底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

Chim↑Pomの「気合100連発」が話題になってますが

昔の作品だけどね。例の「表現の不自由展・その後」に展示されたもんだから噛み付く人が出たみたい。復興に取り組む若者6人とメンバーで円陣を組んでアドリブで叫んでいく。問題は後半で

被爆最高!」「放射能最高!」

的な叫びがあり、最後は

放射能最高じゃないよ」「ふざけんな!」

で締めくくる。

 

映像作品は映像を使うだけに現代アートが主であり、解釈が難解なモノが多い。なので作品をどう感じるか、というのが大事になる。まったくわからなければそれは自分の人生で培った感性と合わなかったという事。この作品を批判した人に対して津田大介氏はこの作品は

「『原発事故の被害者が、自身の不安を断ち切るための叫び』」

と説明している。

 

ネットで前編を見る事が出来ないのだが、一部を見た感想を言うと。

気合100連発。アドリブでまるで山手線ゲームのようにテンポ良く、間髪入れずに自身の願望や未来の希望、自身の葛藤等を叫ぶのだが、具体的な事は長く続かない。だんだん単純化していく。実際に被災して復興を手伝っている若者もチンポムメンバーもくだらない(失礼!)、単純な内容になっていく。

これは人間というのは生活をしている中で優先的に大事に思っている事、解決したいと思っている事柄はそんなに多く無い、という事だと思う。一日24時時。処理能力には限界があるわけだし。瓦礫の山を前にして円陣を組んでも、だ。考える事ができる範囲は限られているのだ。ましてやまだ社会経験の少ない若者達だ。目の前の事に一生懸命というと聞こえがいいか。そんな被災地の彼らの叫びにチンポムメンバーが賛同し、内容のレベルを合わせる事で見た目は「被害者が自身の不安を断ち切るための叫び」っぽくなる。

ここでチンポムが仕掛ける。それが問題になっている言葉だ。誰が叫んでいるか特定出来ないが、次々と原発事故系を煽る言葉が発せられる。

この転調は面白い。一般人がしたいこと、気になることが出尽くした後にすっと原発称賛と同義的な発言を入れてきた。これは現実の社会そのものの縮図だ。被害者の若者の叫びと比べて、原発を誘致してきた人達の叫びは何が先に来るのだろうか。実際、この事故があった後に大間原子力発電所の開発は止まっているが、中止にはなっていないし、休止中の開発について

「1日も早くやってもらわないと死んでしまう。観光客が来ない、大間には事業はない。結局、頼りは原発です」(みちのくホテル大間亭 工藤竹美会長)

という声もある。地域の既得権益に甘え、それを維持する事で衰退した地方。地元の若者の小さな夢など関係無く、地元権力者と為政者は自分たちの利益の為に原発を誘致した。それが街が活性化(新しい産業が生まれ、子供が増えて人口増)にならないとわかっているのに。

そんな悪魔の産業ツールに手を出す事は、

放射能万歳!」

と言っている事と同義だと思うのだ。実際、原発事故の可能性云々の前に、原発放射能ゴミが出る事はわかっていたり、その処分がどうなるかもわかっていなかった。

これは別に福島と関係権力者達だけを批判しているのではなく、それらをわかっていながら唯一の被爆国なくせに地方の事として原発問題を切り捨ててきた全国民に対するツケというか、自分たちがやっていた事を目の前に提示されているのだ。

経済発展と首都電力という大義名分の前に、原発が地方に作られる事に無頓着で、それらの恩恵だけを得ようとする。そして実際恩恵を得てきた人達の多さは被害者の比ではない。その恩恵を得てきた人達からすれば、「原発最高!」であり、それは「放射能万歳!」でもあるのだ。放射能被害、放射能ゴミ等の問題に目を向けないで単純に原発電力のみ最高、というの虫が良すぎる話だ。

 

しかし、希望はあった。最後には

「ふざけんな!」

瓦礫の中で自らが当事者として叫んで一致団結するからだ。

うーむー。突如地方に原発が生まれ、生活があり、それが崩壊して。そして再生。原発と社会の時間の流れがこの作品には描かれている。

 

