底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

前向きになった底辺が自分で現実を知るの巻

ちょっと前の話になるが。

ここ最近、結構前向きになってきたの。今まで自分を追い込む事ばかりやってきたけど、足りない金を更に新しい経験に投資したりした事も功を奏したみたい。やはり人間によって傷つけられる傷は人間とのふれあい(直接ではなくても)によってのみ、癒やされると思う。

で、まあ、その気は殆ど無いが、社会復帰ができるか?と思って履歴書、職務経歴書だけでは足りないと思って、自己PR書をPPTで作成してみた。半日かけて。

久しぶりのプレゼン資料。写真もフリー素材から拝借して、なかなか綺麗なモノが出来た。そして見直してみると。

 

「俺ならこいつ、採用しないねぇ・・・」

 

そう。プレゼン資料を作成した事で自分の脳が会社員時代に戻ってしまい、資料を客観視出来てしまったのだ。つまり、会社というのはとことん、効率を追求する。その中で、いくら人間的に面白くても、効率を考えたら私のような人材なんて採用しないなぁ。と。

 

そんな客観視が出来て良かった。さて、自分で色々する覚悟と自分の道を決める覚悟だな、あとは。

 

 

再エネ発電賦課金の不思議

再生可能エネルギーの固定価格買取制度の買取に要した費用は、電気料金の一部として、電気をお使いの全てのお客さまに、電気のご使用量に応じて「再生可能エネルギー発電促進賦課金」としてご負担いただいております

という制度ですね。これが年々値上がっております。いくら節電しても電気料金がちっとも下がらない原因にもなっている。

ちょっと昔のブログだが、

www.taro.orgこの時よりも倍以上に値上がっている。再生可能エネルギーの復旧の為に、という名目になっているこの制度。再生可能エネルギーで発電した電気を電力会社が一定価格で買い取る事を政府が決め、その電力会社の買い取り費用を負担させる制度。

 

おかしくないだろうか・・・。

 

例えば、電気自動車を普及割合に目標値を設定したとする。その時の自動車価格の高騰を防ぐ為に、全国民(車を乗らない人)からもその電気自動車製造コスト(普通車よりも高い部分)の費用を徴収。この理屈がおかしい、というのはわかるだろう。であれば、なぜ電気はOKなのか。

電気はライフライン(電気、ガス、水道)である。ほぼ無くてはならないもの。再生可能エネルギーの目標値があり、それを実現するのであれば・・・。それは企業が負担するのもではないだろうか。東京電力がそんな事いやだ、投資はしたくない、という事になれば他の事業者が台頭する。それが市場競争であり、であればその状況を考えて政府がする事は電線の開放。つまり、事業参入しやすいように、かつて国営時に整備した電線網を再度国所有とし、再生可能エネルギー生産業者が参入しやすくすればいいのではないだろうか。いやいや、それでは再生可能エネルギーの方が高くて誰も買わない?それは現状の電気自動車と同じ。それでも買う人はいる。市場原理とはそういうものだろう。政府は再生可能エネルギーへの移行の為の規制を徐々に強め、既存電力会社は新時代に向けての設備投資を黙々とする(原発などではなく)。電線が開放されていればこそ、新規が参入しやすくなる。

 

再生可能エネルギーを既存電力会社が買い取る(それも高値で)。高値だから新規に参入する企業が増えるだろう、という算段なのだが、実態は補助金目当てのやるやる詐欺だったり、金持ちが戸建てにソーラーパネルを付ける、というだけになっている。それらを電力利用者全てが負担するのはどう考えてもおかしい。

 

政府が電線を国有化し、再生可能エネルギー業者には一定期間その電線使用量を無料等にすれば、例えば過疎化して人口が減った村等が全面をソーラーパネル村にして、自治体として電力会社を興す事も可能になる。そのメンテのために新たに人も集まるかもしれない。またはソーラーパネル巡回調査会社などもできるかもしれない。そうなるとソーラーパネル特区ができるかもしれない。これは政府が新企業に対して優遇するからこそできる事。

しかし、日本の制度は新企業(事業)を興す為に、既存企業を利用し、その費用を全国民から税金のように徴収する。こんな制度、国民が政府を絶対的に信頼していないとできない。そして、その既存企業がこの費用をほぼ利益にしていない、という、これまた私企業なのに誠実に対応している、というユーザーとの信頼関係があってこそ。

