底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

日本の少子化について(全体概要)

私は団塊ジュニアの世代であり、ベビーブーム世代だ。バブルを知らない、ずっと競争。会社ではバブルを経験して仕事をしない(出来ない)人達の尻ぬぐい。そんな私でも中学生の時の授業で鮮明に覚えているのは少子高齢化社会が将来に訪れるという事。そして大学生の時に20歳以上から年金徴収がスタート(それまでは社会人のみだった)したことで少子高齢化と世代間格差を肌身に感じてきた。

しかし、政治家達は少子高齢化が来る事がわかっていたのに何も手を打つ事はしなかった。私達第二次ベビーブーム世代が安心して子供を生み育てる政策を考える時間などたっぷりあったにもかかわらず。そして今。その世代は中年となり、引きこもり、ニート数も最大。失職も多く結婚どころか付き合う事さえも出来ない。しかし、その現実は表には出ない。ニート等のデータは30歳まで(ベビーブーム後の世代)。それはなぜか。急激に世代の絶対数が減るので、何かしら対策を考えなければならない人達にとって、達成見込みが簡単だからだ。これは自殺者統計と同じ手法。KPI達成の為にはなるべく数字が見えた方がいい。ここに光を当てるジャーナリストもいない(そもそも日本にまともなジャーナリストはほぼいないが)。金=権力であり、それを得る為には日本を動かしている人達に逆らう必要はないからだ。つまり、自分のブランド価値を上げつつ(ジャーナリストという、ね)、コンスタントに仕事を得るのに最適なのは若者、女性に目を向けた方がいい、という事になる。

 

さて、ここまで書いてきていくつかのワードを元に登場人物をカテゴライズしてみよう。政治家。ジャーナリスト。権力者。大衆。官僚等。誰もが少子高齢化社会の到来をわかっていながら誰も手を付けなかった。見ないふりをしてきた。それはなぜだろうか。答えは簡単。自分の得にならないからだ。社会的に地位の貧しい人間ほど、ナショナリズムにかられるのは万国共通。普通の人達は自分の家族、仲間、そして自分。それが(それのみ)が優先順位であり、国家の事など考えていないのだ。それが当たり前の人間であり、特に人の上に立つような人になるほど、そういった非情、無感情性(サイコパス的特性)を仕事に活かす事ができ、企業役員、政治家等で成功が出来るのだ。そういった人材については誰もが集団生活の学生時代に見ていたはずなのに、なぜか大人になると政治家=清廉潔白、日本の事をしっかり考えてくれる人、と願望=現実になってしまう認知バイアスが笑える所だ。

そんな事は無い、日本の事も考えている人達が官僚政治家にもいる、と反論したくなる人もいるだろう。一つ例をあげる。アルバイトでも社員の8割の勤務時間で社会保険の支払いが義務化された。これによって財源が厳しい国保が社保によって企業に払わせる事が出来る、という懐事情は誰もがわかる事。人によってはアルバイトにも社員と同様の保険が、と喜ぶ人もいるかもしれない。しかし多くの企業は社保を払いたくないから今まで週五フルタイムで働いていたバイトの勤務時間を減らして、バイト数を増やそうとするのが当たり前の経済活動だ。社保加入に転んでも国にとってプラス。バイト数を増やす方向に行くとそれで求人倍率が上がるのでアベノミクス的にもOK。しかし、それだけだと非正規雇用者の増加、というデータも残ってしまう。正社員の有効求人倍率も増やしたい。で、地域限定社員という、企業からすればバイトに社保を払うのであれば責任も押し付けたい。しかし通常の社員の権限(出世コース等)は与えたくない、というアルバイト待遇だけど責任は社員という、見事に週五のアルバイトが必須だった企業にとって楽なシステムが出来上がった。さて、これらによって一番弊害を受けるのは誰だろうか。そう、一番立場の低い労働者だ。こんな政策を平気で出来るのが今の日本だ。少子高齢化対策など本気でやるわけがないし、やる必要もない。作っている人達は高みの見物なのだから。アベノミクスで儲けた一部の大企業と関連中小企業、そしてその他との差と同じようなものだ。社会もそうした特権階級の為に存在するのだから。

 

そうした見えざる手の上で踊らされている現実に大衆が気付く事がまず第一なのだ。なぜなら大衆には唯一最大の武器があるからだ。それは選挙。特権階級も特権企業も結局は人国の9%以内の人達。つまり日本の有権者達が結束すれば勝てる層でもあるのだ。もちろん、既得権益層はそんな事はわかっているので全力で阻止をしようとしている。マスメディアを使った扇動実験を繰り返している。なにせ戦中に大衆を誘導したノウハウがある。B級戦犯C級戦犯は罰を受けずにそのまま残っているのだから。

