底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

紅白でのレインボーフラッグが注目浴びたけど。真の浸透は難しいというお話

先のエントリーのヘイトともかぶるお話なんだけど。

LGBT(今は更に頭文字加わったパターンがあるけど、ここではこれで)に対する差別を止めよう、という世界の流れ。日本では現在マツコ・デラックスも活躍しているし、意外と早く「私は別に差別しないよ」という声が世間でも聞かれるようになっているのよね。でも、ここには日本独特の建前と本音がございます。というのも、

「差別しない」

という人は自分の周囲に実際に該当者がいないのを前提としている事が多いのよね。要は表面的に自分は世界最先端の考えをもっている、というアピールの方が優先、もしくは当事者意識が無いから言える事。これは日本人独特な感覚。例えば・・・

ど田舎に住む白人男性。村おこしで古民家を修理して民泊をして稼ぐ。周囲の人も最初は遠ざけていたけど次第に仲良くなって・・・。

よく聞く話だ。しかし、これが中年の一人男性だとどうだろう。または黒人男性だとどうだろう。村八分に合う確率の方が高い。いやいや、中年になってから田舎移住でうまくいっている独り身の芸能人もいる、という話もよくきく。それも芸能人だからだ。

夫婦別姓の選択の自由さえも認めない差別意識が強い国民性という事をしっかり理解すれば横軸でわかるはずなのに、なぜか点で見ると「田舎っていいなぁ」となったりする。移住募集要件に「結婚している40歳以下」とかいう差別的な選択があるのが普通だったりする地域なのに。

そういう民族性を考えれば、LGBTのムーブメントを受け入れる事自体は簡単。しかし、権利を与えるか、となると別。マツコ・デラックスが受け入れられているのは外見も含めて非日常感が強いからだ。これが今までヘテロセクシュアルと思っていたイケメン系芸能人がホモセクシャルとカミングアウトしたらCM契約がどうなるかわからない。ファンは知っているので受け入れるとは思うが。なので、

LGBTの問題、同性婚問題の前に、夫婦別姓等の非日常と思っていない事柄の多様性を認めてから、という順番にならないと差別が根付いた社会意識は変わらないのではないか、と。

まあ、様々な社会の人がいる場に意識的に行かないと多種多様な人とは出会えないのでなかなか視野を広げたり、当事者意識を持つのは難しいとは思うのだけれど。

日本のヘイトを少なくするのは本当は簡単だけど難しい。

水原希子さん等、最近芸能人や公人が日本でのヘイト問題をSNSで発信する事が増えた。悲しい事だ、無くしていこうって。日本でなぜヘイトが起きるのだろうか?

ヨーロッパやアメリカでのヘイトは根深い。そこには「直接」実害(移民により職ば奪われ、住居が奪われる)と感じる人や、歴史、宗教が絡んだりする。無宗教がマジョリティーの日本では宗教というのが人間が生きる上での心の指針、支えである重要性がわからない人が多い。つまり、日本人は信念をもって(言い換えれば根っこから)ヘイトになる理由が無いのだ。

以前、大会社のアッパー層はヘイトにならない。なぜなら彼らは効率的に考える事が出来るため、ヘイトは経済的に無駄でしかないからだ、というツイが回ってきた事があった。これは想像論であり本当の社会を見えていないとしか思えない。もしくは高所得層サラリーマンの知人がいないか。実はアッパー層でもサラリーマンで中年になってくると急にヘイト(ネトウヨ)になることはあって、格段不思議でも無いのだ。ここに日本版ヘイトのヒントがある。

 

竹島とか、不買運動とか。そんな自分に直接実害の無い事でもし日本人の多くが怒りに震えるような社会愛があるのであれば今の日本は痴漢も無ければ年々女性の地位向上ランキングが下がったりしない。つまり、これらは口実であり、その人の人間としての社会性に基づいた怒り、理屈ではない。

答えは簡単。自分の人間性の尊厳を傷付けられている人達がその憂さ晴らし(怒りの矛先)をヘイトにしているのだ。

貧困。学歴。年齢。性別。自分の人間性や経験関係無く差別をするのが日本社会だ。面接さえもしてもらえなかったり、見下されたり。そんな中情報だけ入ってきて得をしている人達がいる、という事だけ知る。しかし、そんな日本社会を変えようとは思わない。なぜならそれを支持する側の方が多い=強者側であり、そこに対抗する事が出来ないから現在の自分があるからだ。大会社であっても40代後半になると急に邪魔もの扱いされる事があり、まあ、それは自分の努力が足りない部分もあるのだが、年齢差別の部分も否めない。