 

ここまで政府を信頼しているのだろうか。

ここまで既存電力会社を信頼しているのだろうか。

 

そんな国民ばかりなのだろうか。日本人は。既得権益者から搾取され続ける事に慣れすぎではないだろうか。

 

今でも拡大している貧富の差。貧層にとって、この再エネ発電賦課金の額はかなり大きなモノ。ここを選挙の争点にして野党が結託する事を望むのだが・・・。既存野党は自分たちと支持者の既得権益者を守る事で必死なのでこんな庶民の為になる事などしない。

はあぁ・・・。なんだろう。諸外国なら暴動レベルの出来事なのになぁ・・・。

拡大自殺

まだ決まった定義がなされていない言葉。拡大自殺。川崎殺傷事件で目にする事が多くなった。

「1人で死ね」には「関係無い人を巻き込むな」という前提があるのだと思うのだが、多分、加害者からすればその行為を行っている対象は「関係無い人々ではない」のであり、自殺をした以上、1人で死んでいるので、世間のこういった人々に興味も関心も無い人々の言っている事をしっかり守っているだと思う。

このブログでかなり前に、こういった行為(言うなれば拡大自殺)をする人々は増える、と書いた。それが私が社会の底辺にいるから、まさにこういう行為をする人の気持ちがわかるからだ。この部分では爆笑問題太田光が「すぐとなりにいる」という現象であり、このどす黒い感情を持った事が無い人にはわからないと思う。他人を憎む、恨めしいとは違うのだ。根底にあるのは

「自分を消したい」

という感情、気持ちだ。このブログを書き始めた当初、かなり登場していて自己肯定感の無さ。ここから、「自分が生きていてもいい」と思うようになるのはかなり難しい。太田光は「ピカソの絵を見て」生きていてもいいんだ、と思ったと言うが、このように他からの接触、エネルギーの流入が必要なのだと思う。

しかし、「ひきこもり」「たてこもり」状態だとそのエネルギーの流入が無い。中年のひきこもりの場合、自らの理想と世間のズレを認める事が出来ず、その理不尽さに打ちひしがれ、家の中に「たてこもる」状態となって自分をかろうじて守る事もある。例えばたった1年歳をとっただけで応募さえもできない求人や、ネットの心無い言葉。今まで自分が生きてきた人生全てを否定する社会。それが日本社会という現実の中、家族にまで否定され続けたら。なんとか生にしがみつくのに必死でひきこもり、たてこもるのだ。

しかし、時が経つにつれ、自己否定感はどうしようも無くなる。生きている自分の価値をそもそも感じない中、社会からも追い込まれる。私も感じた。なんとか這い上がろうと社員募集→まあ、落ちるよなぁ、ぐらいは思っていたが、アルバイトさえもひっかからない。最低時給で働く経験者が未経験の大学生に負ける。この時の絶望感。そんな情報だけを知っていたら、とても社会に出ていこうなんて思わないだろう。そこを這いつくばって自己を否定され続けて働く理由が無いからだ。もう、ライフはゼロなのだから。

底辺というのは自分が底辺の経験をしただけではない。自らも底辺と思い、実際にそれを社会で実感する、自他共に底辺である、という八方塞がりな状態になって初めて成立する。それは自分という人間が「相対的に底辺の価値」という事ではない。社会から孤立し、繋がりが無い状態では社会から「底辺」である状態になってしまう、という事だ。

太田光ピカソを見て自分も生きていていい、と思ったのは自分に生きる価値がないと思っていた反面、自分への理解が無い周りを見下すという反面の自尊心があったからだろう。キュビズムが理解出来ないと、あの絵を褒める社会の滑稽さ(キュビズムは素晴らしい絵だ。一応)を考えれば、自分というピカソ=天才を理解出来ない社会に絶望する必要はない、と思えたのだと思う。では、岩崎隆一容疑者(51)はどうだろうか。彼も同じように自分は生きる価値がない、と感じていた反面、自尊心があるから今まで生きてきた。前も書いたが、憎しみは熟成する。大きくなる。最大限に価値が無い状態(自死)選択する時、最大限に自尊心が大きくなる時でもある。彼からすれば関係しているカリタス小の児童を巻き込むのは自分をここまで追い込んだ象徴なような気がする。彼からすれば、彼を追い込んだのは彼をとりまく周辺の具体的な狭い社会だったのではないだろうか。なので憎悪の対象がはっきりあった。これがネトウヨ系だと対象は社会になり、「誰でもよかった」と無差別に繁華街(人が多い所)にでも行くだろう。

