底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

貧困はバカだから、なのか。

まず、バカの定義が難しい。「バカ」と「じゃない」とを比較すると。

学校の勉強が出来た人を「じゃない」とすると。

中卒だからと言って事業で成功出来ないわけじゃない。いやいや、事業で成功する特殊な人を例にとって話すのは統計学的におかしい、という話しにもなるが、そもそも事業で大成功する事の方が珍しく、会社とは倒産する方が多いわけなのだから、起業をする人=「じゃない」よりも成功の確立を考えると「バカ」に入るのか?それとも確立論的には成功が宝くじやFXよりも遥かに高いと考えれば「じゃない」に入るのか。

 

多様な意見を取り入れる視野の広い人間性を「じゃない」と考えるか。

確かに、低所得者ほど社会的視野が狭いばっかりに他人に暴言を吐き、人を見下げる傾向がある。これは他人の事を考える事が出来ない、つまり性格にサイコパス性がある事を示唆している。ただ、アメリカある機関の調査によると、歴代の成功者、現代においても社会的成功者にはこのサイコパス性を備えていた、いるともいう。つまり、心を痛めずに時に他人を切り捨てる力が社会的成功には必要とも言えるのだ。確かに、「

貧困なのはバカ」と言っている人は彼の価値観での「バカ」というクラスターを人達を切り捨てている。その彼は社会的にも経済的にも成功している。

 

では、貧困になってしまう「バカ」とはなんなのだろうか。そもそも貧困になる状態とはなんだろうか。

最近話題になっているシングルマザー貧困はどうだろうか。単純に彼女たちを「バカ」と言う事は出来ない。保育所が足りない問題、子持ちシングル女性の雇用を避ける企業の問題等色々外部要因もある。これを母親個人にフォーカスしてみると、シングルで成功しているマザーの場合、そもそも経済的に自立している状態での離婚があって、でない方は自立もしておらず、職歴も浅い(職能の無い)状態での離婚がある。では、後者が「バカ」にあたるのか。ここまでくると恋愛観、結婚感だけでなく、生き方の問題になってくる。それでは、その本人の生き方を決める部分はどこに成るのだろうか。それは家庭環境が一番大きい。この事はデータで証明されており、ざっくり言うと親の貧困が子供にも影響する、という部分だ。ハーバード大の学生の多くはアメリカの富裕層の子供達であるし、慶応大学生もお金持ちが多い。統計データなので、この「多い」というのがポイントであり、貧困層から抜け出した人達だっている。それは人間とい生物の可能性であり、それを全体に押しハメて「個人の努力次第」と語るのはあまりにも客観的じゃないし、理論的でも無い。

 

さて、そうなると貧困=バカ=個人の責任、とは簡単には言えないのだ。教養とは一長一短で身につくものではなく、海外に生まれて住んでいた日本人が自然にその国の言葉を喋るのと同じで、その語学力と同じで、生きていくだけで身についた教養と、その後の猛勉強で身につけた教養というのがある。裸一貫で経済的な大成功を収めた人も、子供の頃だったりに、何かの青天の霹靂的な出来事が外部からあって、それによってビジネスに目覚めている。それも所謂教養だ。

 

そうなると、「バカ」のカテゴリーになってしまった人達はどうしたらいいのだろうか。また、そんカテゴリーに入らない為には。具体的に株をやれ、とか企業しろ、という事ではない事がわかるだろう。まず、積み重なった教養による「バカ」の部分を変えないとならないわけだから、その教養自体をリセットしないとならない。パソコンを覚えてタイピングの職をゲット、という単なる労働者としての生き方を目標にするような発想の人になるか、プログラミングにまで手を広げて自らの単価をあげる、もしくは起業まで見据えるような人になるか、の境目がここにある。

 

そして、ここですべてを全否定するのだが、こういった事を考えて実行する事自体、教養であり、大人になるとその積み重なった人間性簡単に変える事が出来ない部分であり、そして貧困から抜け出せない部分でもある。

 

結論。貧困はバカなのではなく、多くは生き方そのものが反映されてしまう事態であり、本来そうならないように子供には等しくチャンスを与えるのが社会であり、学校の存在であるべきなのだ。