人と社会に傷付けられ、人間の尊厳をボディーブローのようにそがれて生活している人達はその理不尽さを理解する事が出来ず悶々とする。その鬱憤は出さないと自分が壊れてしまう。人間に奪われた気持ちは人間でしか補えない。自分がやられている事を他人にして自身の尊厳を保ちたい。その矛先がヘイト。なのでヘイトの方たちと話をするとネットで拾ったような理屈ばっかりで外国のような直接実害がない事が多いのだ。なので信念とは程遠く、矛盾だらけの理屈になる。本人の生き方として。

 

だから、ヘイトを止めよう、なんていう訴えは何の意味も無い。日本社会の個々の人間性を無視するあらゆる差別の歪を改善しようせず、大多数=正義、と為政者達が楽をしてきた結果が今となって噴出しているのだ。

年齢差別や高収入技能派遣以外の派遣の中止等、細かく丁寧に人間が人間を搾取し見下すシステムを無くしていく。それがヘイトを減らす一番の薬。

 

ただ、それが難しい。

伊藤詩織さん事件の事をハニートラップと言う人

交渉事のビジネスをしたことが無いのかなぁ、と思うのよ。下請け等の弱い立場として。

会議で決まった事を議事録で関係者全員に送ったとしても「見ていない」って言って変更を強要するクライアントもいるのよ。金を払う立場だから強い。とはいえ、そんな要求をただで受けまくっていたらプロジェクトが赤になってしまう。そこで上司はしっかり交渉しないとならない。腹を割って。そしてお互いの為にレコーダーで会議を録音したりする等の決め事の証拠を残すようにする。会社のプロジェクトだったここまでするのだ。

吉本興業の宮迫氏の反社会的勢力との問題を思い出して欲しい。会議室で吉本の社長は「お前ら、録音とかしていないよな」と確認してから話した。ビジネスとはそういうモノなのだ。ただ、芸人はそういう交渉をした事が無いから信頼とか昔からの恩義とか言ったりする。同じような事が出来るのが現在流行っている就活セクハラだ。学生もまだ人間がそこまで醜悪だと知らない事が多く、先輩の言う事を聞いていたらレイプされてしまった、しかも客観的な証拠を残していないという事もあるし、問題を起こしたら自分がその後どこにも就職出来ないかも、という事で泣き寝入りという事になりがち。

 

では伊藤詩織さんの例はどうだろうか。彼女はアメリカの就職が決まっていた程の優秀な社会人であるだけでなく、個人事業主として独立出来る程の能力がある人だ。結果にコミットする為にあらゆるシュミレーションをして準備する。それが自身でハニートラップをしかけるのであれば、あらかじめレコーダーだけでなく、プロのフォロワーも用意して後追いさせて客観的な証拠を確保して交渉して求める結果を得るだろう。それが仕事(ハニートラップ)求める結果だからだ。これは東国原氏がひっかかったようなハニートラップとは違う。政治家や権力者を立場から引きずり落とすには実際の行為は必要無く、噂となる行動があればいいだけ。疑わしくは世間の評判。なので二人っきりでホテルの部屋で2時間お話さえ出来れば入り出の時間がわかる客観的証拠があればそれでいい。しかし、今回はそういうお話ではない。山口氏を引きずり降ろす事によって彼女が得るモノが無い。なので、やはり彼女には自分の身体を使うリスク相応のメリットが必要となる。

 

今言論のリーダーとしての確固たる立場になっているじゃないか、これが目的だ、という人もいるかもしれないがそれにしてもそれを仕掛けるのであれば刑事でも民事でも勝てる証拠が無いのは仕事としてお粗末でビジネスマンではない学生や芸人レベルだ。その状況で刑事事件にならず民事で今のようになって、その後控訴もされる。その間も世間知らずの人達や男性優位社会に慣れきった人達からの今後もずっと酷い誹謗中傷を受け続けるわけだ。顔もバレているから日本で気軽に食事も出来ない。そんなリスクまでシュミレーションした上でハニートラップをしかけて得られるメリットってなんだろうか。

