底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

周庭さんが捕まった。民主主義を守れ!って日本人が言うか?

先のエントリーと連携して。

日本は確かに言論の自由はある。選挙権もある。しかし、自由に発言できている人がこのジャーナリズムの無い国でどれだけいるか。また、選挙率の低さ。これを民衆が平和ボケして放棄していると考えるは短略的だ。

マスクなぜするか?のエントリーのように、日本社会には既に社会に対して(他人に対して)善悪を個人で考える、という能力が失われてしまったのだ。この能力を失うように権力者、為政者達が持っていったのだ。一見自由に見えて本当の意味で自由じゃない。

なぜ日本ではジャーナリズムが無いのか。それは無料メディアであるテレビの力が強すぎて、ここに出演する人が世論を牛耳る構造が出来てしまったからだ。戦後まもなくは金が無いから仕方がない。しかし、この権力を減らす為にキー局をもっと増やして力を削ぐのが本来の政治。しかし、権力は集中させたまま。なんで今やどの局を付けても同じようなタレント、知識人ばかり=多様性が無いのだ。それはチャンスの無い社会と同じ。それを見続けている庶民はいつの間にか洗脳される。多様性が無い社会を見続けている中で多様性を認めない人間性が形成される。

選挙もそうだ。政治教育が無いと意味が無い事を考えると教育期間も考えれば団塊世代がリタイアする前、遅くとも1980年代頃から選挙権18歳への準備が必要だった。しかし、老人が多くなるまでじっと待つ。そして老人が最大&若年層が最小になった途端、世界標準に合わせる政府だ、と言わんばかりに選挙年齢を18歳に引き下げる。しかし、政治教育はしない。ダンスは必須なのに。ただ、それだけじゃ不十分。中には熱心な教師が政治教育をしてしまうかもしれない。なのでマスメディアで「子供に対して特定の政治教育は早すぎる」というクレームがあった的なニュースを当時バンバン流した。これがマスク効果。これによって「政治教育は駄目なんだな・・・」という同調圧力が生まれる。すべて権力者、為政者のコントロール通り。

 

なんでも自由だよ、あなたの選択よ。なんてフリをして実は答えが決まっている。その答えになるように世論調整されている。そしていつの間にか何も考えない社会が生まれた。これは第二次世界大戦時の日本社会とまったく同じ。ただ、大戦時は何も考えない庶民に対して、考える先駆者達がいた。なので憲兵言論統制が必要だった。この反省を戦後、為政者達は考えた。アメリカの子分である限り自分たちは儲かるし安全だが見た目上民主主義が必須。ジャーナリズムは戦中と同じだから無いし生まれないし潰せる。そんな中、東大紛争が起きる。やばい、高学歴だと気づかれる、と思っただろう。

ここでまた考え、東大=官僚への道として助成金含めて囲い込む事で政治的思想家が生まれる土壌を制圧。今やタレントへの近道としてのオマケも付けて、一見多様な道のように見えて実、集団の分断に成功している。これで高学歴の思想家は封じ込めた。

しかし、東大だけならいいが、そんな事をいちいち官僚やマスメディアがやっていてはきりがない。その実験として成功したのが学生団体「SEALDs」への一般中年達の攻撃だ。

同調圧力に慣れ、個が潰されて差別に慣れた世代。小泉内閣によって生まれた新派遣法による奴隷世代。彼らをネトウヨ化させ、現政権側に付かせて庶民で同士討ちさせるのが一番楽。そこでマスメディアと考えたのが「若い人達」という見せ方。若さは手に入らない。あんな思想(趣味でも宗教でもない)で集まる仲間もいない。そんな中年達を狙い撃ちする報道に出たのだ。これは香港デモの報道と比べるとわかりやすい。

・香港デモ・・・反対する若者達がデモ。政府側の暴行。周庭さんはピックアップしたが、基本デモ対政府。そしてなぜデモになるのか。そして経済は、と客観的に見えて民主主義視点だけで報道=中国政府が悪い、民主主義が弾圧されるという構造ありきで報道