社会の出来事で自分に関係無い事なんて無いんだな。自分も社会に参加している当事者として、何が出来るのかしら。そんな事を再度(何回目だよ)思ったし、人生は細切れの出来事、幸せや苦労の積み重ねだけども、しっかり自分で考えて選択していかないとそれらは一瞬で分断される事もある、という、民主主義の怖さも感じた。

 

というのが私の解釈。

 

献血ポスターの宇崎ちゃん問題

ものすごく長い下書きは破棄して。シンプルに。

表現の自由派と環境セクハラ派との対立構造が激化しております。

で、私が思うのは、どのような社会に皆さんしたいですか?なのです。色々あるのですが、要素の一つに「共感力」があります。

 

そもそも萌え絵というのは男性の欲望を具現化したもの。しかしそれが情報流通時代になって一般にも広がり、また、世界から思想、哲学が手に入る中、男らしさ、女性らしさという世間一般のバイアスと自由主義の狭間にいる人達は女性であっても萌え絵に萌えるようになった。そういう人達はLGBTも素直に受け入れる自由度があったりもする。そう、自由な思想は素晴らしい。

また、巨乳が一般的に性欲を掻き立てるのか?と問う人もいて、ワンピースのナミを例に出す人もいたが、これは悪魔の証明であり、性欲は嗜好なのでなんにでも感じる人はいるので否定はできない。それでは何も表現できない、マジョリティーとして巨乳の萌ポスターは駄目なのか?という反論もあるだろう。性欲の対象という観点で言うと多分宇崎ちゃんは当てはまらないかもしれない。なぜなら日本人の性欲対象は基本征服欲が多く、また秘匿感が必要だからだ。これはAKB初期を考えるとわかりやすいかもしれない。アイドルがオタクのモノだった時、AVにはAKBの制服を模したものが多かった。アイドルが一般的になり若い女の子もアイドルヲタになる時代。AVからすっかりアイドルモノは減り、レイヤーに移った。女性にも受け入れられた存在=一般化=現実感がありすぎて、従来の性欲の対象ではあるが、隠れてむっつり、という対象ではなくなってしまうのだ。性欲の対象としての妄想の夢がない、とも言える。

 

なので性欲論争は意味がない。そこで最初の定義に戻る。「共感力」だ。

 

胸が大きい女性は人生において男性からの視姦に耐えている人が多い。自転車の男性に胸を鷲掴みにされて逃げられる事件にあった女性は私の周りでもかなりいる。もしそのような事例が身近にいないのであればそれはそういう事を告白され無いだけであると思う。もちろん、胸が大きい事でグラビアアイドルになれるし、男性にモテる事も事実。現在40才以上の未婚者の調べたら間違い無くA~Cカップの人が中心だと思う。男性が性欲を掻き立てる身体の人はやはり結婚をしている。それだけ巨乳というのはメリットも多いが、そのメリットがある、という事はその反対も多い、ということ。

性犯罪に合う確率が多くなったり、セクハラを受けたり。胸が大きいというだけで人間性関係無く性的な存在として見られる屈辱感と自己否定感。それを味わいながら生きている人達は少なく無いのだ。そんな人達からすれば件の宇崎ちゃんポスターは苦痛でしかない。

 

表現の自由だし、特にマジョリティー的にセクハラでも無い。だったら何をしてもいいのだろうか。先進国では未だに女性差別が多い、と叫ばれる中、日本は最下位レベルの男女差別国だ。そんな国で苦しむ女性を無視して表現の自由だ、という社会を私達は望むのだろうか。

これは色々な事にも当てはまる。例えば満員電車でのベビーカー。この人達も少数派だ。仕事をしながら子供を育てる人を排除するような社会にするのか、満員電車であっても乗る人が一本送らせてでもベビーカーの人を乗せてあげるのか。満員電車でマナー違反だ!と叫ぶか。何が正論か、ではなくどのような社会にしたいか。