アメリカの一部のリーダー達はその事に気付いてまずは教育チャンスや人間の多様性に投資をしている。これは倫理観だけではなく、その事によって今の一部の特権階級が儲かる資本主義社会よりも、経済が更に発展し、結果的に自分たちも住みやすい社会になる、という広い視野に基づいた結論だ。最大幸福拡大への追求とも言える。

 

まあ、難しいね。

豊洲移転とオリンピック費用とか。色々ある東京。

日本のテレビや新聞を信じてしまう人は政治家は滅私で政を行う存在だと思っているのではないだろうか。実は政治家には正体がある。それは・・・。

 

我々と同じ人間

 

という事だ。なので、強くもあるが弱い部分もあり、醜い部分もある。そして彼らは支持票が無ければただの無職者になるという中、支持者の為に働く面はかなり強い。また、筋を通す為にその筋の方々に貢物(金や利権)をする事もある。前石原都知事が作った新銀行東京の金はいったい最終的に何処に流れているか。あれだけの赤字を垂れ流しても融資を続ける事など銀行業とは言えない。しかし、そういった合法的に金をある筋に流し続ける事で歌舞伎町の再開発で土建屋や不動産業者が儲ける流れが出来る。

 

さて、小池百合子東京都知事だ。自民党から離れて出馬し、圧倒的な民衆の支持がある以上、本来は流れは小池新党を作って東京で与党になる事だ。しかし、戦後の混乱期からずっと首都を支配してきた輩、魑魅魍魎共が簡単にそんな事を許すわけがない。ぶっちゃけ、彼らは自民党であろうが何であろうが関係ない。権力を自由に出来ればいいわけだから。政治的理念など関係ないのだ。

小池百合子都知事はどうやって金を彼らに流すだろうか。この手腕によって一気に情勢は変わる。東京を支配している妖怪達からすれば自分たちをどれだけ重く見ているか、がはっきりわかるからだ。そして考えた手が豊洲移転一旦停止&オリンピック費用見直しだ。これによって違約金等、労働無き(原価無き)資金流出が出来、また、表面的に自民議員が儲けを掠め取りたかった癒着業者も切る事or査定(どちらに付くか)が出来る。表面的な数億の削減など、土建屋の階層値段(9階層以上ある下請け流し)をなんとかすればいいだけの話しで、根本の問題解決になどなっていないのだから。小さく、効率よく行ったイギリスのオリンピックと違って巨額の都民と国庫予算を無駄に流し、オリンピック後も垂れ流す、という本来の問題をマスメディアを使う事で、うまくごまかす事に成功している。

 

ああ、うまいな。さすが大臣にまでなった政治家だ。

 

そんな見方で政治を見ていない私でも、気付かない人々を見下してしたり顔で政治批判を繰り返す気なんて毛頭無い。なぜなら私も同じく弱い人間だからだ。時に大きな流れに乗らないとならない時もある。その中で出来るたった一歩を踏む事さえも阻まれる事もある。それでも生きていく。

だから庶民こそ、政治、社会を自らの問題と考えて行動しないとならないわけ。自分と家族、友人だけが得すればいい、は跋扈する魔神達だけで十分。多数派である庶民はそんな本音を持ちつつも、自らが所属する社会の事も考えて行動し団結しないと、弱い立場になった時にあっという間に食べられてしまう。バランスだ。

 

なんて事を考えている昨今。

過労で自殺するぐらいなら会社辞めれば?に対する反論がちょっと話題なった件

ちょっと人間の精神に見識がある人であれば、過労の末に自殺を選ぶ人に心理はわかりものであり、そこに「自殺するぐらいなら辞めればいいのに」なんて言えるものではない。それがなぜか、というのは多くの人が説明してくれているのでここでは省略して、今回問題にしたいのは、そういった自殺に追い込まれる人がなぜか、という説明があっても、まだ「それでも辞めろ、と言わせてもらう」という人がまだいること。これは学校でいじめにあったら「学校に行かなくてもいいんだよ」発言をする人と似ていようでちょっと違う。

 

まず、現実を直視して受け止め、そして分析して解を出す。そういう当たり前の工程が出来てない。というも、既に自殺してしまっているからだ。その現実に対して、「辞めればいいのに」は選択肢として選ばれなかった、という事。その事実がどうして起きたのか。これが問題を解決する能力であり、心理学を勉強していなくても、共感能力の無いちょっと低レベルの人間性であっても関係無いのだ。