 

防ぐ手段はあったのだろうか。孤立させずに生きていてもいい、という価値を与える。たったこれだけだ。しかし、これが難しい。個人の人生でもかなり難しいから、結婚して相手に必要とされる価値を得て。それが薄れるから子供を作って「この子の為に」と自分の価値を感じて。それだけ個で自らの価値を感じるのは難しいものだ。そんな中、年齢や学歴、離職期間等で実力関係無く人間性を否定する事を肯定する日本社会では孤立した途端、底辺に陥る可能性が高くなる。特に中年は何の支援も無い。61万人と言われる中年のひきこもりは、親が認めない人達を含めると100万人以上と言われる。私もかつてそうだったが、一人暮らしだから統計に載るわけがない。これが豊かな社会なのだろうか。

今後、更に貧富の差が広がり、今51万人と言われる若年層のひきこもりがそのまま中年になる。そして100万人の中年のひきこもりはそのまま。それだけいれば同じように追い込まれる人が出て、同じような事件が起きるだろう。

「自分も含め、皆それなりに苦労しているんだから」という自己責任論の人々にとって想像が出来ないほど更に深い自己否定と憎悪。傷つけられる自尊心。その先にこういった事件はあるのだ。

 

まずは年齢差別を撤廃する事から日本社会ははじめてはどうだろうか、と思うのだが、そういった議論にもならない。年配=低賃金で雇える人手、として雇用する会社とかがフューチャーされる事に違和感を持たない社会だからなぁ・・・。

そんな事に悩む底辺君です。どうしたらいいんだろう・・・。

ちょっと前にぷち炎上したツイートについて

なんか、反論が下手でいいように逆に言われているのを見て、もやもやしたのでちょっと書いてみようかな、と。ツイートの文字数だと反論は限界がありますよね。

順を追って。

 

まがみ @ma_gami

「10連休の人は、それを支える我々サービス業が大勢いる事をお忘れなく!」 みたいなツイート死ぬ程回ってくるけどさぁ、そんなの10連休フルで休める仕事に就けるよう努力して来なかったテメェのツケだろうがよ。知ったことか
 
・これはよくある自己責任論ですよね。現在の結果が自己責任だけで終わるものではなく、家族、社会環境が色濃く影響している事は社会学、哲学、幸福学、政治学的に証明されている事なので、何かの結果を自己責任論だけで結論付けるのはいささか乱暴。ただ、こういう書き方をすると自己責任で成功した人の実例で反論をするを人がいるのだが、上野千鶴子氏も東大でのスピーチも、言っている事が100%全ての人に当てはまる、なんて言っていない。東国原氏のように、社会学的見地を少数の実例で反論するのはあまり上等な手段ではない。
 
まがみ @ma_gami
@yoskoo_zauzau @GJ_boy1 俺は10連休がない事自体をバカにした事は一度もないのに、勝手にコンプ拗らせて怒るのおもろ過ぎん?
 
・「10連休が無いんだ、ざまぁ!」と言っていないので、その事をバカにした事は一度も無い。それは事実だろう。ただ、
「努力して来なかったテメェのツケだろうがよ。知ったことか」
ここですよね。自己責任論が是可否であれば、非であるだけでなく、「努力」というのも単純に図れるものではない。何も努力をしていない人もいれば、努力をしても失敗する人もいる。この方は、個々の人生でそれなりに誰もがもがいて生きている現実に対して、たった一言、「努力してこなかったテメェのツケ」と片付けてしまったのだ。これはいわば、人間否定、人格否定だ。会社でのパワハラ手段としてよく使われる手段(足が付かない、という点で)であり、電通の自殺した女子社員が言われていた事や、ワタミで自殺した社員が言われていた事に似ている。これをもし無自覚(計算せず)に言えていて、その上で上記のようなツイートをしているのであれば、相当なパワハラ気質であり、それが社会的ヒエラルキー的に上層にいてサイコパスなのか、それともむしろ下層にして、投影同一視的に他人を見ているのか、はわからない。この人格否定の発言にネット民は食い付いたと思われる。
 