 

そしてのその洗脳は有効に動いている。一番怖いのは本来家族を持って社会性に目覚める団塊ジュニア世代が団結する事だから。増える老人はまったく怖くない。なぜなら老人は多くは自分の命にしか興味が無い生き物だからだ。今回舛添氏の雰囲気辞職に社会的ヒエラルキーの高く無い中年達の多くは「当たり前だ!」と叫んでいた。たかが数百万の違法でもない私的流用で50億もの選挙費用がかかる、という非論理性を解決せずに、だ。もちろん、上層の中年の人達はこの騒動は「なにこれ」と見ていたが、絶対数が少ない。なにせ上層だから。つまり、もう数で団結したら怖い中年層は怖くないのだ。それがここ10年以上の実験でしっかりわかったので、次は若者層の取り込みなのだ。ただ、彼らは絶対数が少ないので選挙云々的な思想的コントロールではない。現在の既得権益層が儲かる為のコマとして、より自由を与えてきたのだ。

 

これが日本社会の実態。保育園が云々とか女性が働き安い環境とか。そんな個別の事由の問題ではないのだ。ではどうしたらいいのか。大衆が賢くなるにはジャーナリズムが不可欠。まずは第二次世界大戦をしっかり反省して、新聞、テレビ、雑誌等の資本関係を禁止し、独立した機関として牽制しあうようにしなければならない。本来これは戦後すぐにやるべきだった。なぜそれが出来ないのか。先進国では当たり前の事だが、それをする事は国の為になってしまう。そんな事を既得権益層、権力者(政治家)達は望んでいないから変えないのだ。自分たちの支配力を変える必要がなぜあろうか。自分達が楽に利益を出せる事を下々の者の為になぜ放棄しなければならないのか。まず無理だろう。

一流企業の人達は適齢期にしっかり結婚出来ている。子供も作り、裕福な生活を送っている。それは既得権益層も同じだ。英語を話す小学校や、自由な校風の私立の小学校ででのびのび育てている。少子高齢化など自分たちに関係ないのだ。だから対策もしない。保育園設立反対派がいい例だ。周辺の多くは戸建てやマンション(分譲)の人達。彼らレベルでさえ、社会の問題と自分の利益を天秤にかけた時、自分達の利益を優先するのだから。そこに論理性などはない。

 

日本が少子化を本気で止めたいのであれば。本来は政策などは簡単なのだ。フランス等の成功事例があるのだから。しかしそれらを導入させないように大衆にはしっかりバイアスが仕込まれていて議論になってもすぐ立ち消える。はっきりいって、クーデターをおこして、マスメディア資本改革をして、現在コメンテーター、ジャーナリストの肩書でテレビに出ている人達を全員戦後第二次戦犯として投獄するぐらいの変革をしないと少子化は止まらない。しかしそんな事は現実的に無理。

 

結局、少子化は止まらないのであった。

舛添氏へのマスメディアの異常な叩き方と庶民の反応のヤバさ

ちょうど体調を崩して休んでいたので、普段あまり見ないテレビを付けたら舛添氏の連日の報道が流れていて、それでかなり昔、麻生太郎氏が総理になった時、マスメディアが連日のように叩き、ついには言葉の間違いまで取り上げて吊し上げ、それを「総理の資格」的なわけのわからない批判を繰り返していた事を思い出した。あまりにも内容がくだらなく、全キー局が同時に同じ内容。それもたかが数百万の経費流用だ。もちろん、額の問題ではない、という主張もわかる。しかし違法ではない以上、叩く所はこのザル法である政治資金規正法の方であり、その他にも文書通信交通滞在費や企業献金の禁止を受けてスタートした政党助成金が、企業献金がOKになっても交付され続けている問題等、政治と金にまつわる長年の問題がある。そんな積年の問題がある中で、都知事という莫大な予算のトップである人がファーストクラス?スイートルーム?千葉のホテル?正直都民の私からすればどうでもいいのだ。これぐらいの額、前述の問題からすれば微々たる問題だ。正直税金なだけに法律に抵触していなくても額と使用方法の問題には背中を刺されないように気をつける必要はある。舛添氏はしっかり領収書を添付していたし、額も小さいので問題にならないと思っていたのだろう。ここが政治の世界としては脇が甘かったと言わざる負えない部分はある。知名度があり権力のある政治家になった以上、深夜の誰もいない市街地の道路の歩行横断でさえも赤信号無視が出来ない。政治家とはいつ誰が敵になって背中から刺してくるかわからない。だから任期中はそれなりに気を付ける必要がある。そういう意味では舛添氏は石原都知事等に比べたら十分注意していた部類に入るだろう。それでも過去の麻生叩きのような例があるのを考えるとやはりオリンピックという巨大利権が発生する前には完璧にするべきだったと思う。