・日本の安保デモ・・・なぜデモをするか、は描くがそれよりも「SEALDs」を描く。援護するラッパーやDJを描く。これはマスコミの常套手段で、今で言えば地方にお盆で帰る家族連れに対するインタビューと同じ。小池知事の「特別な夏」を放送した後に映像を流す。「対策をして、行動範囲に注意して・・・」。その後、「東京に帰れ!」的なニュースを流し、Go Toトラベルキャンペーンの東京除外を写し、沖縄の感染爆発のニュースを流す。何も自身で考えない癖が付いている人がこの一連を見たら中でのインタビューに応じた東京からの帰省、避暑地の家族を「こんな時期に勝手な家族だ!」と悪く見えてしまう。印象操作だ。数が少ない安保デモのニュースに入れ墨の入ったラッパーやDJプレイを写す必要があるだろうか。「かっこいい!参加しよう!」なんて少数よりも、反感を持つ方が大多数なのはバカでも想像できる。案の定、にわかネトウヨが生まれて彼らを叩いた。マスメディアの報道の大半は若者ら自体を追って安保の内容の方が少ない。見事だ。

 

これを民主主義というのだろうか。まるで特攻隊志願書にはしっかり拒否欄もあったから強制ではない、という言い分に似ている。これは無言の強制であったが、今はその強制が気づかれないように「無関心」「多=正義」での支配が続く。

 

マスクでの世論調査でその事に気がついてほしいのだが。それを知れば日本が民主主義ではない事に気がつくと思うのだが。

 

マスクを付ける理由第一位は44%、他人の目

報道などでは

・この同調を利用する事でコロナ感染を防げている

・しかし、同調圧力になると行き難い社会になる

などという。問題はそこではない。日本社会が自分で物事の善悪を考えない「癖」が付いているという事。だから若い人達の小さなDJバーなどのイベントではほぼ全員知り合いみたいなもんだからマスクをしない人達が多い。マスクはウィルスを防ぐ事は出来ないが、自分の飛沫をなるべく(完全ではない)飛ばさないようにする、という事を理解した上で、

・他人や店に迷惑をかけないようにするか(自己の善悪の判断)

・仲間しかいないから気にしない(都合解釈。善悪の判断は保留もしくは思考停止)

になる。この解釈だと色々説明が付く。善悪など判断せず、考えず、「皆がやっている」「皆がいない」が唯一の行動の判断基準という日本社会の考え方だ。庶民の行動にそれは現れる。

善悪の判断が出来ない例

・多くの著名人が自殺されてもSNSでの直接誹謗中傷が止まらない→加害者は社会ではモデルケースの人生を送っている人が多い。周囲の目が無ければ善悪の見境が無くなる

・減らないBBQ等での不法投棄、その他無人キャンプ上、公園での破壊行為→周囲の目が無ければ善悪の基準が無い、欲望の爆発

・早朝夜、もしくは路地に入った途端に路上喫煙する→人の目が少なければいいという、法律の意味を考える事を放棄

・年齢や性別等の差別→そのコミュニティーで力あるクラスターが人を見下す事をなんとも思わない→マジョリティー=目であり、善悪など考えない

 

これはマスメディアや学校、家庭が一定の正解を与える社会を形成している弊害だと考えている。昭和の時代から変わらない、いや、第二次世界大戦時と変わらないやり方。学校や家庭で学ぶ最初の理不尽は多分、物事を深く議論するのではなく、とりあえず暴力はだめ、だろう。戦争は暴力ではあるが侵略の罪に問われるようになったのは近年だ。しかし、そこに加入していない国もある。ならば個人同士でも言葉足らずの子供が喧嘩した時に手が出る事もあろう。それはそれで別に話をするとして、まずは紛争解決の為の真相究明などされた記憶がない。マスメディアでは未だに「今どき男子」「なんとかガール」などと決めつける。SNSではバズる為に皆と同じ事をする若い人がわんさかいる。思考停止。人はそれぞれ多様性があるのに、それは表立って出る事は認められない事と同意。そこで影で押さえつけらた「無視されている自分」が影を暗躍する。そこは暴発であり善悪の判断基準が無い。

