底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

ある一定の恵まれた層が考える悲しさとは。ある劇団の旗揚げ公演

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

アニメがヒットした時期があった。実写にもなり、ドラマでは今昇り龍の浜辺美波が中心キャラの「めんま」を演じた。感動した、名作だ、という声を聞き、両方ともチェックしたが私にはそんなに響く事は無かった。当時はなぜ感動しなかったか、の理由を確か

萌え要素の気持ち悪さ

・いくら好きな人とはいえ、まだ未熟な小学生の頃の出来事をひきずるのはおかしい

と思ったからだ。

本来の作品的にはそれはきっかけであり、ある意味それを逃避先として現実の辛さから逃げている、という事なのだろうとは思うのだが、実際の描写は本当にそれが原因のようにしか思えない描写であり、小学生から中学生になるとガラッと世界が広がり、それは学年が上がるほどに恐ろしい勢いで成長していく、という現実を考えるとあまりにも不可思議だった。

 

なぜこの話をするか、というと表題の少劇のオチがかなり似ていたからだ。ていか、インスパイア作品とも言える。ただ、違うのは小学校の転校生(死んでいない)を振り返る人達が全員30代という設定。これがまったく面白くない。

 

そもそも、劇というのは2つあると思っている。いわゆる、ただの劇。演者が楽しんでいるだけのマスターベーション。そしてわざわざ劇で描きたい、というだけの主張がある場合だ。もちろん、後者こそが私が金を出して見に行く価値のある「劇」だと思っている。そうした劇は説教くさくならないように、多くは表現にギャグを入れていわゆる、笑いあり、涙あり、のギャップで泣かせるモノがおおい。そして実際にブワッと劇中に涙が溢れ、終劇後なかなか席を立てない事もある。

 

表題の劇もギャグはしっかり入っていた。しかし、30代の人達の「あの花」ごっこに誰が共感してホロリとするのだろうか。しかしも、その30代の約10数人ほどがそれを引っ張っている(再度言うが、たかが級友の引っ越しだ)事による、現代の問題が一切描かれていない。なので、その劇を見た人達の感想のつぶやきを見ると

・笑った!面白かった!

・演者の人達の勢いが良かった!

ほぼこれだけだ。笑いたければお笑いライブを見に行った方がもっと笑える。演者を褒める事よりも、その演者によって何が表現されたのか、が大事なはず。その演者達によって何が表現したかったのか、がまったく感じなかったのだ。

 

ここで私はふっとわかった事があった。「あの花」で私が感じた違和感がやっとわかったのだ。それは、過去を振り返ってなんとかしたい、というその過去がある事自体が恵まれた人達の悩みである、という事なのだ。「あの花」は死という問題もあるが、それ以上にそこまで仲いい仲間のグループを持っていた、という事が既にリア充なのだ。

劇は更にひどい。30代になって小学生の頃の問題を解決したい、というのは自分たちの思い出を完璧なものにしたい、という傲慢でしかない。それは、現代で仲間、恋人、家族などがいて恵まれている人の発想だ。つまり、こんな事を感じる人達は「孤独」ではない、という事だ。

 

人間にとって病気よりも辛い事。それは望まない孤独であり孤立。これは全世界共通であり、結局どの物語もそこに尽きるという部分もある。だからこそ、誰もがそこを起点にして共感し、感動する。それは人間誰しもが自分が完全に理解される事はない孤独の世界に生きている証拠でもある。しかし、劇団の人達はそういった苦しさ、辛さはなく、自分たちが恵まれている環境にいる上で、「何かホロっとさせるオチ、ないかね?」と考えたのだろうなぁ、と思ってしまうような薄い内容。そんなもの、わざわざ劇で描く必要無い。いや、もしかしたらだからこそ、劇で描くのかもしれない。マスターベーションとして。まだ見ている世界が狭い中学生、高校生の劇みたいだ。

 

自ら孤独になる事もあるだろう。しかし、決して孤立する事はない人達が考える感動など、こうしたレベルの薄っぺらいモノなのか、と実際に喪失を体験して孤立してからずっと社会の底辺にいる私には更に自分が精神的にも孤立している事を感じる夜になった。