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底辺の見方、上からの見方

日本社会の底辺層のモノの見方、ちょっと上の層のモノの見方のお勉強

3.11。多くの人の反応に違和感。そして私の考察

追悼。やれること。◯◯円寄付されます。普通の素晴らしさ。悲しみ続けている方に何が出来るか。被災地の方々。忘れてはイケない日。微力は無力ではない。復興支援で出来ること。

 

大体ワードはこんな所か。本人の原因に起因しない災害で一度に多くの方が亡くなったのが東日本大震災。亡くなった方にも遺族の方にも、災害の原因で不幸になった方にも罪はない。その不条理さ。それは十分理解している。

ただ、私が気になるのは、人の幸、不幸には基準もものさしも無い、という事だ。一度に多くの方が亡くなったのは広島、長崎の原爆も、阪神淡路大震災でも同じ。しかし、東日本大震災は生中継されたり、原発問題があったので特別なのだろう。ただ、そうなると人が何かを気にするのは命の量なのだろうか。切迫した状態で目に見える事だからなのだろうか。

 

一般人で言えば。

このご時世にタバコを吸って非喫煙者が嫌な顔をする事をなんとも思わない人。ロングリードの犬を連れて他人の迷惑をなんとも思わない人。目の前で困っている人がいても他人なのでなんとも思わない人。そういった人達が一般的な中で、なぜ東日本大震災の時に限って急に「応援」とか「絆」とか言えるのだろうか。

芸能人で言えば

自らの職の維持の為に言った方がいい事実も言わずに小出しにしたり。金の為に一般人を騙す事も厭わず。そんな人達がなぜ東日本大震災の時に限って騒ぐのだろうか。

 

私が気になるのはその折り合い、だ。子供の貧困が長い間叫ばれる中、少年院に収監されている子供の9割が家庭に問題があるという。そんな社会をなんとも思わない人々。選挙も行かず、思想も理念もない人々。自らの保有資産の為に自民党を支持し続ける人達。なぜ、東日本大震災の時に限って急に他者を救おう、と言い出す事が出来るのだろうか。彼らの心の中ではどのような折り合いがなされているのだろうか。人間を細かくクラスタ分けして、同じ他者の不幸でも、自分が想う事によってリターンがあるクラスタとそうじゃ無い、に分けているとしか思えない。

 

そんなに遠くない昔、貧困地域の子供に対する寄付を呼びかける団体があった。ちっとも寄付金が集まらなかった。団体は現地の美少女の写真を載せた。この子達を助けてください、と。途端、ものすごい寄付金が集まり、彼女を養子にしたいというオファーも世界中から殺到した。

私からすれば、東日本大震災で騒いでいる人達はこういった輩と同列だ。未曾有の大惨事だからこそ、何かしたい。性根はそんな人間性ではない。他人の不幸自体をクラスタ分けして自らは斜め上から判断している人間だ。

ただ、ひとつ言っておきたいのは、それが偽善であろうが、人間の浅ましさであろが、受益者側には救われている人達が多く存在する、という事。救われている人達は運が悪かった事が運がいいとも言える。人生を棒に振るような犯罪を犯すまで追い詰められた子供達は誰からも支援されなかったわけだから。犯罪を犯した後に異変を知っているのに手を差し伸べない人達に「普段からおかしかった」とテレビで言われるんだから。それに比べればなんと幸せな事か。

 

私の元同僚、その周辺でも3.11をビジネスチャンスと捉えてうまくやっている人は多い。私はどうしても出来なかった。自分の中の正義と折り合いが付けれなかったのだ。しかし、自分の金が減る一方で何の支援もない無職引きこもりの中年は考えなければならないのだ。これが世の中であり、人間は残酷なものであると。目の前の子供を踏んづけながら、「被災地の皆様を元気に!」と叫べる心のバイパス作業が必要なのだ。私は今まで会社で実績を上げてこれたのは実直に仕事をしたからではあったが、そんな真面目さはもう必要ないのだ。真面目は報われないばかりか、むしろ邪魔なモノなのだ。それが世の中の理なのだ。

 

私は自分の正義を曲げる事が出来るか。これから努力していきたい。それが私の3.11だ。