SNSでの誹謗中傷→個の憂さ晴らし。スルースキルが無い人間の方が悪い、有名税だ、という非論理的なエクスキューズ付き

・減らないマナー違反→そこの集団すべてが悪事を積極的受け入れる確率は低い。共感は悪事についてではなく、他人の目がない所で自由にしたい、する、という個の暴走

・差別→認識していようがいまいが、自身の人間性も否定されている社会の中で他にも公平性としてそれを求める権利がある、と勘違いしている無視されている個に対する慰め(皆そうなんだから。そして、自分もそうだから)

 

なんか残念。周庭(アグネス・チョウ)さんと違って日本では言論の自由が認められているし、選挙権もあるのにね。自分たちで政府と権力者(マスコミ、資産家資本家)を頂点とする封建社会を作っちゃってる。それがトリクルダウンして庶民レベルでも車を乗っている人のあおり運転(車の動力=力)、カスハラ(怒鳴る=力)等、力を勘違いして弱者を虐げる。

 

悲しいね。

NHKドラマ 東京裁判3話4話

日本の公式公文書館には判決だけのニュルンベルク裁判とは違い、ドラマの内容の通り、判決詳細だけでなく、インド、オランダ、オーストラリア、フィリピンの判事長の意見書が残っている。その意見、結論に至った判事達の苦悩や政治駆け引きが面白い。

現在も東京裁判は研究されているという。オーストラリア判事の当時の家族への手紙が見つかった、というレベルまで詳細に。それは「戦争を法律でさばけるか」であり、それはつまり、法律で戦争を止める事ができるか、という事。しかし、アメリカやロシアがそのグループから脱退している、というのが最後にテロップで出る。つまり、法で戦争を止める事は出来ないという事だ。

こういった現在の事実と意見書を元に多くのセリフが創作されているのだろう。これは歴史の改ざんではなく、意見書という結論に対して多様性の見識を深める事になる。

声が大きい多数派(大国)によって国際法を早急にすすめるべきじゃない、というセリフは政治、国家さえも裁く法律としての立場が色々考えさせられた。また、これは常々言っている事だが、政治には国民も責任がある。帝国だった日本であっても国民に責任があった、とする日本人側知識人のセリフは私的には嬉しいが今の日本も同じなのが悲しい。

また、マッカーサーがマスコミの報道(もちろん、上層部の政治的思惑での行動)を恐れて表向き筋が通った事をせざる負えないというシーンが何度かあったのが羨ましい。ジャーナリズムがあるアメリカならでは。ペンで権力のある政治家の私的判断を止める事ができる、という事だ。日本にはジャーナリズムが無いので未だに政治家が好き勝手できる。マスコミを恐れて政治家が誠意ある決断をせざる負えなかった、なんて日本では聞いた事が無い。

ここについてはちょうどナベツネのロングインタビューが同日に行われていたのが興味深い。政治記者になった時の総裁選の際、目の前で政治家が当たり前のように票に対する現金のやり取りが行われていたという。本人いわく、「こういうものか」と受け入れるしかなかったという。ここが日本のマスコミとジャーナリズムの分岐点だった気がする。まだ政治家の人数に対して少数の有力政治家が日本を動かしていた時代。ナベツネ反戦争の立場であり、国の復興の為に行く末に裏方として尽力する道を選んだ。ペンの力ではなく権力にぶら下がる事を選んだのだ。たった一つの共通イデオロギーは「反戦」。それだけ。ここから日本のマスコミにはジャーナリズムの精神が生まれなくなった。それは国民の教養も育たない事と一致する。反戦という共通基盤が無くなった日本人は今後何を信念として今後語るのか。戦後次世代を憂えてナベツネの番組は終わった。

色々考えさせられたね・・・。

 