いじめがあったらいじめられた子は1人だから少数派だ。その子を転向(排除、無視行為)させれば一時的に問題は解決する。しかし、そのような学級=社会にしたいのだろうか。

 

宇崎ちゃんに罪は無い。表現の自由もある。性欲の対象は多岐に渡るので特定して制限のしようがない。子供ランドセルの写真の幼女にさえ興奮する人がいるのだから。問題はそこではなく、この胸を必要以上に強調されたキャラの絵が広く公共の場で目に入る事によって、苦々しく思う、過去そして現在も苦しむ人がいるという事実だ。その人達に「なんで苦しむんだ、そんな必要は無い」という説得は意味が無い。問題は共感してよりそえるか、だ。

 

このような表現が当たり前に出来るようになる社会は性に対してもオープンで男女差が無くて、男性用風俗店と同数女性用風俗店が当たり前のように立ち並んだり、それこそLGBT向けの性的表現が当たり前になった(アメリカ当は今もかなりがんばっているが)社会でこそ成り立つのかもしれない。昔の海外のSF映画の未来は女性のみが現代と同じように性的対象で描かれていたモノだが、現在のは金持ちが若い男女両方を集めて性行為をする、というのが作られていたりする。それだけ性の男女差にクリエイターは挑んでいるのが先進国なのだが、未だに旧石器時代のような男女差別が当たり前の日本で、巨乳キャラが表現の自由だ、とだけ言うのはちょっと社会環境的に難しいのではないだろうか。

 

苦しむ方達が減らない社会であるからこそ、そのようなひどい社会を変える努力が何なのかを考えながら、苦しむ方達に寄り添うという自由。自由主義をまずはそういう形に使いたいか、それともマジョリティー=正義という民主主義的な発想に使うか。どのような社会がより人間として成熟した社会なのか。自分が住みやすい、住みたいと思う社会なのか。

そこなんだろうなぁ。

学校問題に心を痛める春名風化さん

https://twitter.com/harukazechan/status/1172711776531537920

ツイッターで積極的に発言をしている春名風花さんが上記のようにつぶやいていた。なんで学校は変わろうとしないのだろうか、と。子供がこれだけ亡くなっているのに、と。

 

なんて純粋な疑問なのだろう。これは以前児童相談所の時に話したのと同じ答えなんですよね。

答え。人間の組織だから。

 

学校で言えば、真剣に子供の事を考えている人は心を病むか辞めるかもしくはバカで教職免許取れないか、という感じで、子供の事よりも自分の職の確保優先の人間が出世して組織の上に立つのは日本の組織として学校でも会社でも児相でも同じ。学校はなおかつ教育委員会という更に上の美味しいポジションがあるのだから、そこの少ない枠に入る為に上の人達は必死だから。つまり、教員というのは職の種類であって、それは会社の社員と同じ。上層部は既得権益になる。

 

前にも書いたが、私が職歴的にイケイケの時、誰もが知っている大企業の部長面接までは必ず通ったが、役員面接で落とされるという事が続いた。大企業になってから入ってきた年配(中年)の役員達は自分の立場の確保が優先。しかし、部長面接までの人はそれが問題で上に楯突いて社内改革をしてもらえる、と期待して私を通す。組織の上に立つというのは創業経営者じゃなければそういうモノ。

 

じゃ、どうすればいいのか。様々なやり方があると思うが比較的簡単なのは教育委員会がある事を利用すればいいと思う。ここを完全教員経験を排除した部外者でなおかつ、道徳的、倫理的、社会的、経済的等に優れた人物を選出する。選出方法は選挙や投票等、民間参加での選出にする。公的機関の選出だとスポーツ系組織団体のように天下り補助金くすねの組織になってしまうからだ。その完全第三者機関の教育委員会がまずはしっかり学校を監視する。利害関係の無い物言う理想論者でない限り、日本の組織の上層部を変える事は出来ない。現場は給料と権力にしか興味が無い人しか出世は出来ないのだから。

 

まあ、それを考える人達も既得権益者達だから改革は難しいね。第二次世界大戦の時に平民の命を恐ろしく軽視した大本営上層部人達の末裔と取り巻き、貴族達が今の社会を作っているのだから。選挙でなんとかはなるはずなんだけど被害を被る庶民ほどそれに興味無いし。