例えばハニートラップというのがあるように、こういった経費でもトラップがある。大会社の部長クラスでもそうだが、自分で海外出張の予約を取るような事はない。すべて周りが手配する。自分ではビジネスクラスだと思っていたのに空港にいったらファーストクラスでびっくり。自らキャンセルしようにもすでにビジネスは満席。仕方なくファーストで、という事も。これは近い将来、その対象を蹴落とす為の武器としてとっておく。そういう未来時限爆弾トラップも政治家は仕掛けられる。

いやいや、経費で個人流用していたでしょ、という人もいる。安い美術品や本ぐらいだ。私が住んでいる杉並区の戸建て住宅の車庫にどれだけ品川ナンバーの外車があるか。会計上社用車扱いだが個人使用の車だ。これが所謂経費の個人流用だ。その額たるや。それに比べたら予算内で少額の買い物をするぐらい別にどうって事ない。というのも、政治家とは清廉潔白な人間を選出する事ではなく、何を実行できるか、で判断するべきだからだ。

 

なので政治家が犯罪を犯す等、余程の事ではない限り、政治力のジャッジで辞任させないとならなくて、そうでないと何も実行しない政治家の方が優位になってしまう。所謂衆愚政治であってもいい、という事になってしまう。だからこそ今回の舛添氏のような例で辞任などありえないわけで、都民としてはこんな事での辞任の前例などは作りたくない、と思っていた。そう思っていた都民は今回の辞任にあたって私1人ではなく、大手有名企業、外資系企業の知人達もそう思っていた事をFacebookで知った。

 

ではなぜ辞任にまでなってしまったのだろうか。それは大衆の問題だ。これは2chよりもさらに質の悪いmixi等のニュースコメントを見るとよくわかる。一様にテレビが発するのと同じ批判を連日のように繰り返していた。彼らの問題は自分達が同じ仮面を付けて、見たくないものは見ない、考えない、学ばない、という点。物事を点でしか判断しようとしない彼らはテレビが一番陽動しやすい存在であり、グルメ、健康、音楽、ファッション。なんでもすぐ飛びつく。テレビを見ない若者はそうではない、という意見がある。実はそうでもない。なぜなら彼らが見るネットニュースがテレビを元に作成されているからだ。なのでチョイスする主体が発信する側のテレビか、クリックする本人か、の違いだけでソースが同じなら同じ思想になる。それが時に今回のように政治に利用されると圧倒的な力を発揮する。

 

どのキー局、MXテレビでさえ舛添氏の問題を取り上げていた時、「街の声は」という一般人を取り上げたインタビューで批判的な人だけを流していた。そんな事がありえるだろうか。私の周りでさえも多種多様な考え方ある人がいるのに、マスメディアといわれる取材陣が全員同じ意見の人ばかりになる、という事がありえるのだろうか。ナチスドイツ時代に匿名顔モザイクで取材した場合、すべてのドイツ人が「ユダヤ人は全員悪でしょ」とは言わなかっただろう。なぜなら集団洗脳でない限り、すべての人間が同じ考えである事はありえないからだ。特に東京都はその人の働いている環境、教養が多種多様である国際都市。私のような考えかの人だって少なくない。なのに未だにスマホゲームに課金して時間を潰してオワコンmixiで悪口を書くような属性の人だけの意見を公共の電波で抽出して流す。その時点で「これおかしいな?」と思うべきなのであるが、面白いのはこの属性の人たちはこれだけマスメディアに陽動されて置きながら、頻繁に「マスゴミ」という用語でテレビを批判する事も多い、信念も筋も通っていない人達。すっかりマスゴミに利用されちゃってわけのわからない、自らの生き方、信念とも関係ない、皆と同じ「正義」の仮面を被って中身も問題解決性も無い批判を繰り返すのだ。そして辞任になった途端、役目を果たしたとばかり静かになる。中には自分はその中の人達とは違うんだとばかり、「政治と金の問題を国会議員にまで広げないテレビはやはりマスゴミだ」的は発言をして更に仮面を二重にする。そして自らの存在欲求が満たされたら、本当の問題などは見ようともしない。仮にうっすら見えたとしても「俺たちじゃどうしようもないし」「世の中そんなもんだし」と急に無力無関心になる。