それにしても、このドラマを批判している人って、「あの判事があの発言をしたという記録はない。むしろ、こういった事を同僚に言っていた」とかいう反論するんだよね。ドラマだから。創作だから。そしてそれを歴史操作とかいう。残っている意見書が事実であり、その結論に対して閉鎖された議論を推論する。当たり前の創作である。確証バイアスで反論するバカさ。思うのだが、この高齢ライターの寄稿を載せる編集者も並みの見識の人ならそんな事とっくにわかっているのだろう。ああ、また確証バイアスでバカば事言ってるよ、この人。みたいな。それでも金と権力があったりつながっていたりするから話をあわせて極端な一方的意見を「さすがですね、先生!」ってやっているんだろうな。それが仕事というもの。発信する事は言論の自由だから。

 

まだまだ書きたい事があるのだが長くなるので後日。

NHKドラマ 東京裁判1話2話

恥ずかしながら、東京裁判に関してはざっくり過去のドキュメンタリー映画を見た事があっただけであったし、もっと裁かれるべき人間が沢山いるのに、という思いが強かったから恣意的な13名のA級戦犯に興味がなかった。しかし、見た事がない2016年のこのドラマが再放送されるとわかり、事前に検索してみると、月刊正論という過激な場所に寄稿している年配弁護士のこのドラマ批評がNHK以外に一番上位に来たので見てみると

「この番組の問題点は、事実を偏向して伝えている事である。」

「日本が侵略戦争を起こしたという印象を強めるために、番組では様々な工夫を凝らしている」

おお・・・なんという事でしょう。私好みの香ばしい意見。私が知っているNHKのこれ系のドラマでそういった事がなかったので是非確認をしてみようと第一夜である1,2話を見てみた。

 

まったく違う。この感想を書いた人はどれだけ色眼鏡で社会を見ているのか。こういった人は人生に多様性が無くてある意味ストレスがたまらないのだろうなぁ、と思った。

当初A級戦犯のリストが出てきた時点でそれは「戦犯」なのだから、有罪なのが前提であとは収監か死刑か判決を決めるだけ、という一致をする。しかし、戦争での個人の罪には法的根拠が無い。後に決まった法律で決めるのは事後法ではないか、という事に法と司る判事として良心の呵責に苛まれたり、正義を行う判事としてどうなの?という疑問が一部の判事に出てくる。当初はなんとなく政治的に全会一致で東京裁判を行おうとして憲章に賛成したにも関わらず。途中からアジアの判事も入れないと不公平だろうという事でインドとフィリピンの判事が加わった事で事態は変わる。まだ法律が出来ていない中での「侵略の罪」で個人を裁く事はできるのか、という事。この事だけで1話、2話使う。

 

ここではっきり判事達の立場がわかれる。

・法律に根拠が無い事後法で裁く事が否であれば、ドイツを裁いたニュルンベルク裁判が間違っていた事になってしまう。という自己保全&自国保全組

・日本軍の残虐行為、非道行為は裁かれるべきだ、という感情的な報復組

・残虐行為は許されないが、当時の法を照らし合わせて法にのっとって裁くべきだ、という法遵守組

 

いや~、いいね。判決は反対があっても全会一致で発表され、反対論は残らない、という前提の裁判の裏側を勧めていく。もちろん、ドラマなのでフィクションの部分もあるのだろう。しかし、全員の意見を尊重するオーストラリアの判事長をイギリスなどが計略で更迭して早く戦犯を裁いて終わらせたい組とか今の国際状況を考えてもとてもおもしろい。綺羅びやかな日本での判事やゲスト達の生活(日本人が着物でめし使っている)に対比して、焼け跡に暮らす東京庶民の様子が少ないのは意図的な見せ方であり、フィクションとはいえ、イギリスからの独立を目指すインド側判事とあえて焼け跡に足を伸ばして日本人知識人と交流を持つ判事の考え方の違いを目立たせる演出。戦勝国側の目線だけで裁く事の難しさを際立たせている。

 

3、4話が楽しみだ。

 