ふぅ。更新してしまった・・・。

 

身バレしまして。

リアルに私を知っている人で常に私を全否定する人がいて。つい、匿名で宣伝もしていないブログでも見知らぬ人が支持してくれる事もあるのに、と言ってしまったんですよね。もちろん相手は

「そんな人(てめぇに共感する人)いるわけねぇじゃん」

的な反応でしたが。断片情報で検索されてこのブログがバレてしまいました。

ここは社会的にも精神的にも底辺に落ちた(と勝手に自分が認定した)と思った私の再生の記録で、当初のエントリーは見直すのも嫌で、書きなぐりの心の恥部が書いてあるわけです。いわば弱み。私だって実社会では薄いですが心に鎧を着ていて。それでも全否定する人に鎧の中を見られるわけです。もう、確証バイアスのネタですよね。見下す為の実証が増えただけ。

 

そりゃ落ち込みました。そんな時、人生の大先輩方とお話する機会がありまして。私の事をクソミソに全否定する人がいるという事はそれなりにそういう事実があるのでは?なんて言ってしまったら・・・。全員が声を揃えて

「それは逃げ!自分の存在価値を他人にゆだねては駄目!」

とお叱りを受けました。私は、は!と気づいた、というか、薄々気づいていたんですよね。例えば、私を全否定するその人の私に言う事実、

中年で社会のヒエラルキーで底辺で、考え方が・・・等々、それらを全て逆の人であっても社会的倫理観等が私の求める人間像で無いし、決して幸せな家庭じゃ無い人もいる。逆に、私よりもむしろメディア的社会一般的基準では下と思われる人でもしっかり家庭を作っている人もいる。特殊例を出したらきりがないとはいえ、矛盾が生じるわけです。

貴方はこれこれの理由で、はい、全否定。

貴方はこれこれの理由で、はい、全肯定。

どちらも悪魔の証明なのです。なのに、リアルに他人に全否定される事=自分の価値、と考えてしまって自信を無くしてしまっていたんですね。いつの間に。

 

自分の価値は自分で決めて、自分で道を切り開く。それがサラリーマンじゃなくなった人間の心得なのかもですね。まあ、サラリーマンでもそういった事ができる人いますけど。

自分に対する自信のなさをつい、他(社会や他人)のせいにしてましたね。その身バレした人には先日会った時も

「いや~断酒中だから女性と会ってもその先に進む事がなかなか難しいね~」

なんて軽口叩いたら、

「アナタが相手にされないのはそれだけの問題じゃないから」

とまた全否定されて落ち込んでいて、なかなか立ち直れなかったのですが、そもそも他人に承認欲求を求める事自体が問題だったのですね。そんな事をしていたら絶対に完全に承認される事は無いわけですから。100%完璧な人間はいないわけですから。

 

面白いのは、既婚者(浮気していない)人は男女とも、こんな話は手前で一笑にふされるんですよね。他人との生活は我慢と忍耐、という。でも、未婚者(離婚含む)や、既婚者でも浮気症の人は他人に要素として完璧を求める傾向があって、減点方式で人を見るんですよね。前者は減点も加点も無く、そもそもそういう風に人を見ていない。私はこれを他人とセットになった時、総じてプラスの人達=既婚やパートナーがいる人、と思っていたのです。実はそれだけが真実ではなかったわけですよね。まさにパラダイムシフトでした。

 

そんなかんだで、この身バレも私にとっての試練なんでしょう、はい。人間性を全否定する人なんて世の中に腐る程いるわけだから。捨てる神あれば拾う神あり、ってよく出来た言葉ですよね。捨てる人間あれば拾う人間、じゃないんですよね。他人に心の生殺与奪を握らせない。

 