Apr 25

これは 「連休中に仕事だからってだけでそんな恩着せがましい事言う奴ら、本意なく働く事になったんだろ? でもそれは公休に休める仕事に就かなかったテメェのせいなんだから、1人で社会回してるようなデカい面して当たり散らすな」 って言ったワケ。そもそも自分の仕事に矜持あんならスルーするよな?

 

・この部分で上記した部分は省いて言うと、最初の、「知ったことか」につながる部分。「10連休取れない仕事の人達のことをお忘れなく」だけでなく、今回の10連休を取れる人は日本国民の6割という試算が出ているが、その中で休みたくない人(パートタイム従業者)を含むと、給料が下がらないで10連休を取れる人は5割を切るだろう。つまり、10連休を取れない人、歓迎じゃ無い人が多数である中、賃金保証と10連休がある人が少数派である、という事。なので多数派の人達が言いたいのはホワイトカラー層がクビに出来ない、同一賃金同一労働ではなく、年齢差別、性別差別がある既得権益化しており、そのためあらゆる政策がホワイトカラー向けのものが多く、今回の10連休は最たる例であるのだが、とそこまで深く政治に明るくなくても、日本がしっかり階級社会になって来ていることを肌で感じており、この層は実質賃金が下がり続けている(物価その他コストが上昇し続けている)人達。本来は政治に矛先を向けるべきなのだが、そこまで政治に期待をする事ができない(させないようにコントロールされているとも言える)層でもある。なので、上層階級の人達に向けて、「私達も実は同じ国民ですよ」という結託を求めるような恨み節に近い事を言いたくなる気持ちはわかる。本来上層にいるからこそ、そうした社会全体の事を考えるべきなのだが、実際庶民よりも詳しい人は多いが、だからこそシステム的に(個人や少数レベル)では改善は難しいという事を知っているし、なんにせよ、恵まれている自分たちの世界を壊してまで、という気にもならない現実もある。

そう、これは階級闘争なのだ。それを、「知ったことか」と切り捨てるのは格差社会に対してあまりにも無責任であるが、まあ、そこは許容範囲だが、ここは人格(他人の人生)の切り捨てへもかかっているので質が悪い。ここに追加して

「1人で社会回してるようなデカい面して当たり散らすな」

である。下層の人達が社会に当たるのは当然の事であり、それを救うのが本来の政治。しかも日本の場合は経済戦争の現代の中、自らの政策で陥った格差社会、階級社会だ。もちろん、それは庶民に責任もあるのだが。

で、この方は人格否定が出来るように、個々の人間の価値を軽んじすぎているから、「1人で社会回してるようなデカい面して」なんていう事を言えるのだろう。個の人それぞれに価値があり、社会をまわしている。それが哲学では前提である。社会学では「役割」をあてがう。なので、一人一人が社会を回していて、デカい面して本来はいいのだ。代わりがいないような天才、個性のある人は社会を構成する人間数からすると圧倒的に少ない。だからといって、そのモブ的人格を否定することは同じ人間としてやってはいけない事なのだ。本来。ここで本来、というのは否定することが当たり前だから階級社会になっている、という現実があるのでこの方だけの問題ではない、という事でもある。社会の構成員という見方で自分も他人も見ていない人にとっては自分と家族、仲間に直接関係無い社会の出来事は文字通り、自分は関係無い事、と見過ごして考える事もないだろう。しかし、自分が当事者(10連休が無い下層国民)として人格否定をされ、なおかつその役割さえも否定されて初めて階級社会、格差社会を痛感したと思う。その上で愚痴のはけ口であるTwitterでつぶやいてしまった。という事だろう。それを否定したければ、この方のように人格否定するのではなく、

「Twitterって掃き溜めだよね?」という

従来の論であれば良かったとも思う。しかし、リアルではけ口が無い人達からすると世間に口外する事がストレス発散になる側面もあるので、だからこそ、システム的にブロック、ミュート等の機能があるのだ。