三浦春馬さん・・・

人の「幸せ」の要素の具現化って結構単純だったりする。ランプの精に3つの願いを叶えてあげる、って言われたら何を願うだろうか。まず大金。そして完璧な外見(異性対策)。そして今現在年齢差別を受けている立場なので若さ。大概な人はそんな所だろうか。人によっては更にカリスマ性とか何かしらの才能を求める人もいるかもしれない。

つまり、三浦春馬さんはそうした庶民が魔法を使ってでも叶えたい幸せのすべてを持っているのだ。しかし、自殺をしてしまう。

大金と知名度といえば、著名な映画俳優などのハリウッドセレブは比較にならないレベルだが、自殺はもちろん、うつ病になったり、薬物のオーバードーズ、アル中に苦しんでいる人も沢山いる。

つまり、人の幸せとは「幸せの条件」で決まるほど単純なものではない、という証明でもある。

逆に不幸については人それぞれのバリエーションがある。他人にとっては理解の出来ない領域で苦しむ。そこに寄り添う事ができる人間になりたいが、それが出来たところで先の「幸せの条件」を持っていなければ世間からは見向きもされない。

 

人間の社会で生きる、生き続ける事ってかなり難しい。

最近色々考えた事、まとめ

ちょっと数ヶ月程精神的に病んでましたが。今は実際に病んでますけど。軽い(?)トピックをまとめて軽く。

 

岡村隆史さんのNHK番組降板署名について

別番組で先輩の今田耕司さんがこういった風潮を「失言で人間性を全部否定するのはいかがなものか」って言ってたけど、これこそ的外れ。誰も人間性を否定などしてなくて岡村さんがどういった人となりかなんてどうでもいい。公共の電波等で仕事をする有名な公人にはそれなりに責任があり、誰もが苦しんでいる災害時に女性蔑視発言は許されないという事。これは名優ケヴィン・スペイシーが無罪になったセクハラ疑惑だけでも降板になったのと同じ。いかなるセクハラも許さない、というのが大手企業の責任であり、スポンサーの役割。NHKのスポンサーは民衆なので降板を訴えた。差別大国日本でセクハラは許さない、女性蔑視は許さないという声が上がりはじめた。素晴らしい事。これに答える最初の局がNHKであり、アメリカの大手企業、放送会社のように「我々はセクハラを許さない」なんて声明を出して岡村氏をすべて降板させるぐらいの事をやったら社会は少し変わるんだけどなぁ。応えないし、問題の大きさもわかってないね。NHK

 

・上記に関係して・・・

最近、黙って我慢していた性的暴行からのサバイバーが声を出しはじめている。刑事事件では不起訴になったが民事では勝訴した伊藤詩織さんの功績はかなり大きいと思う。しかし、改正された法律では未だ被害者に不利だ。こうした弱者に寄り添う事が出来ない社会なのは多分日本人の根底に差別意識が無意識に叩き込まれているからだと最近思う。今は無くなったと思うが幼少時は男子と女子の色分けから始まり高齢者、年配者は敬え等。これは裏を返せば女性蔑視、年齢差別、パワハラにつながる。社会全体で差別を容認して体制(保守)こそが正義と叩き込まれているのだ。それにあらがって成長するのは自らの見識を広げるしかないんだろうなぁ。

 

渡部建さんの不倫事件

私は不倫は大人同士が行う事なので勝手にやればいいし、他人がとやかく言う事でもないと昔から思っている。ただ子供がいる場合は別で子供の精神になんらかの影響があるのは確実であり、その覚悟、責任をもって不倫をすべきだろうなぁ、とは思う。この件で私が気になったのは不倫相手の女性を責める人、同罪だ、とか言う人だ。