なんか少しだけ強くなった気がします。ちなみ、この私を全否定する人とは今も仲よくさせていただいてます。だって、私からすれば色々感謝しかないですから。

表現の不自由展

大前提として。アートという定義は人が受ける言葉の定義であって、それはひとそれぞれ。だから私は「アート」自体の定義や内容について論じるのは意味無いと思っている。よく意味がわからない人はバンクシーの映画「バンクシーを盗んだ男」を見るといい。

私はマスメディアの情報番組等を録画して倍速チェックする事がある。それはマスコミの情報操作や今のマーケットへの迎合具合をチェックする為だ。で、曲者揃いの「サンデー・ジャポン」のゲスト出演者達全員がこの「表現の不自由展」を批判していてびっくりしてこのエントリーを書くに至った。あれだけ年齢立場教養活動場が違う人達が全員同じ意見になる事など確率的にかなり難しい事だからだ。

同日の前の時間に橋下徹氏と桜井よしこ氏もこの問題について語っていた。もちろん、反対であり、橋下氏は「天皇とか関係無く、人間の肖像を焼くようなアートは反対」と番組内でもツイートでもおっしゃっていた。桜井よしこの反対はまあ、想定範囲内。

 

この展示の反対には大きくわけて2つの理論がある。一つは私的なアートならばまだしも、公費を入れた展示物としてはいかがなものか、というもの。もう一つは全否定。全否定の人は人の意見を聞く余地がなく、それこそ表現の自由とは程遠い場所にいる人達なので、ここでは無視して。公費問題についてはどうだろう。

 

まず、韓国の従軍慰安婦問題団体が作る少女像。これが展示されているのは「日本軍の従軍慰安婦の問題」について是非を提起しているのではない。韓国ではこのような像を作って政治利用したりするよね。じゃ、国内では同じような表現は出来ているのかしら?という事。従軍慰安婦問題の是非じゃないのだ。少し前、集団的自衛権の拡張関連法案の時のデモを見に行った事がある。デモ隊の多くは「アベ政権を許さない」と吠えたり旗を持っていた。私は思った。

「アベ政権を許さない、って?」

だって、日本の総理大臣はアメリカの大統領のような直接民選ではないから、そのような巨大な権力があるわけではない。単なる代表であって、問題は戦後から続く戦中でも庶民の人命軽視の戦術を行っていた権力保守層であって、元貴族、地主系、その他関係者との利益誘導でズブズブの関係を作ってきた保守政治家、支える官僚、メディア、そして支持庶民であって、決して「アベ政権」の問題ではないからだ。そんな彼らの主張はやはり通る事は無い。保守に守られている庶民層(若者、正社員、金持ち老人)の方が強いからだ。だからこのデモ隊、特に参加した若者達の団体はネットの中年達にひどく叩かれた。それでも表現は出来た。多分、従軍慰安婦の問題を日本で主張したい在日韓国人の団体がこの「少女像」を掲げて主張しても、まさに「アベ政権を許さない」状態になるのは目に見えている。それでもその主張を日本国内でやる事は表現の自由として守られていいはずだ。「アベ政権を許さない」という問題の根本はそこじゃない、という政治利用だって許されるんだから。何も、少女像の展示=韓国の従軍慰安婦団体の主張を受け入れる、という事にはならないのだから。表現の自由を与えよう、というだけの話だ。

肖像を焼く、という展示についてだが、これは抗議で展示中止となって焼かれた図録を忠実に表現したとの事。昭和天皇をモチーフにしたコラージュ作品が抗議によって非公開になり、その後焼却された事実について、(モチーフは駄目で、それを焼却するのはOKなの?)という事を表現しているわけだ。誰であっても写真を焼かれるのは気持ち悪い、というのであれば、コラージュ作品のままで良かったはずだ。コラージュが天皇を冒涜している(?)的な事あれば、それを焼却する事の方が冒涜なのじゃないか?抗議をする人達にとって、という問題定義だと思う。だよねー、と言うしかない。

 