 

ふぅ、後半ぐだぐだになってしまいましたが、相変わらず書き直し見直しせずに一気に書き上げ。これも結局、底辺の私の頭の整理の文章化ですもんね。

 

追記:

条件反射で想像力を働かせない人もいるので具体的な例を言うと、

「私は自衛隊員です。10連休はありません。少しでいいので我々の働きがあるからこそ、そちらの平和がある事を頭の片隅に置いておいてください。それだけで自分の仕事に誇りを持てる部分があります」

という人に対して、

「恩着せがましく言うなよ。自分で選んだ仕事だろ?公休に休める仕事に就かなかったテメェのせいなんだから、1人で社会回してるようなデカい面して当たり散らすな」

っていう事、言いますか?って事。

言う人は言うんだろうけど。

 

今流行りの犯罪、事件を防ぐ簡単な方法

振り込め詐欺

簡単ですね。個人情報の保護法を強化して、本人の同意無しの名簿販売を禁止すればいい。それだけ。じゃ、なんでそんな簡単な事が出来ないのか。名簿販売業者&名簿を必要とする業者と政治家がつながっているからですね。もっと言えば、そうした名簿を元に組織する人達や政治家にとってその名簿が必要だからですね。だから、犯罪を防ぐ根本対策はする気がない。

個人の犯罪被害よりも組織(既得権益)と議席の方が大事。

 

・高齢者の操作ミスによる交通事故

簡単ですね。試験で落とせばいい。83才の方が教習所に更新にいった時、「俺から見てもこんなの問題だよ、ていう人達も講習が1時間から2時間なっただけで、全員免許更新出来るんだもん」って言ってました。今はほぼ全員が講習だけで合格になるからこういった事故は減らない。じゃ、なんでこんな簡単な事が出来ないか。免許関係は警察の天下り先なんですよね。で、議員ともつながっている。

個人の生命よりも組織(既得権益)と議席の方が大事。

 

もっと言えば、そもそも日本の多政党システムがおかしいんですよね。強い既得権益者達はその力を持って集団を作りやすい。人類の歴史からすれば、それは貴族、地主、宗教。その力を持った人達には絶対に多数の分割グループでは勝てない。だからむしろ勝てないように、民主主義の顔をかぶっている(フリをしている)国は多数党で腐敗する事が多い。ヨーロッパが多数党システムをとっているのは本来崩壊したはずの貴族など伝統がある国だ。

しかし、アメリカは違う。歴史が無い。だから人間というのを良く知っている。既得権益者には同数であたらないと勝てない。だから2大政党だけなのだ。人種、宗教が複雑に絡まっている以上、日本よりも当然主義主張が一致する事などない。それでも2大政党なのは、間違った選択をした政党をすぐひっくり返す事が出来るように、だ。日本も自民党に勝つには野党た一致団結すれば簡単だ。しかし、それをしないのはなぜか。それは今の位置(野党)の方が都合がいいからだろう。

日本の行く末よりも自分の議席、生活。

 

ようは、社会は為政者達の為に運営されているので、それに逆らうのは庶民が団結して選挙で勝つしかない。それを為す事が出来たのは大阪維新や沖縄の選挙だろう。しかし、その選挙で多数党になっても国政が邪魔する。大阪などは政権与党と野党が結束して大阪維新に歯向かったぐらいなので、野党が一致団結して自民党と戦わないのは既得権益を貪る事の方が国の未来よりも美味しいからだろう。

 

このままだと本当に沈んじゃうなぁ・・・。

 

クラブが生き残る道の考察

ピエール瀧の逮捕でクラブ=アンダーグラウンド、というイメージを未だに持っている人が勘違いな発言をしたりするこの頃。日本のクラブ事情を考えてみる。

・酒と音楽

このイメージが強い人が多いと思う。事実、現役DJ、店を運営する人もそれを売りにしてツイッターなので「音楽と美味しい酒で酔う」的に使われる事も多い。実際バブルが崩壊した後のクラブはまさにそれだった。その頃の雰囲気を引きずっている人、もしくは箱の経営者からすればドリンクは利益率が高いので収益源として確保したいのもわかる。