つまり、伊藤詩織さんがハニートラップを仕掛けたのだ、と主張する人はそんなデメリットまで想定した上で今の状況とその後明るい未来がある(儲けて有名人になれる等)と彼女が考えて行動した、と言っているのだ。なのにも関わらず確固たる証拠が無いと?私が彼女ならプロのフォロワー(追跡者)に決定的な写真を撮らせ、その人は偶然ホテルにいた等の嘘を付かせる。録音機も複数用意して常時録音しておく。難しい話だから聞き逃さないように用意した等いくらでも嘘つける。

 

今の伊藤詩織さんの置かれた立場、状況は彼女がコントロール出来る範囲を越えている。それは彼女がハニートラップという戦術を選んだ結果だとしたらあまりにも稚拙。いうなれば、素人が美人局で金を巻き上げようとしたらあまりにも証拠がなさすぎて逆に脅迫で訴えられて逮捕されるようなレベル。そしてもっと言えば、山口氏とは安倍総理とも仲の良い大物。ここにいきなり本番を持ってくるような事だってしない。事前に同じようなハニートラップを別の人で行い、それによっていい結果を得たという成功体験が必要だ。そしてその時の実践を問題点を潰していよいよ山口氏、とトラップをかけるのがビジネスとしての筋。

 

つまり、現実の仕事としてフリーランスがハニートラップを戦術として取り入れたにしては結果があまりにもアンコントロールかつ稚拙なのだ。

 

となると、必然的にハニートラップ説は消える。それだけの話。他人を誹謗中傷する前にもっと社会を勉強して欲しい。

暴力での支配の意味を知っていない人達の多さ

第二次大戦中の上官で部下を事ある毎に鉄拳制裁を加えていた人が多い。これによって若者たちは「自分たちが悪い」と洗脳された。こういうエピソードは有名で、一般的にも「だから体罰はだめだよねぇ」という話になるが、中には「時には体罰も必要」という人もいて。そういう人は体罰=暴力を考えていなくて、自分が悪い事(盗み等)をしているのでまあ、罰として当たり前だなぁ、と思っている人もいて。そしてこの暴力と同じ効果を生む日本の教育に連帯責任というのがある。チームや同じ立場の人間が全員罰を受けるというものだ。

 

この時の「痛み」がポイントで、痛い事は誰だって嫌だ。そこに連帯責任が入ってくると「理不尽」という事もプラスされる。体罰の時点で理不尽と思う人もいる。この痛みを感じるのは確かに痛覚ではあるが、それは脳に記憶されて嫌な事となる。つまり、素早く相手の脳に防御反応を与える事ができるのが暴力(体罰)であり、認識していなくてもその痛みと不快は脳に刻まれる事で、例えば何度もビンタをくらった人はビンタをするような人じゃない人がフリをするだけでビクッと勝手に体が防御反応してしまう。

ここでのポイントは結局暴力(体罰)の痛覚と精神的苦痛を「脳」が覚えている、という事。この事さえわかっていれば、同じ事を暴力(体罰)を用いないでも出来る。それがパワハラモラハラだ。脳に直接言葉や態度、仕組みでダメージを与える事が出来るサイコパス性のある人が使う手段。そして、戦中でも使っていた「連帯責任」というやり方も残っている。連帯責任とは受ける側は少なくとも理不尽に感じる。まったく理論的ではないからだ。つまり、結局精神が不快に感じる。

 

さて、問題はこの後。脳への暴力(体罰)は言葉や仕組み(連帯責任等)、環境で作れる事がわかった。では、どのように言うことを聞かせる(洗脳)ように日本ではしていくのだろうか。それはとても簡単なプロセス。

ステップ①

受ける側が恐怖を感じる→次のステップへ

恐怖よりも理不尽を感じる→次のステップへ

ステップ②

上記2つはどちらも脳が嫌な事だ。この嫌な事を受けたのは自分が悪いからだ、ということを徹底する。納得しない人には人格否定や世間論、過去の過ち等総動員して攻め込む。完璧な人間など存在しないので、必ず何か一つは組織にとって不都合な部分は人間はある。そこを突くのだ。それでも負けじと同じ熱量で反論(反撃)できればこの洗脳から脱する事が出来るのだが、大概は上下関係があり反抗出来ない状態だったりするのでやっかいだ。

ステップ③

多くはこの時点で自分が悪い(もしくは自分がうまくやれなかった)と思ってしまう。なので自分を修正してこんな嫌な思いをしないように、と考えてしまう。相手だって悪い、と理不尽さを抱えて思い続けている少数はこの時点で組織からドロップアウトするか自殺してしまう。そして