再度言うが、アートかどうかというのはどうでもいい。展示が中止になったこれらの数々を見て、表現の自由って何か、何に忖度して断られた作品なのか、抗議の内容はどういった事なのか。日の目を見なかった(もしくはすぐ下げられた)作品を見て「表現の自由」を考える、というのがこの展示の趣旨なのだろう。そこに愛知という自治体が公費を入れる、というのは日本という国ではかなり先進的で挑戦的な事だと思う。少女像を見ただけで「韓国に迎合するのか!」と条件反射で騒ぐ保守派、ネトウヨさん達が多いし、リテラシーが無いのが日本国民であるからだ。これは利益誘導をされているマスメディアや有識者、自称ジャーナリスト達が保守を言論で守って庶民を誘導しているからで、普通の人なら社会正義よりも自己の正義(生活)を優先してしまうもの。だからジャーナリズム精神が育たないのだ、日本は。それは第二次大戦中と全く同じ。発言力のあるジャーナリストやマスコミが利益誘導されているから動かないから、言論の自由度の世界ランキングは毎年日本は下がっているのだ。だからこそ、公費じゃないと出来ない内容として、この「表現の不自由展」はあったのだ。

公費、というのを予算と考えてNHKの番組として考えてみたらどうだろうか。民間で作れる番組を予算を使って沢山NHKは作っているが、NHKしか作れない番組(視聴率も稼げず、スポンサーもつかない内容)もあるだろう。だから国営放送であり続けるのだ。だから未だに第二次大戦時の大本営の失敗や毒ガス部隊などの情報を毎年更新し続けている。NHKが毎年終戦記念日前後に粛々と第二次大戦での日本軍の酷さを暴き続けるのと同じく、地方自治体が「そろそろ、日本にも国際的な感覚での表現の自由があってもいいのでは」と問題提起をする為に、今まで撤去された作品を中心に「表現の不自由展」を行う。戦時中はすべての新聞が同じ内容だった。これは庶民を騙したとして進駐軍が作った戦犯リストにマスコミは入っていた。裁判は日本人に委ねられたが、我々は罰する事はしなかった。今回の件はそれに近い。マスコミが一斉にコメンテーターや番組ゲストを使って批判をしたのだ。先に述べてサンデー・ジャポンがいい例だ。再度言うが、全員一致など本来ありえないのだ。

 

今回の件は日本が表現の自由が無い国である事が露呈したという事では価値があった、これで議論のキッカケになった、などという意見もあるが、そんな事はない。日本に表現の自由もジャーナリズム精神も無い事に日常的に気づいている人でないとこの問題はわからないし、その他の人はそもそも社会のありように興味無いからネットニュースのタイトルだけ見て「何?公費で韓国の応援したの?」とか「何?天皇の肖像燃やしたの?パヨクって頭ウジ湧いてる!」ってつぶやいて終わり。すぐ忘れる。一部の憂さ晴らし隊は抗議やパトロールしてコメントを荒らす事に必死になるだけ。つまり、無意味な対立構造を生んでしまっただけだ。こうなると、憂さ晴らし隊は更に極右翼化していくし、逆に反体制側もただ反抗する事に執着(アベ政権を許さない、みたいにね)して現実問題を解決しない、両派とも極端な憂さ晴らし隊ができる事につながる可能性がある。

 

まあ、どちらにしても日本社会が変わる転機の予感なんだろうね。

 

前向きになった底辺が自分で現実を知るの巻

ちょっと前の話になるが。

ここ最近、結構前向きになってきたの。今まで自分を追い込む事ばかりやってきたけど、足りない金を更に新しい経験に投資したりした事も功を奏したみたい。やはり人間によって傷つけられる傷は人間とのふれあい(直接ではなくても)によってのみ、癒やされると思う。

で、まあ、その気は殆ど無いが、社会復帰ができるか?と思って履歴書、職務経歴書だけでは足りないと思って、自己PR書をPPTで作成してみた。半日かけて。

久しぶりのプレゼン資料。写真もフリー素材から拝借して、なかなか綺麗なモノが出来た。そして見直してみると。

 

「俺ならこいつ、採用しないねぇ・・・」

 

そう。プレゼン資料を作成した事で自分の脳が会社員時代に戻ってしまい、資料を客観視出来てしまったのだ。つまり、会社というのはとことん、効率を追求する。その中で、いくら人間的に面白くても、効率を考えたら私のような人材なんて採用しないなぁ。と。

