対的に立場が上の「上司」という肩書が加わる。これによって上司の暴力=パワハラが成立する。しかも、わざわざ録音を用意するぐらいだから日常的に発言されているのだろう。

 

なので、報道する記者からすれば、全文載せようが載せまいが、結局アウトであり、そのアウトの質からして疑いようも薄まる事も無く、貴重な文字列の中でわかりやすくその部分をピックアップして報じるのはそんなにおかしくない。言葉で仕事をしている人間からすれば当たり前の判断だろう。しかし、全文掲載されたらまさかの擁護論とか、偏向報道批判とか・・・・。

多分、記者達からすれば・・・

「なんでこんなにバカばっかりなの?」

だろうなぁ・・・。

正直、全文を読んだ時の私のリアクションは

「うわ・・・悪質!散々罵詈雑言浴びせた後、いかにも正論を吐いて、相手が悪いように(言われた事は仕方ない、と精神的に追い込んで)して締めくくるなんて。まさにDVと同じ手法だわ。」

です。

底辺に落ち込んだ私がなぜまだ自殺していないのか。(川の底からこんにちは)

言葉で説明は難しいので、作品でその時の状態を説明したいと思う。

時系列を数字で表すと、古い順から

1(絶望期)

2(退廃期)

3(這い上がり期)

4(底辺期)

5(底辺期2、現在)

という感じかしら。1~5まで通して、以前紹介した漫画「ホムンクルス」状態。なので今は他人を有機物として感じるようになっている。年齢は関係なく、時には性別さえも関係無い、個の「人間」としての存在がそこにある、という感じ。その個体差は感性や考え方、人との接し方等様々な分析の上にあり、その中でも私が強く惹かれるのは悪意であり、その悪意の種類、表現方法等がその人を個として表している、とも言えると考えている。しかし、これらの考え方を会得するにはあの漫画のような、自分や他人と向き合う辛い時間を経ないとならない。しかし、それでは自殺に至ってもおかしくない。そういう意味ではホムンクルス状態は3の無い、4,5,とも言える。

 

では、2から3に至る時の私の思考は。

もちろん、2の時は自殺を考えた。しかし、私の性格上他人に迷惑をかける死に方はしたくない。様々な方法を考えたが、死体を発見した人にトラウマを残したくないので、一番の方法は海外で、海の真ん中もしくはジャングルで死ぬ、というやり方。それには金がかかるのと準備に時間がかかる。生きる気力も無いのにそんなモチベーションがあるわけがない。そこで気がついたのが。

・今、私は死んでいない=生きている

という事。死んだも同然、と思っていたがそうではなかったのだ。単純に2分けしたら、私は生きていたのだ。ならば、生きる為に思考すべき、と考えた。

1日にワイン1本、ビール2,3リットルという大量飲酒をして現実から逃げていたが、スパッと断酒(今も続いている)。そして自分と向きあってみた。

1(絶望期)を少し説明すると、会社での業績、評価こそが自分、という自分の人生の幸福を考える事が出来なかった私は、昔から友達がおらず、彼女がベストフレンズであり、理解者であり、それだけでよかった。会社も失い、彼女からフラれたしまった私はもはや何の価値もなく、自己肯定感を満たすものは何も無かった。しかも、世間からは年齢で全て判断されるので、私の人間性は関係なく否定される。自分の人間としての存在が「無」になったのだ。本来ならここで自殺するのだろう。

 

さて、3(這い上がり期)の話。周りを見渡しても現実も私は底辺だった。しかし、まだ自分には少しプライドがあった。それなりの人生経験を積んできた、という挟持だ。その時ぐらいに始めたのブログのタイトルがそれを表している。だが、おかしい。それが事実であれば私はなぜ彼女にフラれたのだろうか。なぜ世間はここまで私を無視するのだろうか。答えは簡単だった。

・私は本当に底辺の人間である、という事実

それだけだ。この状態は映画「川の底からこんにちは」の冒頭の主人公に近いかもしれない。自己を否定され続けた人間は自尊心を無くしてしまう。この時の私は自己評価がゼロだった。電車の中で生活を感じる他人を見て自然と涙がボロボロ出る事もあった。

しかし、ここで「ホムンクルス」が出てくる。もともと人間観察が趣味でもあった私。様々な人を観察していくと、案外、切り方によっては人間とは同じような存在である事に気付き始めた。それは人間の歴史が証明している。なるほど、自分だけが信じていた彼女からフラれるべき、最低の人間なのではなく、人はそういった部分(私のある思考的には)では等しく最低な部分がある、と思ったのだ。年齢で人を判断したりする社会はそれを構成するレベルの人間性を集合と考えれば、皆何かしら不都合な部分があると。つまり、それは「人間」という事だ、と。

そうなると、自分だけが底辺=不幸=自殺、という理屈が通らない。なぜなら、皆同じ人間なら、皆不幸な部分がある、という事になるからだ。であればどうするか。ここで再び映画「川の底からこんにちは」で説明すると、後半。自分は中の下(私は自身を底辺と考えているが)だが、所詮周りも中の下。だから頑張るしか無い。映画では実際に行動する事道筋があるが、私の場合はこの過程が精神内で起こる事が大事だった。注意が必要なのは、「他人も同じ=見下す」ではなく、映画と同様に、自分も社会に属している(自分も同じ人間である)、という自己で自己を肯定する理屈を構築する事なのだ。

 

そして今、5(底辺期2)。漫画「ホムンクルス」のような他人への目線と、映画「川の底からこんにちは」のような自分と他人への理解。それが今の私の精神を支え、自殺まで追い込まれても留まる事が出来た理由だと感じている。後は、自分の精神を尊重しながら、年齢と離職期間で判断する社会とどう折り合いを付けていくか、だ。

友達が出来ない、人付き合いも出来ない。しかし、彼女さえいればそれでいい、と思って生きてきた私には今は真の孤立状態だ。今後性格がガラッと変わる事を期待するよりも、丁寧に過去の自分を分析して表面に出ていない深層の欲求と向き合って現在を踏み勧めなければ、と今は思っている。

 

生活保護をもらっている人よりも遥かに低い収入で生きているが、その分自分と向き合う時間はたっぷりある事は貴重な時間だと思っている。