ステップ④

ムチだけでは人は付いてこない。ここに自尊心をくすぐるような相対的評価を与える事で洗脳を強固にする。例えば、(連帯責任後)同じ同期の中でキミは頑張ったからちょっと出世、とか。それを見た同列の人達は同じ行動だったはずの人間が取り出される事によって自己の尊厳を傷付けられ、更にがんばるようになる。ここで頑張らない人間はステップ②を徹底され、鬱になったり自殺したりする。

 

簡単ではあるがこういう洗脳を大日本帝国軍隊は行っていて、同じ事が日本社会の様々な所で起きている。しかし、人の精神を追い込むわざ、という事に無頓着な人達とそれを熟知している為政者との溝が埋まらない限りこれらの手法が減る事は無い。つまり、パワハラモラハラも無くならない。教育現場で連帯責任という手法が未だに取られている時点で洗脳社会を変えようとする意思が教育者でも無いわけで、上司等権力を持つマジョリティーからすればこんな便利な手法はない。

 

近代国家の中で日本が異常にパワハラモラハラ等が多い国なのはこういった手段は幅広い階層の人達が自分たちよりも弱い立場の人に用いるからだろう。移民等多国籍が当たり前の国だとステップ①、ステップ④が効果的に働きにくい。なので別の手段で支配せざる負えなくて、それが賃金等の金という共通言語だったりもする。

 

なんでこんな事を今更書くかというと、最近言葉の暴力、組織的な排除等が過ぎるなぁ、と思ったからだ。この1年は特にひどくなった気がする。日本が組織の論理から個の人間の尊厳、尊重へとシフトして戦後が終わるのはいつの事になるのだろうか。

まるで神風特攻隊の時の社会風土となんら変わらないような気がする。

 

 

 

 

二次創作物への批判じゃなくて。共感の問題。その2

日本のような同調圧力が強く、多数の世論=正論だと信じている人間が多い社会では共感力が生まれるはずもない。それがよくわかる事案として先の献血ポスター問題がいまだにネットでは収束していない事がある。

 

・二次創作物への批判はおかしい

・実際の犯罪との相関関係があるのか?

 

これが2大主張だ。その点に関して論じる必要はまったくないと感じる。というのも、こういう主張をする人はあのポスターを含め、女性の体を性的対象物をする創造物が広く一般大衆の目に触れる苦痛と自己否定感をそもそも理解していないし、理解しようとしていないからだ。

以前のエントリーで書いた事の重複を避けると、まず、あのポスターを不快に思う人全員が自分が不快に思う根底の理由をすべてさらけ出す事が出来ない、という事。また、だれもが自分の考えを正確に言語化して表現する事ができるわけじゃない、という事。なので表現的に二次創作物への批判のように見えるようになってしまう事もある。

 

この性的な不快感、嫌悪感というのを正確に未知の他人に伝えるのは非常に難しい。言いたくもない自分の過去の性犯罪を語って理論的に説明しても、性犯罪被害者の気持ちを考えるどころかむしろ責める人もいるぐらいだし、誰もが目を背けるような性犯罪事案だけではなく、細かい性差別による蓄積による事もあるので、より理論的な言語化は難しい。

 

もちろん、本来こんな事は常日頃広く社会を見ていれば想像に難くない。自分が二次創作物が好きで興味がある社会だけを見ていてはずっと感性は磨かれない。その昔、子供というのは生活圏内が狭いために視野が狭く見識が浅いが、大人になるという事は生活圏が広がり、様々な社会に触れて見識が深くなるものとされていた。しかし、現在は格差社会になり、大人になっても触れる社会の景色が本人が努力をしない広がらない。しかもスマホ文化になり、昔な空き時間に目に自然と入る社会の光景や事案をゲームやSNSに没頭する事で自分の好きな事柄だけに囲まれる事が可能になった。つまり、年齢的に大人になる事=精神的に子供のまま、見識的に子供のままでいる事が可能になったのだ。

 

この収まらない献血ポスター問題はそうした社会の変化を表していると感じる。

心を痛めている人に直接さらに傷つける言葉を送る人達の多さを見ると、あなたのそこまで信念の無い憂さ晴らしのために自分と同じ人生を送っている人間に深くダメージを与える事の正当性があるのかどうか。小学校の教室内のような正義感にかられているのはわかるのだが、大人の人間としての共感力を発揮してもらいたいものだ。