 

そんな客観視が出来て良かった。さて、自分で色々する覚悟と自分の道を決める覚悟だな、あとは。

 

 

再エネ発電賦課金の不思議

再生可能エネルギーの固定価格買取制度の買取に要した費用は、電気料金の一部として、電気をお使いの全てのお客さまに、電気のご使用量に応じて「再生可能エネルギー発電促進賦課金」としてご負担いただいております

という制度ですね。これが年々値上がっております。いくら節電しても電気料金がちっとも下がらない原因にもなっている。

ちょっと昔のブログだが、

www.taro.orgこの時よりも倍以上に値上がっている。再生可能エネルギーの復旧の為に、という名目になっているこの制度。再生可能エネルギーで発電した電気を電力会社が一定価格で買い取る事を政府が決め、その電力会社の買い取り費用を負担させる制度。

 

おかしくないだろうか・・・。

 

例えば、電気自動車を普及割合に目標値を設定したとする。その時の自動車価格の高騰を防ぐ為に、全国民(車を乗らない人)からもその電気自動車製造コスト(普通車よりも高い部分)の費用を徴収。この理屈がおかしい、というのはわかるだろう。であれば、なぜ電気はOKなのか。

電気はライフライン(電気、ガス、水道)である。ほぼ無くてはならないもの。再生可能エネルギーの目標値があり、それを実現するのであれば・・・。それは企業が負担するのもではないだろうか。東京電力がそんな事いやだ、投資はしたくない、という事になれば他の事業者が台頭する。それが市場競争であり、であればその状況を考えて政府がする事は電線の開放。つまり、事業参入しやすいように、かつて国営時に整備した電線網を再度国所有とし、再生可能エネルギー生産業者が参入しやすくすればいいのではないだろうか。いやいや、それでは再生可能エネルギーの方が高くて誰も買わない?それは現状の電気自動車と同じ。それでも買う人はいる。市場原理とはそういうものだろう。政府は再生可能エネルギーへの移行の為の規制を徐々に強め、既存電力会社は新時代に向けての設備投資を黙々とする(原発などではなく)。電線が開放されていればこそ、新規が参入しやすくなる。

 

再生可能エネルギーを既存電力会社が買い取る(それも高値で)。高値だから新規に参入する企業が増えるだろう、という算段なのだが、実態は補助金目当てのやるやる詐欺だったり、金持ちが戸建てにソーラーパネルを付ける、というだけになっている。それらを電力利用者全てが負担するのはどう考えてもおかしい。

 

政府が電線を国有化し、再生可能エネルギー業者には一定期間その電線使用量を無料等にすれば、例えば過疎化して人口が減った村等が全面をソーラーパネル村にして、自治体として電力会社を興す事も可能になる。そのメンテのために新たに人も集まるかもしれない。またはソーラーパネル巡回調査会社などもできるかもしれない。そうなるとソーラーパネル特区ができるかもしれない。これは政府が新企業に対して優遇するからこそできる事。

しかし、日本の制度は新企業(事業)を興す為に、既存企業を利用し、その費用を全国民から税金のように徴収する。こんな制度、国民が政府を絶対的に信頼していないとできない。そして、その既存企業がこの費用をほぼ利益にしていない、という、これまた私企業なのに誠実に対応している、というユーザーとの信頼関係があってこそ。

 

ここまで政府を信頼しているのだろうか。

ここまで既存電力会社を信頼しているのだろうか。

 

そんな国民ばかりなのだろうか。日本人は。既得権益者から搾取され続ける事に慣れすぎではないだろうか。

 

今でも拡大している貧富の差。貧層にとって、この再エネ発電賦課金の額はかなり大きなモノ。ここを選挙の争点にして野党が結託する事を望むのだが・・・。既存野党は自分たちと支持者の既得権益者を守る事で必死なのでこんな庶民の為になる事などしない。

はあぁ・・・。なんだろう。諸外国なら暴動レベルの出来事なのになぁ・・・。