 

この層の人達が所謂日本の大衆である事はかなり問題でもある。「電通許せねぇ!」「国立競技場の建て替える費用があったら・・・」的な事は言うくせに、「東京オリンピックは楽しみ」という自らの矛盾性などどうでもいいのだ。東京オリンピックに反対していた人達は選手たちの夢等を天秤にかけても既得権益層の税金の無駄使いが許せないという部分で一貫していた。消費税が5%からUPする時にもそれが目的税ですべて社会保障に使われる、という一部のマスメディアの情報を鵜呑みにして、「未来の子供の達の為に」などと言ってせっかくの消費税UPを阻止する選挙をまんまとお自民党に勝たせる。しかし管轄が財務省であることを考えればそれがマジックである事は容易に気付くし、一部マスメディアが「未来の子供達に負の遺産を」的なプロパガンダ一色だった時点で「これはおかしい・・・」と気付くリテラシーがあるのが当然なのだが、まあ、100歩譲ってそれが気付かなかったとしても自らの責任で消費税がUPとなったのだ。今だに税の一体化改革がなされていないのに、8%か10%か、という議論など出来るわけもない。しかしその部分はもう見ない。見ようともしない。責任も感じない。悪いのはマスゴミであり、政治家だ(こういった人達は何事もミンスのせい、と言う人も多い)。

そんな大衆は情報リテラシーが向上するわけがない。なぜなら本人達が望んでいないからだ。リテラシーが高い人はそういう生活を送ってきたから結果的に高いだけであって、低い人が向上するには生活や意識を変えて教養を積んでいくしか道は本来はない。しかし生活をガラッと変える(環境を変える)というのは現実的にはかなり難しい。そんな環境のレベル向上(金の事ではない)無しにリテラシー向上を目指すような人達の行動はリテラシー向上ではなく、「自分はちゃんと日本の事を考えている、大衆とは違うんだ」という差別意識であり、その承認欲求を満たしたいが為にツイッターでせっせと毎日ニュース番組に書き込んで参加してみたりする。

 

時代は変われど、マスメディアに左右され、物凄いくだらない事で政治家を辞任させるまで追い込む大衆の怖さ。それは戦中の日本と変わらない。マスメディアがこの時代だからこそほんわか仮想敵国報道で陽動しているけど、これが本気になった場合どうなるのだろう。憲法改正云々の前に無責任無関心な国民の問題をどうにかする事の方を先にしないと、さすがにそろそろやばいなぁ、と舛添氏の一連で思ったのであった。

 

若者、学生の自殺についてのマスメディアやネット民達の無責任な風潮について

この頃東京では電車の人身事故遅延がやたらと多い。SNSのお陰で今まで以上に情報が入ってくるだけで実は特に自殺者が増大したわけでもなく、昔から常に自殺者は多かったのかしれない。

私はテレビのコメンテーター制度には反対派であって、公共の電波でただの個人が見解を流して思想も信念もない人間を誘導するのは罪にも匹敵する、と思っているだが、そんな中、最近気になるのがいじめ等で自殺した子供に対して、「逃げる勇気」「学校に行かない選択肢」等を発言するテレビの人達とそれに応じて、学校に行くが当然の中で、それを破る事を主張する事で自分は社会の理解者だ、と主張したい(している)ネット民達。あまりにも無責任かつ自分勝手な意見であり、なぜそういった自分たちこそが自殺をする人達が住みにくい社会を作っている張本人である事に気がつかないのか、理解に苦しむ。

学生の自殺はうつ病等で感情が抑制され、思考の回路が即消滅、という風に直結するわけではない。死しか選ぶ事が出来なくなるから自殺するのだ。この事を簡単に表すと「絶望」だ。文字通り、望みが絶たれた状態だ、と自ら判断をして死を選んでしまっているのだ。つまり、学校に行かない、休む、親に相談する、信用出来る人に相談する等の「望み」ある事はすべて本人なり考慮済みなのだ。特に学校に行かない、という単純な「望み」などはとっくに考えている。それを選ぶ事が出来ない、「望み」がないから絶望なのだ。いやいや、そんな事はない。行かなければいいのだ、という主張は確かにわかる。実際に日本では多くの引きこもりのニートが存在するわけだから、行かないという選択肢を選んで自殺をしていない人達も大勢いる。しかし、今そういった人達の例を出して自殺者の同じような行動を、というのは論理的に無茶すぎる。それが論理が通じるという事は誰もが何かあったら実家に引きこもれる環境がある、という事が真である必要がある。そんな事はありえないわけで、だからこそ、自殺者は逃げる事が出来ない環境であって、その事も含め「絶望」なのだ。