しかし、時代は変わった。

日本は階層社会になって、金を持っている人とそうでない人が見事に分かれてしまった。渋谷の夜などはコンビニで酒を買って、路上で飲んでいる人も多い。そして、この階層は年齢に関係が無い。若者だから金が無いわけでもなく、中年でも同じ。日本式の年代の分け方はバブル世代以上にしか当てはまらない。それ以下の世代は上流階級かそうでないか。

そんな中、海外の事情と違うのは日本は路上飲酒がOKという事だ。だから繁華街のコンビニで酒を購入という事が許される。飲み&踊りにクラブに行く、という海外とは事情が違う。

そうなると酒を飲まずクラブで音楽を楽しむ人が増えつつある。そこで友人が出来るか?となるとそうでもないのが今の時代。コミュニティーという概念がすべての場所で崩壊しているからだ。本来、目の前の人間が同じ状態(空間)であればそれなりに尊重するのがコミュニティーの原点のはずだが、今の日本はそれが無くなった。家族の前ではタバコを吸わないが、他人への副流煙を気にしなかったり、ウィンカーを曲がる時と同時でしか出さなくなったり、とか。家族と知人以外では同等の人間扱いをしないのが当たり前になった。その社会に日本では昔のように、クラブにいる人達=仲間、ではない。SNSと同じように、自分が仲間と認めた人(同時に自分を承認して欲しい人)だけが知人のきっかけとなれるのだ。なのでクラブが独特のコミュニティーの中心となっていた昔とも違う。

つまり、昔のクラブを知っている人達が言う、

・酒

・仲間

というキーワードは日本のクラブ文化ではもはや古いのだ。イメージで言うと日本で異常に開催されているフェスがわかりやすいか。フェスはある意味行く事に意味があって、そこで知り合いを作りに行く、というよりも仲間と行く、の方に重きがあり、なおかつ、酒を沢山飲みに行くという感じでも無い。細かい部分は大きく違うが、音楽を楽しむという点も同じだ。

最近急激に増えているDJバーなどはバーに足を運ばせるきっかけとなっているし、カウンターとミニフロアだけの場所で常連が仲良くなるのは、立ち飲み屋と変わらないから、それをもってクラブ文化というのはいささかおかしい。むしろ、酒があることで本来のDJプレイを楽しみたい層(本来のクラバー)をシャットアウトしてしまっているとも言える。

ではどうすればいいのか。クラブ文化、そして経営として。

上流階級の人達向けのサービスとしてのクラブはその他サービスと同じなので除外。勝手にやればいいのだが、金が無くなった庶民向けの日本版クラブ文化の問題だ。

 

わからない・・・。もやっと掴みかけているのだが・・・。

(ひどいオチ)

ディスカウント(ゲスト、リスト)がクラブ文化を潰すのか?

最近、ツイにディスカウント反対、と言うDJを見るようになった。前後から考えるに、

・クラブ文化が日本では衰退の一途をたどっている

・昔は良かった

・最近はいいDJ(定義はわからんが)よりも、集客出来るDJが箱側からは重宝される、つまり、ディスカウントがある事で下手なDJもレジデントをはれる。それが更にクラブ文化を駄目にしている。

だから、ディスカウント反対。来たい人は正規値段でも来るので、そういった音楽好きと、しっかりしたDJがいて初めてクラブ文化の復活があるのだ。

という事だろうか。

私はこの意見には真っ向から反対する。

 

確かに、今のクラブはイエローやマニアックラブ全盛期のような感じではない。当時のクラブはアンダーグラウンドな感じで、非日常的な雰囲気の中、特別なおしゃれな人が多かった。今はアンダーグラウンドな感じはなくなり、おしゃれな人などほぼ皆無になった。しかし、やる事といったら、酒、踊る、ナンパ。それが大きく変わっているとは思えない。

確かに、海外のクラブではバー含め、隣になった人とはすぐ話す事は多々ある。だが、日本は昔からそんな雰囲気は無い。だから、クラブは受け入れる箱としての存在ではあるが、ナンパ師で無い限り人と知り合う場では当時もなかった。話す人は話す、は今も当時も変わらない。これはディスカウントや箱の問題ではなく、日本人の特性、社会性によるものだ。外国人のナンパ以外、男性とは話しない女性は昔からいた。