そうなると、未だに「辞めればいいのに」発言をする人は

①幅広い人間の心理に疎い

②共感能力がない

③問題解決能力がない

人になる。それはつまり一般社会生活でかなりの問題児の可能性が湧いてくる。では果たしてそうだろうか。

実はこの発言をする人で誰もが知っている一流会社の社員、ベンチャー企業創業者を知っている。もちろん、同時に社会の最下層労働者も知っている。つまり、①~③すべてを兼ね備えて、社会の最下層にいる人達は最も想像しやすいが、社会的に成功している人の中にもザラにこうした人がいるという事実。実際、電通ほどの入社が難しい一流会社でも過労死が起きるということは、それを生む土壌があるという事にもなる。しかし、電通社員が①~③を備えていない、とは思えないし、実際に私が仕事をした事がある電通社員はもちろん、問題のある人もいるが概ね仕事面では優秀な人が多かった。

 

これは近年では「サイコパス性」といわれるところで、犯罪者としての完全なサイコパスではなく、一般人よりもある部分でサイコパス性を持っている人の方が社会では成功しやすいのだ。そのバイアスが自殺の回避行動=辞任しか思いつかない結果になってしまうのだ。なぜなら自分がそう出来るし、それ以外の選択肢を取る人間の存在を考える事が出来ないからだ(だからこそ、知らない内に加害者になっている事も多い)。こういった人達は年収もいいので、都内一等地に家を持ち、美人の妻と子供は私立というパターンも多い。所謂日本社会の成功者だ。

 

ネット上だけだと、いかにも生きている社会の狭い、低階層の人達が暴言を吐いているように思える。しかし、現実はそうではない。社会上流と下流が発想の根本は違う(サイコパス性によるバイアスと単純に見識が狭い人間性等)のに、表面は同じ表現になってしまう。これが日本の労働環境だけにとどまらず、あらゆる社会環境が改善しにくい世論を形成してしまう根深い問題点であると思う。為政者側に対抗するべき弱者が表面上同じ事をしてしまうわけだから。いわゆる、更に弱者を叩く、という奴だ。もしくは無視。

 

日本独特かと思えば実はそうでもない。人間とは元々そういう卑近で卑劣な存在なのかもしれない。そう考えて準備をしてもそれを上回る事が生まれるから厄介であるが、それが人間という存在のいい方でも悪い方でも創造性溢れる所。

 

強さを手に入れ、強くあり続ける為には何が出来るのか。一生自分に問い続けて努力を続ける事でしかこの人間社会の負の連鎖から逃れる手段は無いのかもしれない。

 

 

日本ではなぜ男性の方が自殺率が高いのか、の仮説

社会的立場は女性の方が弱いとされている。特にメディアでは頻繁にシングルマザーの貧困層を報道している。生きている事が辛い=自殺と考えると、女性の方が自殺率が高くでも不思議ではない。では、なぜ男性の方が自殺を選ぶのだろか。

 

精神的に男性の方が弱いとか、女性の立場が低い=社会で戦っている男性が多い=相対的に自殺率が高くなる、という事は今まで言われてきた事。ただそれらはマクロ視点での話しであって、なんか正論ではあるがイマイチ納得感が無かった。そんな時、先日ふっと思った事があった。それは西野カナの歌をぼーっと聞いていた時だ。

 

「女の子はいつだってかわいくBraBr・・・」

 

的な歌詞があったのだ。

(女の子はかわいく、か。いつまでも可愛くいたい、っていう歌詞もあったなぁ)

と考えた時、これにあたる男性バージョンが無い事に気付いた。男はいつまでもかっこよくいたい、なんて歌詞はない。あるとしたら「男らしく」だろうが、この言葉は女性の「かわいい」という自己愛、自己完結と違い、他人からの評価が大事である点ではむしろストレス、プレッシャーになる言葉だろう。そう考えると女性には沢山そういったポジティブなモノがあるのだ。

アクセサリー

シューズ

バッグ

様々なモノが女性の気分を盛り上げるアイテムとして紹介されたきた。極めつけが化粧だ。あるボランティアが老人ホームで女性に化粧をすると元気になる、としてホーム巡りをしている、というのを聞いた事がある。では、それに該当する男性版はあるだろうか。

そう、男性には趣味嗜好を抜きにした性別だけで汎用的な逃げ場が無いのだ。もしかしたら風俗なは唯一それにあたるかもしれないが、金がかかりすぎるし、人は疲弊すると性欲もなくなるものだ。いや、性欲だけが逃げ場、というのも極端に狭すぎる。