沢尻エリカさんの麻薬事件で改めて思う事

以下敬省略。

日本ってなんでこんなに麻薬使用者に対して厳しいのかしら?という事。痴漢やパワハラ、セクハラや喫煙などの直接他人に害を及ぼす事に関してはOECD内で類を見ない程寛容なのに。麻薬使用は個人の問題なのに。最近で言えば環境セクハラで他人を不快にさせる行為にも寛容な人達が出てきているのに。

よく言われるのが「バレたらまわりに迷惑をかける」という話。それは2次被害。しかし、それを重視するなら先の直接他人に被害を与える行為はなぜ寛容なのか。理屈が通らない。

法律で決まっている、というのであれば今回の沢尻エリカさんは陰性だったので使用者である証拠はない。彼女の家に出入りしている本当の使用者をかばって(その人は常習者で有名な公人とか)いる、という想像さえ出来る。まあ、それはおいておいたとしても陰性なので所持の罪だけだ。であればそこまで法律的にも重罪ではない。それでも弾弓する人が多い。刑罰の重さ=罪の重さという固定観念の人であったとしたら、ここでも理屈が合わない。

 

そもそもピエール瀧にしても沢尻エリカにしても近年皆評価していたではないか。それが麻薬関係でいきなり削除という感覚。人間をゲームのキャラのように気に食わない部分があったら抹消するという感覚。そこまで今まで評価していた他人の人間性全部を否定するほどの問題なのだろうか。麻薬は。国によっては麻薬の販売は禁止だが使用に関しては刑罰化を止めた国すらある。まあ、極端な話なので今後議論が必要だとは思うが、日本ではこの議論にさえならない。麻薬=使用した人が悪、のような。

 

麻取の問題もある。有名人の使用者を何日も追っかけて逮捕。その捜査情報を逮捕後適宜流して実績とする。多分それで評価される組織体制なのだろう。麻薬使用や所持は個人の問題なので、麻取はまず麻薬販売者の摘発をする方に評価基準を置いて、使用者の逮捕の評価をぐっと下げればいいのだ。そもそも使用者が減れば販売者が減る、という机上の空論など現実には通じない。海外の麻薬系の映画を見ても、麻薬カルテルを壊滅させようとする麻取的な組織のはあっても、日本のように個人を逮捕する事にフォーカスするものは無い。個人を逮捕するのは現場の制服警官がメインだ。しかし、日本は専門組織が個人を逮捕する。これはどう考えてもおかしい。コストバランス的に考えても。

この使用者個人非難、バッシング及び社会からの抹消行為を平気で出来る社会になってしまうと(今なっているが)、個人を麻薬関係でハメれば簡単に抹消出来てしまうという事だ。以前ある女性芸能人が六本木で麻薬所持及び使用で逮捕された事が報道された。もちろん、その女性はいつものように芸能界から抹消された。しかし、その情報をリーク(販売した)とする外国人は名前も告げず、逮捕される事なくいなくなったのだ。そして実際その女性芸能人は麻薬を持っていなかったので釈放された。しかし一度イメージが悪くなると、というやつだ。

 

麻薬は販売する方が直接他人に迷惑をかける行為なわけだから、麻取はそちらを壊滅させる事にフォーカスすべきで、個人の逮捕は制服警官に任せればいいわけだ、本来。予算のかけかたと評価基準がおかしすぎるのは、簡単に評価しやすい世間インパクトを考えた評価基準を考えた上層部の問題だけでなく、むしろ上層部が麻薬組織とズブズブの関係なのでは?と勘ぐってしまうほど理屈が通っていない。

 

直接他人に迷惑をかける事を容認しない事。未だに数十年前の法律から改正されない事が多いこの国において、法律を基準とするのではなく、個人の社会への正義感としてまずはそこに基準を置くことで、麻薬犯罪は使用や所持よりも販売者の問題へとシフトし、また先の痴漢、セクハラパワハラ、タバコ等の問題もあおり運転と同様に、直接他人に迷惑をかける行為として比較出来るようになるのでは?と思うのだ。

とても簡単な基準なのだが・・・。

Chim↑Pomの「気合100連発」が話題になってますが

昔の作品だけどね。例の「表現の不自由展・その後」に展示されたもんだから噛み付く人が出たみたい。復興に取り組む若者6人とメンバーで円陣を組んでアドリブで叫んでいく。問題は後半で