は?同罪?私は血気盛んな20代の時、お互い酔っ払って裸でバスタオル1枚でシングルベッドで寝た事があるが手を出してはいけない人だったので何もしなかった。性交渉は男性がしかけないと絶対に出来ないのだ。もちろん女性側が触ってくる事だってある。それでも拒否すればしないで済む。不貞行為というのは男性が能動的に行っているものなのだ。女性の心理も書けるのだが長くなるので割愛。で、事務所で30回以上性交渉していたのがラストは便所ばかりで15分。そりゃ傷つくだろ。っていうか現実に気がつくというのが正しい言い方かもしれない。不倫を能動的にする男は女性側に「不倫を悪い事ではない」と思わせる(洗脳とも言える)技に長けている。なんに女性側を責めるだけでなく、週刊誌に売った事さえも具体的出して攻めた人もいた。へ?普通そこまでするって余程の事があったんだろうなぁ、と思うのが先じゃないか?こういう人は自分の脛に傷持っていて、自分の(過去、現在未来)の相手へ「お前は売るなよ!」って公共の電波使って訴えているとしか思えない。人間の話と貞操観念、夫婦関係の話はすべて別。

 

こんな所かなぁ、ひっかかっていたのは。

人間の尊厳を傷つけられる事とは。人間性の無視とは。

SNSで直接「死ね、消えろ」。こういう事が大概尊厳の否定にあたるという認識が多いと思う。100のイイねよりも1の誹謗中傷が心に残る。これは有名なスポーツ選手が言っていた。しかし、何も特徴も無く目立たない(目立たないように生きている)一般人が直接誹謗中傷を受ける事って少ない。なのでジャブのように他人の尊厳、人間性を否定して削っている事に気が付かない、もしくは気付いているけど止められない人が多い。これが日本式の人格否定のやり方だ。はっきり差別や区別、誹謗中傷としてのパンチラインがあるわけではない。なので受け手はじわじわ心を削られ、尊厳が失われて自信を無くし、その鬱憤はの発散は内にこもるか外に向く。

 

むかし、いとうあさこがレオタードネタの時の冒頭で「今の年齢になって最近、イライラする!」というセリフがあった。更年期的なホルモンバランスの欠如の年齢ではなかった。私は当時からこれは「女性は年齢で差別されるもんなぁ」ぐらいは思っていたが、今自分が同じような歳になって更にわかる。特に直接言われるわけではない。それでもあらゆる挑戦を阻むものに(年齢)というのが日本では根強くあり、細かく自身の尊厳が傷つけられて意欲が削がれていく。

何度も言っているが、私はやっと獲得した路上喫煙禁止の中でも煙を吸わされる時にいつも自分という人間が無視されている感じを受ける。他人に吸わせる権利が無くなったのにそれを守らない=私を他人、守るべき人間を思っていない事が明白だからだ。

例えばこういうのはどうだろうか。たった3ヶ月で会社を辞めた人がいたとする。自分はまだその会社にいる。しかし同じチームの人は「アイツがいればなぁ」「アイツに認めて欲しいなぁ」といい続ける。今は自分がやっているにも関わらず。それは今目の前にいるアナタの人間としての尊厳が無視されている事でもあるし、業務としての感謝もない。例えあったとしたらそんな酷い事を言うのは更に問題だ。逆にそれぐらいで辞めた人間よりも今のアナタのスペックが低いからだ、という意見もあるだろう。しかし、それはスペック比較を細かく優劣を付けて比較するという問題であって、例えその結果劣になったとしても今目の前で仕事に従事している人間を比較して卑下し、尊重しなくていいという理由にはならない。

 

毎回同じ事なのだが、結局は人間を条件、スペックとして優劣をつける事=人間性の優劣を付けて見下す、尊厳を傷つける事、はイコールではないという事だ。これをわかっていない人が多すぎる。だから

・芸能人だから多少の誹謗中傷は受けるべき

・風俗嬢だから性的欲求のはけ口として扱っていい

・家族友達、気になる人等の指定された人間以外の人間性は無視していい

という発想になるのだ。確かに、人によって人間の評価は違う。絶対に男性は身長が高くないと駄目、と認知の歪みがある女性にその思想を否定するつもりはない。それは価値観だ。比較して小さな男性を下に評価として下に見る事もあるだろう。しかし、だからと言ってそれが相手の尊厳を傷つけて、人間性を無視していい理由にはならないのだ。