そして感受性の強い当事者は学生であってもわかっている。何も現場の事をわかっていない大人達が「逃げてもいい」「勇気を持って」などと言いながら、挫折した人間を救うような社会システムに尽力する気もない事を。自らの勝手な善悪基準だけで他人をメッチャクチャに叩く事を。世間とは信念も思想もなくマスメディアに流される人達の集合体である事を。もちろん、それは正解でもあるが不正解でもある。社会という現実はもっと奥深く、人間は更に罪深いモノなのだが、そうはいっても自殺者からすればそんな世間=社会は即ハシゴを外し、手の平を返す、矛盾の象徴でもある。杉並区が待機児童が多くてつき最近区役所前で「保育園落ちたの私だ」的なデモがあって、マスメディアやネット民達もその内容の是非は置いておいて、為政者を叩いておいて、いざ杉並区がスピード重視で一部公園を潰して保育園にしようとしたら今度は反対運動。こういった日本社会を冷静に子供達は見ている。そんな中、一度挫折をしてしまったらまともな生き方は出来ない、させてもらえない、と思ってしまうのも無理も無い。

もちろん、そんな事もないし、何がまともか、という話もある。現に、普通のサラリーマンでも議論も出来ない、信条もない大人などゴマンといる。しかしそれらは子供にはさすがに難しいし、教える大人がそういった(自分を含め)大人達の存在を教える事もしない。教える大人とは成功した人達、目指す大人だけだ。

そういった社会が小さな望みさえも絶ち、自殺を考えている人達に絶望状態に陥れる。例えば現実の状況を考えない地位も名誉も金もある理解ある人間風のコメンテーターの一方的、直線的な「逃げる勇気」という言葉によって、様々な思考上、環境上そういった選択が出来ない学生は「自分は逃げる事が出来ない存在=生きる希望が絶たれた存在」という事になってしまう。自殺は例えばいじめられたから死を選ぶ、という単純な事ではないのだ。ありとあらゆる考え、逃げ道、選択肢。自分の頭の中でぐるぐる多くの事を考えた上での絶望が多いのだ。

 

無責任な発言をするテレビやネット民達は自殺を本気で考えた事がない恵まれた人達なのかもしれない。ただ、だからといって自殺者の気持ちを考える事が出来ないという理由にはならない。なぜなら人間には共感という力があり、その為には教養を積んでいくからだ。相手の立場、境遇、思想を完全ではなくても思い巡らす。時には議論をして自らの思想をブラッシュアップする。これからの国際社会ではよりそういった力が必要になる。

 

確かに今は都内で曲がる時に同時にウィンカーを出す車はある意味普通になった感がある。バイクや自転車、その他の車両のスムーズな進行の為に出す必要のあるウィンカー。その意義は自らが捕まらない(法律的にはダメなのだが)為に出すモノになってしまった。歩きタバコ、公園タバコも同じ。目の前の他人に気を使う事が出来ない社会が当たり前になりつつある中、自殺という手段を選んだ絶望者の事など考えられるわけがない。そういった社会の構成員達から発言されるのが「逃げる勇気」という無責任な発言なんだ。逃げてどうするのか?その後どうするのか?東大生というだけで手放しで「すごい」という社会だ。40代で無職だと「クズ」と言われる社会だ。ほんの一部の成功者の例をとって学校など行かないでも成功できる人は・・・、というは更に無責任だ。「逃げる勇気」というのであれば、義務教育を家でも取得できるようなフリースクールを法律的に実現する社会作りをする等、しっかい社会保障基盤を作ってから言う言葉だ。それが構成員として義務でもある。もちろん、日本社会はそんな義務を果たす人達はほぼいない。それが保育園の例。

 

この文章が自殺を考えている学生が見る可能性はゼロだと思うが、そんな無責任な人達=社会でもあるが、それだけではない、という事はやはり言っておきたい。テレビは戦中も戦後、今現在も民衆に対して強大な力を有していて、それに左右されるのが民衆=社会でもあるが、それだけではない。この清濁の融合が社会である事は感じるのはやはり経験が必要でそれは年齢に関係無い。人柄、人物の良さ等が年齢に比例しない事はもはや周知の事実だ。そういった社会を見てから判断しても悪くないかもしれない。