つまり、世の男性は女性に比べて気分をあげる手段が少ない事によって心の逃げ場を無くしがちなのではないだろうか。それによって、女性よりも自殺率が高い。

 

という仮説。どうだろう・・・。

 

学校でいじめられている・ハブられている・うまくやっていけないと感じている小学生・中学生・高校生に。

というタイトルのブログがリツイートされていた。内容は相変わらずのテレビのコメンテーターレベルだったのでそんな内容に感化される子供がいるとは思わないが、とりあえず別の視点からも書いておきたい。(まあ、この内容が他人の目に触れるとも思わないが)。そのブログの内容事に反論。

 

1.無理して学校に行かなくていいと思う

で、どうするのか、ということ。確かに不登校を経験している人で大人になって大成している人は目立つ。しかし、同じく不登校になってそのまま何年も引きこもりになってしまっている人もいる。無理して学校に行け、と言っているのではない。日本は一度挫折すると簡単には戻れない社会システムになっている。同一労働でも大卒と高卒で給料が違う事や離職期間が長いと正社員雇用は絶望的とか等々。無理して学校に行くな、とはそういった社会システム、防波堤の構築を出来るような官僚、政治家を国民としてしっかり選んで、そして社会の雰囲気を変えた時に初めて言える事であり、そういったセーフティーネットがない以上、「無理して学校に行かなくていい」などとは言えないのだ。当時者もそれがわかっているから学校に無理して行っているのだ。

 

2.「大人になったらもっと大変なんだから」は嘘。大人になると断然楽になるよ。私は中学がいちばん大変だったし、今が一番楽しい。

そんな事はない。自殺者の年齢データを見て欲しい。そもそも大変、や辛い、という事は相対的に比較するものではない。本人がとても辛い、と思った時が辛い時。それは年齢は関係無い。様々な世界を見て中年になった私が自分の経験から言わせてもらえば、大人の方が社会的には大変。子供の方が悪意が表面的に現れるので理解もしやすい。大人は見えない悪意を持っている人が多く、そのサイコパス性も自分の立場や家族の為に発揮する人も多くなる。つまり、私利私欲と公共性、会社の利益。これらがごっちゃになるのだ。子供社会ではまず自分本位だけの場合が主なので発想の転換もしやすい。

 

3.勉強は、とにかくしっかりやっておいたほうがいい。

これは賛成。潰しがきくようになるし、脳の発達のためにもいい。

 

4.いじめをする側にもかわいそうな部分はある。あなたは一歩先に少し大人になって、勝手に許してあげよう。

こんなの無理。うつ病になると何の感情もなくなるのだが、いじめられて辛くなるとそれに近い状況になる。他人の事など考える余裕などなくなる。なぜこんな思いをするのか、その理不尽さ。それを理解しなければならないために自分を責めたり。そんな事の繰り返しで自分自身が疲弊していく。そんな中、相手を鑑みる。それが出来る人は所謂他人の上に立つような特殊な能力の持ち主だろう。いじめに屈する事もなく、それを糧にして将来人に話したり、それを売りにするぐらいのタフな精神力の人ぐらいだと思う。本当に苦しんでいる一般の子供にこれは無理すぎる。

 

という事で。自分が恵まれている事に気づかない大人って怖いね、というお話でした。

 

 

 

 

ひっそりとやっているブログですが、それでも極たまに。

アフィリエイトもやっていない。読者を集めようともしていない。だから更新も気が向いた時だし、そもそも公開する必要もないのかもしれない。ただ、ほんの少しだけ、かろうじて生きている事を残しておきたい的な、自身の社会への認知欲求が完全に消えない為にも続けているような本匿名的ブロク。そんな道端の石のような本ブログにも極たまに酷いコメントが入る事がある。書き込む名前からして私を侮辱する名前にして、内容も単なる暴言、というものだ。

 

私がふしぎなのが、なぜそのような言葉を見ず知らずの他人に吐くことが出来るのか、という事だ。私は今ままでの人生で知人にも他人にも所謂そのような暴言を吐いた事がない。だから見ず知らずの他人同士でそのような事を言える、という神経というか、育ちというか、が良くわからない。