 

日本社会はこの、自分にとって都合のいい人間のスペック的評価(年齢、外見、年収、趣味等)で他人の尊厳を無視していい、という暗黙の了解があるように思われる人が多い気がする。

というのも、憲法学者の木村草太氏に噛み付いた匿名一般人がいて、もちろん論点がずれているから議論にはならなくて、

・木村草太氏は現状改善としての新しい提言

・一般人はその事を否定するエビデンスの無い個人意見をぶつける

の図式で、それに対して木村草太氏は「私は何も不快に思っていない。そうではなく、自身の憂さ晴らしにSNSを利用して攻撃してきた事を詫びるべき」と一貫していた。そりゃそうだ。未来の改善提言に対して現状こうだから全部無理、なんていう否定は議論ではなく相手の全否定だ。それは人間が考える生物、思考生物と考えれば人間性の否定だ。そんな事をするのは議論をしたいのではなく、相手を否定したいからであり、論破したいという欲求。その根源は結局自身が何かしらイライラしているからというわけだ。だからといって相手を全否定する権限は無いという事なのだ。

 

私は自分がゼロになった時にものすごく考えたし、今年になってストレート・エッジを止めた事で再度確認出来た。自分がスペックとして客観的に社会的優劣が付けやすい時とは違い、ゼロ、いや、社会的にはマイナスになったと感じていても他人との接点は同じように生じる。ちょっとした事、こちらを人間として認識した気遣い。それはしっかり今まで以上に伝わるようになった。逆に言えばこちらを尊厳を無視し、人間性を無視する人達の事も今まで以上にわかるようになった。

 

確かに誹謗中傷という大きなパンチはやらないが細かく他人を傷つける事、無視する事はOKという人が多くないだろうか。そこまで気を使ってられないという人もいるかもしれないが、私の知人で未だに一切SNSをやらずネットにも詳しく無い友人は対応がとても優しい。これは他人に気を遣うというキャパに余裕があるのではないか、と思う。リアルの接点などそんなに時間を取れるものではない。そこに当たり前に人間として接する。それだけ。

様々なSNSマッチングアプリ、会社、友人。人との接点が多ければ多い程、人によっては他人を尊重尊敬するというキャパがオーバーしてしまうのではないだろうか。もちろん、常に他人を尊重して感謝をする、人間性を磨くという信念の人は自身のキャパを増やす事になるのでそういった穴に落ちる事は無いのだが、そこまで自身の人間性を伸ばそう、客観的に注意しようという人の方が少ないのではないだろうか。

 

自身が当たり前のように他人から大事に扱われてない人は同じように他人に接する。恋愛、家族愛、友人関係。すべては承認欲求や認知欲求で説明が付くのだから、欲しい相手からだけ大事に扱われればOKで(つまり多少必要な演技をする)、その他の人間の尊厳を傷つける事、人間性を無視する事が平気に出来るようになる。だからネットの誹謗中傷を法律等で制限しても意味はない。問題は言葉狩りではなく、いかに他人を尊重できるか。尊厳を守る事が出来るか、だからだ。その根底を明確に認めないから法律で暴力が禁止となるとパワハラが起きる。DVが禁止となるとモラハラが起きる。法律に引っかからないように他人の尊厳を傷つける行為をする輩が減らない。ここがたまに芸能人が言っている、「自分がやられたらどう思うか考えてみて」が通じない所だ。なぜなら誹謗中傷する側も常に細かく尊厳を傷つけられ、人間性を無視され続けているからだ。その蓄積は人間性を破壊するには十分の威力がある。楽しい事は蓄積するが悔しい事、侮蔑的な事は蓄積ではなく熟成する事が多い。そのぶつけようも無い焦燥感、怒りは自身の精神をついばみ続け、結果、自身の尊厳を守る為にはその矛先を他人に向けざる負えなくなってしまう。

 

またとりとめもない備忘録。