指原莉乃の「お客さんのやさしさに涙が出た」、というお話

先日、トーク番組で指原莉乃がブスかどうか、という議論をするコーナーで、指原莉乃がいつものようにブスいじりをされている最中に突然泣き出してしまった。今まで散々ブスいじりをされてきた彼女がなぜこのタイミングで?と思ったが、その後の説明で納得した。それはホリケンにブス呼ばわりを何度もされている中、観覧客の女性たちが「ええ~!」とホリケンを批判する(指原莉乃を擁護する)声を何度も上げた事によるやさしさに涙が出た、というのだ。

 

彼女の真意はわからないが、私的には単純に深いコンプレックスを抱えている人がそれを押し殺して頑張っていて、それを擁護された事によって今まで我慢してきたモノが噴出してしまった、という見方以外の話をしたい。多分、ここまでは彼女がツイッターで言っている「女的な部分」と一般的な見方かと思う。ただ、そんな一つだけの思いで人間の精神は構成されているわけではなく、複雑な思想、経験等の集大成が人の行動には現れるからだ。

 

メディアタレントは自分自身を商品としている。プライベートも切り売りする必要がある人もいる。そういった人達は自分も他人も人間としてだけでなく、商品として客観的に見る力がそれなりに必要になり、それは人間を器としていの「モノ」と考える事が出来る能力でもある。もちろん、人間には制御しきれない感情という厄介なモノや、今まで生きてきた価値観がバイアスとして精神を支配している。なかなかすべてを客観視出来るものではない。しかし、努力や経験を重ねる事でその境地に近づく事は出来るようになる。

 

例えば、人間をデッサン人形のような基礎のような存在として平坦に見る。そうすると、その誰でも変わらない基礎土台に肉付きとして様々なモノが付いて行く。Aさんという人形はネットで匿名で誹謗中傷をしている事を知ったとする。それはAさん人形が右手に包丁を持っているだけであり、人形としての土台はBさんと大して変わらない。すべては要素であり、人間性などは対して差が無いように見えてくる。

 

もちろん、実際はそこまで単純なものではない。ただ、こうした見方で人間を捉えるようになると、その人の言動等は結果論で見るようになってくる。なぜなら、言うだけなら誰でも出来る、つまりすべて同じ人形土台レベルだから。その人の瑣末な情報に惑わされる事が無くなっていく。極端に例えればトランプ氏のような発言をするCさん、Dさんに会ったとして、同じ発言内容でもくっきりと違いを見極めるような人間の見方になってくる。それも結局、人間という存在の根底の基礎はくだらないほぼ同じような、ずるく弱い存在である、というのがあるからだ。

 

そういう見方が出来るようになると人の悪意に敏感になる一方、その悪意への耐性が出来るようになる。なぜなら自分と相手は同じ人間であり、悪意というのはどの人間でも持っている構成要素の一部であるからだ。それが自分に向かって害になった時に、感情として「ムカつく」「許せない」というのはどうしても消しきれないだろうが、それも人間として当然の事。そして当然、善意にも敏感になる。

 

聖人君子など存在せず、悪意の無い人など存在しない事がわかった以上、人はどこかで誰かを意図的に、無意識に傷つけている。そんな存在の人間から、意図せず流れだす善意。それを感じた時に感動が出来るようになる。これを感じるように成ることは自分が経験した事、感じた事の隣接体験以外の事でも泣けたり、怒ったり出来るようになる。「歳をとったからか、わけもなく泣けるようになった」には漠然とした残りの人生への恐怖等のバイアスによるものもあるが、実は人間への見方が変わった事による感性の変化による事もあるのだ。

 

指原莉乃をブスいじりをする。スタジオスタッフ、観覧客共々笑う。それはバラエティーとして正しい。それが社会的に是か非か、と問われれば非であるべきではあるが今の日本社会は一般人でも外見で人を差別する社会だ。それを特別視する職業がタレントである以上、現状仕方がない部分でもある。そんな正論はわかっている中、特に他人の外見に厳しい(自分の事は置いておいて)、若い女性だけで構成された観客がブスいじりに対して「非」の態度を表した。もちろん、彼女達のほとんどが普段他人の外見をバカにして、時にはネットで悪口を書いているかもしれない。そんな事はどうでもよくて、あの場の雰囲気では集団同調で指原莉乃の外見いじりに対して非難を意思を出した。その時点で外見いじりは単純な悪口なってしまい、バラエティーとしては成立しない。誰発生なのかわからない。同調性があるから。その信念の無い単純な善意(善意かどうかもわからない)に敏感に感じて涙が出る、という事は人を同列として見ていれば多分にある事なのだ。ふっと街で見かけた子供がお母さんを気遣ったシーンで涙が出るのと同じ。事実関係も実は家庭内ではDVがあるかもしれない。そんな事ではなく、ほんの少し溢れた善意。そこに感動をしてしまうのだ。