まだ、目の前の人(他人)が何かマナー違反や酷い行いをしていて、友人達と「何あの人、ふざけんなよ」とか「死ねばいいのに」と陰口を叩くならまだわかる。とはいえそんな言葉を当人に嘆かけるような事は出来ない。それは反発が怖いとか、言う勇気がないとかではない。単純に生きている人間に、目に見える「点」だけでその人の人間性を全否定するような暴言を吐く事を良しとするような人生を送っていないからだ。

 

まだ公人に対してならわかる。そこには信念や理念による暴言だけではなく、多分にやっかみや妬みが入っており、そういった人間はちょっと探せばリアルでも見つかるからだ。相対的にしか幸せの価値を見出せない人や、何かと勝負、ランキング、評価を基準にするような人に多い傾向がある。ただ、それが一般人に向かうとなると話は別だ。心の動因の多くを占める肝心の嫉みがないからだ。つまり、純粋に、普通に、ご飯を食べつように、「おはよう」を言うように、見ず知らずの他人に人間性を否定するような汚い暴言を吐ける、という事だ。人間なのでそういった人も絶対世の中に存在する。ただ、普通に生活していればそういった人達との接点は本来ない。それがSNS時代になって本来接する事がない人達に対してそのサイコパス性質を振りまくことが出来る世界になった。

 

私は大人なので「死ね」と言われて「じゃあ、死ぬ」とはならないが、それでもそんな言葉を他人から浴びせられるような人生では無かったし、ましてや匿名でIPアドレスでしかトラッキング出来ない他人に初めて言われて時はそれなりに衝撃だった。それにまだ慣れないし、慣れてはいけない、こういった行為は特殊であるという想いは持ち続けようとは思っている。ただ、これがもし精神的にまだ未成熟な人が浴びせられた場合、もしくはそういった匿名個人同士のやり取りを見てしまった場合どうだろうか。ポジティブな言葉として「カリスマ」があり、特別な人に使われていたが、それが多くの読者モデルにも使われるようになって、もはやカリスマは頂点の人に使われる言葉じゃなくなった。そしてその上の階級、「神」が生まれたが、これも一時のカリスマと同じような働きにその言葉の価値を落とした。それと同じように、見ず知らずの他人に対して平気で「クズ」「カス」「死ね」という言葉を見続けたら。本来は一種のサイコパス性質な人だけが他人に使えるような言葉だったのに、その言葉の重みが薄くなり、平気で使えるようになる人が増えてしまったら。受け取る側の気持ちに対する共感性が無くなり(それがサイコパス性質とも言えるが)、平気で他人を直接傷つけても何とも思わない、相手が生きている人間であって、自分と同じ生活をしているという想像もできない人達が増えていくのではないだろうか。もしくは、自分勝手な想像で相手の人間性を全否定して、自らが暴言を吐くことを正当化する、妄想型のサイコパス特性の部分を伸ばしていしまうような人達が増えていってしまうのだはないだろうか。

 

今だに海外の映画では子供(とはいっても大学生以下)が汚い言葉を使うと親が叱るというシーンがある。知り合いの外国人(大人)でも会話中につい汚い言葉(若者言葉的ノリ)を使ってしまった時に冗談っぽく謝られる事がある。汚い言葉を使うという事は少なからず人間性と直結しており、それは行動や思想にも影響をするという事が信じられているからだと思う。まっとうな大人は汚い言葉を使っちゃいけません。自身の表現でも注意されるわけだ。それを一般の他人に吐くなんて本来ありえない事なのだろう。

 

そんな風に日本社会も変わって来ているので、学校でSNSで言葉のいじめがあっても「いじめはなかった」「いじめだと思わなかった」となるのかもしれない。暴言を吐くを方は「マジ神」を連発するのと同じレベルで「カス」「クズ」と言えるのだ。しかし、受け取る、例えば中学生からすれば、まともな家庭に育っていればそんな言葉を人間から直接浴びせられる事などない。まだ自分のアイデンティティーが確立されていない中、そんな自己否定の言葉を浴びせられた場合、ショックは想像に難くない。しかし、そんな事を子供にまでも平気にさせてしまうようなネット社会にしてしまったのは我々大人の責任であり、社会の一員としてその責任は免れない。

 