 

私のように頻繁にクラブに行く人間にとって、ディスカウント(ゲスト、リスト)は年間にするとかなり大きい。音箱では男女ともしっかり音楽を楽しんで踊っている人は多い。昔と違うのは高齢化が進んでいるというぐらいか。そして、可処分所得が減っている事も大きい。昔は若者が踊り、中年はソファーで座って若い子をはべらかして酒をおごってくれる人が多かった。年齢の高さ=所得の高さ、でもあったからだ。今は違う。中年でも若者と同じくらいの所得の人はざら。結婚もしていない人も多い。だから中年が踊り、体力の無い若者が椅子に座りっぱなし、という事もある。

 

日本社会が昔とは違っている。だから、どの昔のクラブの雰囲気を懐かしんでいるのかわからないが、昔に戻る事は無い。今の現実の客層、客の要望に対してDJが何をするか。そこが大事であって、ディスカウントのせいなどではない。

そもそも、発想が客を舐めている。下手なDJの時はフロアがさっと引くものだ。ベテランDJでも、客を引っ張るどころか、自己満足の選曲でつまらないプレイの人もいる。フロアの客の笑顔でこちらがわかるぐらいなのに、全然それを変えようとしない人もいる。

 

多くの日本人の特性の問題として、酒を飲むとはっちゃける、というのがある。それは=酒を飲まないとシャイ、人見知りのまま、ともいえる。私は断酒して数年経って手に入れたのは、常に本音、という事だ。酔う事が無いから、常に平常心。クラブに入った直後にいい曲が流れていればすぐ踊り出せる。しかし、女性と話すのは出来ない。ナンパと思われるからか、私の外見の問題か、ほぼ塩対応されるからだ。男性の方がむしろ話かけられる事は多いのだが。気持ちよくなりに行っているのに、なにも好きでも無い女性から嫌な対応される確率が高いのであれば話かけないのが吉、と思っている。しかし、そうした女性の多くは外国人男性の痴漢のごときスキンシップのナンパにはひっかかっているのが不思議でもある。ただ、これも日本社会の問題でもあり、白人の外国人=かっこいい、もしくは英語を喋りたい等の目的意識を持っている女性が昔からいたし、SNS世代(時代)というべきか、不特定多数の人と知り合う感覚が、自分が日常で会わない人と知り合う楽しみ(昔)から、自分と気があう人と「のみ」知り合う事に重きを置く人が増えているのもある。インスタ、ツイ等で感覚や趣味が合う人以外は面倒でしかなく、クラブに重きを置いていない人達からすれば、そのクラスター属性の人はどうでもいい、という事でもある。

 

昔を懐かしむDJが言うクラブ文化は、昔のテレビは良かった、的なテレビマンと似ている。娯楽が少ない時代だったのだ。だからテレビと同様、クラブに重きを置く(ソーシャル的に)人が普通だったから、そこで生まれるクラブ文化があった。しかし、今は時代が違う。人の時間は様々なものに割かれ、その対象物の価値は相対的に下がっているのだ。ドラマ「半沢直樹」はテレビが終わった、と言われた時の大ヒットドラマだったが、それでも同じ内容で今放送だったらあそこまでヒットはしなかっただろう。それだけ時代の流れは早い。

いいDJ。いい箱。定額。それによってクラブ文化が再構築されるなんて事はない。むしろ実質賃金がずっと減っている中、庶民が娯楽に割く時間が減る分、客が減り潰れる箱が増えるだけだ。であれば、DJがディスカウントを用意して客を呼ぶ。もしくはCONTACTのように箱側がディスカウントを用意する。参入母数を多くして、人を残していくのが娯楽ビジネスの基本なのだから。その後、いいプレイをしてファンをつければ、私のように「あのDJも参加するから、迷っていたけど行こうかな」となるのだ。これは落語と同じ。まずは寄席に来てもらい、そこで贔屓の落語家を見つけると、その人が参加する寄席を追うようになる。

 

正直、今やクラブしか居場所が無いのは孤独な中年ぐらいだ。そんな時代でのディスカウントという意味をもう一度考えてもらいたいものだ。