 

もちろん、テレビというのはエンターテイメントショウ。すべてが台本通り、という事もありえる。しかしそれであったとしても人の善意の噴出部分のみを指し値なく感じて感動する、という事は素直に重要な事でもあると思う。

 

人間の悪意、善意。ふっと出るやさしさと同様に意識しない悪意によって他人も傷つける。なるべくやさしさの方が出る事ができよう、自分の人間性も客観視していきたいものだ。

 

 

平子理沙さんのブログ炎上犯人のお話で

lineblog.me

簡単に言えばたった6人ほどの仕業だった、というお話。

 

私からするとまったく不思議な事はなくてそうだろうなぁ、としか思わないし、なおかつ、この現状は法律が出来ようが変わらないと断言出来る。

というのも、反社会的行動を取る人間は必ず一定の割合で存在し、法律、ルール等はこういった少数のサイコパス的人間の為に作られて、普通の生活をする人間が不都合を強いられるのが日本社会だからだ。

例えば路上喫煙。私が住んでいる区は歩きタバコ禁止なのだが、特に法律施行前後でその数が減っていない。特に早朝深夜は酷い。近所の大きな公園には犬のリード離し禁止の景観を損なう程のでかい看板が出来たが、未だにリードを話して散歩する人間の割合はそんなに変わらない。その公園は園内禁煙のお達しが出たが、もちろん喫煙者は守らない。自転車の安全義務違反も同じだ。こういったそもそもマナーレベルの問題が法律になった所で、そういった法律が出来る元となった人間達は守らないのだ。これは日本人特有(日本社会)の問題だと思っている。

 

それは「民主主義=多数決」と勘違いしている人間の多さとも似ている。個人主義というのは自分の権利を主張するがその分、他人の事も尊重する。個人の権利であり義務でもある。しかし日本では個人の権利に対して義務に対する教育が無かった。そう、個人の尊重ではなく集団の意思(集団行動)をメインとしてしまったのだ。これはその方が教育者、為政者等が下の者達を従わせるのに楽であり、それに対して思考停止で従ってきた人達の問題。その結果、社会を敵には回さないが少数の人を嫌な思いにさせる事をなんとも思わない社会が出来上がったのだ。

これは法律、マナー、ルールを破る人達に限った事ではない。これらを曲解、もしくは自分の好きに解釈を変えて行動する人達の多さたるや。

 

例えば観光地で「立ち入り禁止」の看板がある場所があったとする。海外先進国でこのような場所に入る人がいた場合、周囲から非難の目が飛び、怒声を浴びせられる事もある。しかし日本では1人、2人追随すると多くの人が看板を無視する。

何度も言っているが、戸建ての人が路上手前の自宅駐車場でタバコを吸う。大人のイジメ、パワハラも無くなる事はない。学生の運動部校外練習では指導者自らルールを破る。

すべては少数を無視する、つまり人数によって自らが考える正義の振り幅が変わるのだ。わかりやすい例で言えば、路上喫煙地区の早朝深夜が喫煙率が高いというよりも、駅前では吸わず、住宅街に入った途端に吸い始める人のように。こんな民度の国が先進国の文化のわけがない。

たった1人の他人であっても人間として尊重する。そうした事が本来の法律やマナー、ルールの趣旨であって、自分が罰せられなかったら何をしてもいい、というわけではないのだ。この根本的な考え方が特に大衆には欠けていて、もちろん、その文化は子供にも伝播していく。

 

日本が社会面でも先進国になる日は来るのか。底辺層から社会を見ると、どうもそうは思えない。ブログ炎上事件の実態は日本社会の闇でも何でもない。これが日本社会の実態であり、日本人の特性なのだ。では好転させるにはどうしたらいいか。今からでも遅くない。自分勝手な老人達はもう仕方がない。彼らはそういう世代に生まれ育ってしまったのだから。しかしネットを駆使出来る世代の人達から、そうした社会を変える為には「自分を尊重しているのと同じように他人も尊重する」という民主主義の当たり前の事を日常で実践していけばいい。たったそれだけ。