一部のこういった暴言を平気で吐ける大人とは論理的、理論的に話し合ってもその根本が思想がまったく違う為に分かり合う事が出来ない事は既に経験済み。なので根っからこういう性質な人はとりあえず放っておいて、そういう人が荒らすネットに触れている人達の中で、つい出来心でもそういった言葉を匿名という無責任な立場で他人に浴びせるような行動を絶対にしない強い気持ちを持って欲しい。一度自身の倫理観の枷が外れると、人間とは弱い生き物で、際限が無くなってしまう。というよりも、見ず知らずの他人に匿名で「クズ」「カス」と一生言わないのが教養ある人間として当たり前であり、その経歴に傷を付けてしまうと、自己肯定作用でその行為に合わせて自分の倫理観を捻じ曲げる事になってしまう。

 

ま、綺麗事だけどね。

NHKのバリバラが障害者✕感動という単純図式化に疑問を投げかけた件

まず、NTVの24時間テレビが障害者に何かを頑張らせる企画ばかりになったのはそれを視聴者が求めているからだ。社会に広く受け入れられているから、スポンサーも付く。つまり、日本社会が差別社会であり、同局は儲ける為にそれに応じているだけでもある。そんな中、近年ネットでこの番組を批判する声が増えてきた。理由は2つあるように思える。一つは、障害者で感動を煽る、感動ポルノに対する批判。そしてもう一つはチャリティーと称して出演者が多額のギャラを得ている件。今回は後者は置いておいて、感動ポルノに対して考えてみたい。

 

バリバラは障害者の為の情報バラエティーとしてNHKが2012年にスタート。最近は生きづらさを抱えているマイノリティーも抱え込んで多様性社会を目指している。障害者という当事者が24時間テレビの感動ポルノを批判する事はある意味当たり前であり、やっと公共の電波でそいう事が言えるようになったのは大変素晴らしい事である。ただ、この問題を社会の構成員として自らが当事者として考えている人が多いか、というと疑問が残る。バリバラは障害者自身が扱われる当事者だからこそ、その点に置いて感動ポルノ、と投げかけた。では健常者(何をもって健常とするかは難しいが)は何に対しての当事者であるだろうか。それは24時間テレビのような内容の番組を許すだけではなく、支持するような社会を作ってしまっている、差別社会を作っている当事者である、という事。直後のネット反応を見るとNTVの番組作り不満をただぶつけるような内容が多かった。それは対象として扱われる障害者、バリバラ内ではいい。それに便乗して健常者が自らの不満をぶつけるのは筋が違う。

 

24時間テレビは見ない。なぜなら感動ポルノだから。社会構成員の当時者としてその意味をしっかり理解をしていれば、人間を差別しない多様性の社会を目指すべく筋が通った思想を持っているのだろうか。

後進国の部族の人を東京に招待してびっくりするような番組を面白がっていないだろうか。

LGBTをファッションではなく、本当に受け入れらているだろうか。オネエタレントをゲテモノ的に楽しんでいないだろうか。

ファッションで刺青をしている人をそれだけでDQNと決めつけて見下していないだろうか。

本来は存在しないおバカタレントキャラの人達を本当にバカだと思っていないだろうか。

CMや情報番組で「忙しいママに味方」等紹介や家族が座っている場に母親だけが料理を運んでくるシーンに違和感を感じているだろうか。

逆もある。

東大生、女子高生社長、若手起業家等の肩書だけでその人の人間性まで勝手に素晴らしいと価値付けしていないだろうか。

 

まだまだ沢山あるが、マジョリティー=正義である、という考えの下、少数派を差別する、逆に特別視する。多様性を認めて受け入れる社会。日本が先進国になろうとするのであれば、あらゆる差別に対してしっかり向き合うのが社会の構成員の役目だ。バリバアを見て感動ポルノが問題である、と気付いたのでれば、自らが無意識に差別している事がないか。それを正して多様性社会を目指すよう行動する事こそが、健常者がすべき事なのだ。そこに気付いて行動せずに単純にバリバラの内容だけ、障害者の感動ポルノの問題にだけ集約してNTVを批判するのは障害者を社会の一員として捉えていない、逆差別だ。もう一度言うが、局は大衆が求めている事に応じているだけだ。

 

完全に思想すべてを変える事はそう簡単ではない。それでも表向きは体裁を整えて多様性を求める態度、行動を取る事は出来るはずだ。せっかくの機会。単純に24時間テレビをネットで批判する事で問題が終わる事が無い事を願うばかり。