被爆最高!」「放射能最高!」

的な叫びがあり、最後は

放射能最高じゃないよ」「ふざけんな!」

で締めくくる。

 

映像作品は映像を使うだけに現代アートが主であり、解釈が難解なモノが多い。なので作品をどう感じるか、というのが大事になる。まったくわからなければそれは自分の人生で培った感性と合わなかったという事。この作品を批判した人に対して津田大介氏はこの作品は

「『原発事故の被害者が、自身の不安を断ち切るための叫び』」

と説明している。

 

ネットで前編を見る事が出来ないのだが、一部を見た感想を言うと。

気合100連発。アドリブでまるで山手線ゲームのようにテンポ良く、間髪入れずに自身の願望や未来の希望、自身の葛藤等を叫ぶのだが、具体的な事は長く続かない。だんだん単純化していく。実際に被災して復興を手伝っている若者もチンポムメンバーもくだらない(失礼!)、単純な内容になっていく。

これは人間というのは生活をしている中で優先的に大事に思っている事、解決したいと思っている事柄はそんなに多く無い、という事だと思う。一日24時時。処理能力には限界があるわけだし。瓦礫の山を前にして円陣を組んでも、だ。考える事ができる範囲は限られているのだ。ましてやまだ社会経験の少ない若者達だ。目の前の事に一生懸命というと聞こえがいいか。そんな被災地の彼らの叫びにチンポムメンバーが賛同し、内容のレベルを合わせる事で見た目は「被害者が自身の不安を断ち切るための叫び」っぽくなる。

ここでチンポムが仕掛ける。それが問題になっている言葉だ。誰が叫んでいるか特定出来ないが、次々と原発事故系を煽る言葉が発せられる。

この転調は面白い。一般人がしたいこと、気になることが出尽くした後にすっと原発称賛と同義的な発言を入れてきた。これは現実の社会そのものの縮図だ。被害者の若者の叫びと比べて、原発を誘致してきた人達の叫びは何が先に来るのだろうか。実際、この事故があった後に大間原子力発電所の開発は止まっているが、中止にはなっていないし、休止中の開発について

「1日も早くやってもらわないと死んでしまう。観光客が来ない、大間には事業はない。結局、頼りは原発です」(みちのくホテル大間亭 工藤竹美会長)

という声もある。地域の既得権益に甘え、それを維持する事で衰退した地方。地元の若者の小さな夢など関係無く、地元権力者と為政者は自分たちの利益の為に原発を誘致した。それが街が活性化(新しい産業が生まれ、子供が増えて人口増)にならないとわかっているのに。

そんな悪魔の産業ツールに手を出す事は、

放射能万歳!」

と言っている事と同義だと思うのだ。実際、原発事故の可能性云々の前に、原発放射能ゴミが出る事はわかっていたり、その処分がどうなるかもわかっていなかった。

これは別に福島と関係権力者達だけを批判しているのではなく、それらをわかっていながら唯一の被爆国なくせに地方の事として原発問題を切り捨ててきた全国民に対するツケというか、自分たちがやっていた事を目の前に提示されているのだ。

経済発展と首都電力という大義名分の前に、原発が地方に作られる事に無頓着で、それらの恩恵だけを得ようとする。そして実際恩恵を得てきた人達の多さは被害者の比ではない。その恩恵を得てきた人達からすれば、「原発最高!」であり、それは「放射能万歳!」でもあるのだ。放射能被害、放射能ゴミ等の問題に目を向けないで単純に原発電力のみ最高、というの虫が良すぎる話だ。

 

しかし、希望はあった。最後には

「ふざけんな!」

瓦礫の中で自らが当事者として叫んで一致団結するからだ。

うーむー。突如地方に原発が生まれ、生活があり、それが崩壊して。そして再生。原発と社会の時間の流れがこの作品には描かれている。

 

社会の出来事で自分に関係無い事なんて無いんだな。自分も社会に参加している当事者として、何が出来るのかしら。そんな事を再度(何回目だよ)思ったし、人生は細切れの出来事、幸せや苦労の積み重ねだけども、しっかり自分で考えて選択していかないとそれらは一瞬で分断される事もある、という、民主主義の怖さも感じた。

 

というのが私の解釈。