幸せではない底辺層中年こそ、閃光少女のPVを見るべき

東京事変に「閃光少女」という曲があって、これはCDではなくDVD映像のみでリリースされた。それが最近映画「ちはやふる」関係のアルバムに収録されていた事で久しぶりに映像を見なおしてみた。オンタイムで見た時の感動はそのままだった。問題は何に感動したのか、という事だ。

 

映像は2人の美少女が踊っている。それは椎名林檎の歌詞とあいまって、いかにも閃光少女が文字通り、若い人向けの内容のように思えるかもしれない。しかし、当時も今も、私からすれば若い時のようなハラハラ感、疾走感、今を生きている感というのをしっかり自分への叱咤激励として受け止めて感動しているのだ。

つい最近、結婚して子供がいる私と年代の違う人が「30代になると自分にプレッシャーを与えるような事が無くなるじゃないですか、だから云々」と言っていて「ハイハイ」と聞いていたが、私は30代の時であっても自分増々強いプレッシャーを与えてチャレンジしていた。そして今でも不安定で未来も無いがそれでも未来を作る為に足掻こうと色々画策している。行動している。それはなぜか。幸せな事が何一つないからだ。家族もいなければ恋人もいない。いわゆる他人からすべれば無の存在。そんな社会から孤立した中年だからこそ、自らの幸せは自分で決め、その為には刺激、プレッシャーを与え続ける必要があると思うのだ。

成長過程のアイドルや萌アニメを応援して自分自身が疎かにになる中年は今がそれなりに幸せで、自分が出来ない事を他人に投影している。「もう自分はこんな歳だからチャレンジ出来ないけど、彼女達は・・・」的な。そんな発想でアイドルを応援している全ての孤独な中年は「閃光少女」のPVを見て、あの画面の少女と歌詞は自分の事を描いている、と思った方がより成長できるのではないか、と思う。

年齢なんて関係ない。自分の可能性を自分で閉じる必要はない。どうせ日本は年齢で人を判断し人格否定する社会だ。そこに自己否定が加わると中々ぬけ出すのは難しい。

 

だから未来なんて関係ない。今を生きる。五感を研ぎ澄まして。立ち上がるのだ、孤独な中年よ。

 

なんてね。

 

これが本当の中年の底辺生活なのね。

結婚も出来ない(もしくは子持ち)、貯金も無い中年関係の話がネットに出ると

・自分は◯◯円/月で生活出来ているから貯金が出来ないなんて信じられない

・余暇なんかに金使うからだ

エンゲル係数高すぎる

など批判的なコメントが多い。果たして実際はどんなのだろうか。

 

で、1ヶ月、週五のアルバイトをやってみた。アルバイト代は東京都の最低賃金。ていうか、現在の最低賃金を把握していなかった。自分が大学生の頃と比べるとかなりあがて907円。しかし、アルバイトの時給平均は変わっていないという。所謂格差社会。まずそんな事から勉強だった。

で、実際1ヶ月ヘトヘトになるほど最低賃金で働いて。手取りはたったの10万ちょっと。家賃光熱費を払って通信費、保険、住民税を払ったらほぼ食費ぐらいしか残らないのだ。

おお、これが底辺の生活。なんという事でしょう。こんな中で子供でもいた日には、そりゃ月たった数万円でも子供手当が無いとやってられないという気持ちがよ~くわかった。なおかつ、服装で大体その人の年収がわかるという事の裏取りがしっかり出来た。この収入だと服に金を使う余裕などまったく無い。そりゃ、単身者なら出会いの場に行く交際費だって捻出出来ないわけで、そりゃ結婚出来ないわ。よく収入が低いと結婚出来ないという話の時に、テレビ出演者のアッパーな批評家、著述家、コメンテーター等はその理由を

・結婚後の(幸せな)生活の維持が想像出来ない為

に集約しがちだが、それはまったくの間違いだとよくわかった。未来の想像をして現実の決断をするような発展的思考の人間が底辺層にはほぼいないのだ。今の生活が一杯一杯で、他人と出会う事が単純に出来ないのだ。結婚も恋愛も誰もがしたくて堪らない状態なのに。

 

何事も経験だなぁ、と思うがこの経験が活かす場所が無い事にも気付いた。というのも底辺層相手の商売は社会の為にはなっても金にはならないからだ。企業も見向きもしないからスポンサードも難しい。そして今後の日本の社会情勢、政治政策を見る限り、こういった層は増えていくだろう。

 

さて、どうしようかな。